817:マーナガルムの森
マーナガルムの領域へと足を踏み入れるためには、夜の時間帯に訪れる必要がある。
多少の待ち時間ではあるのだが、生憎とレベル上げに勤しむということはできなかった。
それは単純に、わざわざ通話を繋いできた教授の講義を聞くこととなったためだ。
『――つまり種族特性強化クエストには二種類が存在するということです』
「あー……ええと、単純に種族スキルを強化する類と、特化型の真化種族に変化する類のもの、っていうイメージで?」
『ええ、その認識で間違いないでしょう』
どうやら、『MT探索会』もある程度は種族特性強化クエストを把握していたらしい。
とはいえ、未だに全容を把握しきれていない真化種族に関する要素。
彼らも、その情報の公開には慎重になっていたようだ。
『クオン殿、貴方の種族を例にすれば分かりやすいでしょうね。貴方の真化種族の元となっているのは鬼人族であり、そこから派生したものが羅刹族です。基本的には元の種族と変わりはありませんが、種族スキルがより特化した性能に変化しているのが特徴ですね。そして――』
「ああいや、自分の種族については流石に分かってる。つまり、鬼人族から羅刹族に変化するようなクエストもあるってことだろう?」
『正確には、あるのではないかと考えられる、ということですね。可能性は高いでしょう』
まあ、それが確認できているのであれば、もう一つの種族スキル強化も近しい場所で請けられる可能性が高い。
場所の特定にここまで悩む必要もないのだが。
「……しかし、その変化後の種族でも種族スキル強化を受けられるのか?」
『特化型の真化種族でも、元の種族より優れているというわけではありませんよ。特定の分野に特化している代わりに、ある程度のデメリットを負っていますから』
教授の言葉に、成程と頷く。
俺や緋真の場合であれば、魔法での回復を阻害するという効果だろう。
攻撃力の上昇は強力ではあるのだが、回復を封じられるのは中々面倒性質だ。
逆に鬼人族の場合なら、強化の幅は少なくなるものの、そういったデメリットも存在しないのだろう。
『ですので、特化型でも種族スキル強化は受けられると考えています。鬼人族のクエストについては……確認できてはいませんが、一応目星はついていますので』
「であれば、確認が取れ次第情報の提供を」
『ええ、今回も興味深い情報を頂けましたので、最優先でお話ししましょう』
『キャメロット』と提携をし始めても、『MT探索会』の様子は相変わらずだ。
彼らの場合、きちんと確証が取れた情報だけを提供してくるので、正確性については疑う必要は無いだろう。
目星がついているのであれば、後はその結果を待てばいいだけの話だ。
どちらにせよ、今はマーナガルムに集中する必要があるのだから。
教授との通話を終了させ、紫から黒へと変わりつつある空を見上げる。
「月は……見えないか。新月ではなかったが」
確か、日が出ている間に細く白い月が浮かんでいた気がする。
どの程度の月齢であったかは定かではないが、あの様子ならばマーナガルム自体はそれほど強くは無いだろう。
まあ、今回は別にマーナガルムと戦うわけではないのだが。
称号は付け替えてマーナガルムとの戦闘を避けるようにし、後は森の最奥へと到達するだけだ。
元々、この森には他の魔物は出現しなかったはずだし、ただ進むだけなら苦労することは無いだろう。
問題があるとすれば、到達した後のことだ。
(……流石に、容易いクエストであるとは思えんな)
ちらりとアリスの方へ視線を向ければ、彼女は茫洋とした瞳で夜の森を眺めているところだった。
あまり緊張している様子は無いが、今回のクエストの主役となるのはアリスの方だ。
むしろ、俺たちは同道できるかどうかすらも分からない。
最悪、アリスが一人でクエストに臨むことになるだろうが――彼女自身、それは分かっているだろう。
「ん、話は終わったのかしら? それなら、出発しましょう」
「そうだな、行くとするか」
俺の視線に気づいたアリスは、普段通りの様子で森へと向けて歩き出す。
