818:月の湖
明かりの消えた湖の中へと飛び込むことについては、アリシェラの中にも若干の恐怖はあった。
だが、それでも《超直感》は確信していたのだ。湖の中で揺れる気配、それこそがマーナガルムであったと。
月の光も存在しない夜の闇は、僅か前方すらも見通せない程。
そんな中、大きく跳躍して湖の中へと飛び込んだアリシェラは――水に触れたものとは明らかに異なる感覚に、己の判断の正しさを確信していた。
(マーナガルムは……)
まるで、重力が弱まったかのような感覚。
暗闇の中、ゆっくりと降下しながら地面へと着地したアリシェラは、警戒心を絶やさぬまま周囲へと意識を巡らせる。
夜闇であろうとも見通すことのできる魔法は持っているものの、この暗闇はそれでも視界を得ることができない。
包み込まれるような闇の中、アリシェラは意識を集中して周囲の気配を探り――思わず、顔を顰めた。
「《超直感》でも分からない、どころか……何なのかしらね、これは」
アリシェラの感覚には、周囲全方位にマーナガルムの気配があるように感じられた。
どこから向けられているのかも判断できないような視線。
全身をくまなく観察されているような感覚に、アリシェラは舌打ちを零す。
――しかし、己の判断が間違いであったとも彼女は考えていなかった。
『真化種族クエスト《月の問いかけ》を開始します』
耳に届く音声は、己の考えが間違いでなかったことの証左。
音もなく刃を抜いたアリシェラは、体勢を低く構えて周囲へと意識を集中させる。
暗闇の中に、動く気配は無い。その中で――
『――答えよ』
低く、体に響くような声が響く。
それと共に、周囲の気配は僅かに蠢き、アリシェラはいつでも動けるように脱力する。
『我は、何者であるか』
その言葉が響いた、その瞬間――周囲を包んでいた不可視の気配が、急激に形を成した。
視界は無い、暗闇に包まれたままの領域。
その中で、アリシェラは《超直感》の感覚を頼りにその場から地を蹴った。
「っ……!?」
それと共に、アリシェラは己の感覚の異常に混乱する。
彼女は確かに、十分に余裕をもって回避をしようとしていた。しかし、実際に移動した感覚は、普段よりも遥かに長い距離であったのだ。
水の浮力を、水の抵抗のないままに受けているような感覚に、混乱しつつも回避を続ける。
「リドル系、ってこと? それも、この攻撃を回避しながら!」
周囲は相変わらず闇に包まれ、いかなるものの姿も見通すことはできない。
だが、突如として実体化するその気配は、あらゆる方向からアリシェラを引き裂こうと狙ってきていた。
クオンほど精密な肉体感覚を持っていないアリシェラには、不可視の相手の攻撃をギリギリで回避しながら反撃することは不可能だ。
《超直感》で相手の攻撃を先読みし、回避することで精一杯であった。
(質問は単純、要するにマーナガルムの正体を言い当てろってことね……!)
アリシェラはここに来るまでの間、クオン達の言葉に耳を傾けていた。
精霊に近い種、しかしながら精霊そのものではない特殊な存在。
結局その考察も、現在持ちうる情報では答えを出すには至らないと、そう結論付けて中断してしまったのだが。
だが、あの言葉は間違いなくヒントになると、アリシェラは思考を巡らせる。
(精霊に近い種っていうことは間違いないでしょう。物理的な肉体を持つ種ではない)
体を霧散させて転移するその性質は、肉体を持つ生物であるとは考えづらい。
ルミナの感覚からしても、これについては決して間違いではないと確信していた。
だが、それだけでは到底答えには辿り着けない。
頭上から振り下ろされる、恐らくは前足による攻撃と思われる一撃を回避しながら、アリシェラは更に思考を続ける。
(ヒントになる要素は……月齢、月属性――月に関連する何か)
マーナガルム本来の姿である天月狼は見たことが無いが、どちらにせよ月に関連した存在であることは間違いない。
月によって強さを変えるその存在は、間違いなく月に関連する何かだと考えられる。
だが、それが何なのかまでは、判断するには材料が足りなかった。
「チッ」
横薙ぎに襲い掛かってきた一撃を大きく回避し――思った以上に大きく動いてしまったことに舌打ちを零す。
このふわふわとした動きは、感覚が狂いそうになるとアリシェラは胸中で毒づく。
闇月狼か、天月狼か。答えは出ないままに、アリシェラは回避に意識を割きながらも考えを巡らせる。
「精霊に近いもの、なら――月属性の、妖精?」
『――否である』
思考の中にあった、仮説の一つ。
しかし、口に出したその答えは、他でもないマーナガルムによって即座に否定された。
そして、それと同時――二方向から、鋭い爪がアリシェラへと襲い掛かる。
「ッ、誤答したら攻撃が増えるの!?」
思わぬ事態に、アリシェラは咄嗟に大きく跳躍して回避する。
二方向から襲い掛かってきた爪は空を切ったが、蠢く気配は同じように二つ――どうやら、これ以降は二つの攻撃が襲い掛かってくることになるようだ。
その事実に舌打ちし、アリシェラはとにかく走り回りながら情報を精査する。
(月属性は合ってるはず。でも、妖精ではない。いや、そもそも――既存の種族で考えるようなこと自体が間違いなの?)
どれだけ考えても、アリシェラにはその条件に合うような種族を思い浮かべることができなかった。
しかし、そうであればどのように回答するべきなのか。
正確な言葉に辿り着くこともできないまま、募る焦りにアリシェラの表情は歪む。
(姿を隠したところで無駄、隠れる場所もない、速く、答えを出さないと――)
元より、敵に捕捉された状態で戦うことは、アリシェラの戦闘スタイルには反している。
最初から敵に姿を見せた状態でのスタートは、彼女にとって非常に不利な状況なのだ。
いま彼女がこうして耐えられているのは、久遠神通流の稽古に参加をし続けているが故だろう。
体の動かし方を知らないままの頃では、ここまで耐えられはしなかっただろう。
(あとはこの、無重力みたいな状況。感覚は狂いそうだけど、これが無いと回避の距離が足りなかった……無重力?)
アリシェラは、この感覚を湖に飛び込んだが故のものだと考えていた。
だが、体に纏わりつく水の抵抗や感覚が無いのであれば、これはどちらかと言えば無重力――否、重力が弱いと表現するべきだろう。
「月の湖……」
マップに表示されていた、その地名。
それは、その情景を端的に表現していたが故のものであるとアリシェラは考えていた。
だが、その名前すらもヒントであったとするならば――
(あの湖が、マーナガルムの住処であると言うなら。妖精だとか、精霊だとか、そんなものじゃなくて――)
月齢によって力を、その姿を変える。
満月の時には全ての力を発揮し、天月狼マーナガルムとして現れる。
実態を持たない、魔力によって形成された肉体。精霊に近く、しかして精霊ではない存在。
そして、月の湖に飛び込むことによって訪れた、この重力の弱い領域――
「天月狼、マーナガルム、貴方は……」
アリシェラが脳裏に描いた、一つの仮説。
決して確信を抱いているとは言えない、与太話にも近い話。
だが――彼女は己の直感に従って、それを自信をもって断言する。
「――月光、そのものよ!」
その答えの、刹那――周囲の闇が、弾けるように取り払われた。
漆黒の空に広がる星々。しかし、空に月が浮かぶ様子は無く。
代わりに大きく映っていたのは、蒼く輝く巨大な惑星であった。
「――――!」
知識では知り、けれど己の肉眼で見ることは絶対にないと思っていた景色。
それを目の当たりにして、アリシェラは呼吸すらも忘れて硬直する。
けれど、そこにマーナガルムの追撃が行われることは無かった。
『見事なり』
「……っ」
アリシェラは、咄嗟に振り返る。
荒涼とした地面の上、黄金に輝く巨大な狼は、明らかな知性の色を瞳に滲ませて彼女のことを見つめていた。
『忘れるな、月の裏面を選んだ者よ。それでもなお、月の輝きはお前を見ているのだと』
月の光を宿す――否、月の光そのものたる天月狼は、その輝きにて周囲を染め上げ。
――気が付いた時には、アリシェラは元いた場所、湖のほとりに立っていたのだった。