とはいえ、普段はあまり主体的には動かない彼女のことだ。
こうして率先して前に出てきている辺り、これが自分のクエストであると自覚しているのだろう。
互いに顔を見合わせた俺と緋真は、小さく頷いてアリスの背を追って歩き出す。
不明点は多いが、何にしてもマーナガルムの元へと辿り着かなくては始まらない。
暗い夜の森の中を、ルミナの灯した光を頼りに奥へと進み――相も変わらず気配の薄いこの領域に溜息を吐く。
「ルミナ、お前は確かマーナガルムのことを精霊や真龍の近縁種だと言っていたな?」
「そこまでは……ですが、近しい存在であることは事実です。どちらかと言えば、精霊に近い存在ではないかと」
「まあ、実体を消して転移したりしていたからな」
あの空間転移能力は厄介だった。そもそも、マーナガルムは存在そのものが魔法のようなものであったため、精霊に近いと言われれば納得できる話ではある。
明らかに肉体のある真龍よりは、霊的な存在に近いだろう。
だが、同時に疑問に思う。果たして、マーナガルムとはどういった存在なのかと。
「だが、近しい存在であるとはいえ、精霊そのものというわけではないんだろう?」
「それは……はい、そうですね。マーナガルムは精霊そのものではありません」
ルミナが断言するということは、確かな情報であるようだ。
マーナガルムは精霊ではなく、それに近い種の存在。
体は高密度の魔力で構成されていて、そもそも実体のある存在ではないようだ。
月齢で強さが変わる話はこの際置いておくとして、他に正体に関連するような情報があったかどうか。
(あの様子からして、人間に対して敵対的ってわけじゃない。だが同時に、悪魔に対して敵対心を抱いているわけでもない)
以前にマーナガルムと戦った時は、傍に悪魔だったころのロムペリアが存在していた。
しかし、マーナガルムはそれに対して集中して攻撃するようなこともせず、ただ普通に戦っていたように思える。
もしもマーナガルムが女神の勢力に属していたとするならば、あの時にロムペリアを見逃す理由は無かっただろう。
どちらにも与することのない第三勢力――いや、勢力と言う表現も不要な無関係の個か。
「……不明点が多すぎるか」
答えを出すには、あまりにも情報が少なすぎる。
これについては、『MT探索会』のように現地人の間で話されているような伝承まで調べて、ようやく分かるような内容だろう。
今の俺たちが持っている情報だけでは、答えに辿り着くことは難しいだろう。
「……そろそろね」
ぽつりと、アリスが呟く声が耳に入る。
ルミナの灯す明かりのみが視野となっている夜の森の中。
広い間隔で佇む巨木の、その更に奥。音のない森の奥ではあるが、嗅覚は僅かに水の匂いを嗅ぎ取っていた。
やがて、等間隔に連なっていた巨木が消え、広大な空間が俺たちの目の前に広がる。
ルミナが照明を広げ、広範囲に照らし出されたその場所は――
「湖、か」
「……静かですね、本当に」
風の音すらもない、僅かな水音だけが木霊する、静謐な空間。
この場所こそが、マーナガルムの住まう森の最奥。
静寂に満ちた湖こそが、マーナガルムの住処だということか。
「少し、意外ではあるな。水の属性とは関係が無いと思っていたから」
「マーナガルムって月属性ですよね。闇属性って感じともちょっと違いますし」
恐らくは緋真の言葉の通りであるのだが、そもそも月属性というものが何なのかもよく分からないのだが。
アリスの使う《闇月魔法》は精神と空間に作用するタイプの魔法だということは分かるが、どういう理屈なのかは不明なのだ。
「ともあれ、ここが目的地ならマーナガルムがどこかにいると思うんだがな」
「……ええ、いるわ。間違いなく」
じっと周囲を観察していたアリスが、俺の言葉にぽつりと答える。
正直、俺の感覚には捉えられていない。どこにいるのかも、見ているのかどうかすら。
だが、アリスはただじっと湖を睨みつけながら、片時も注意を離すことなく告げる。
「……そこにいるのでしょう、マーナガルム」
その言葉が響いた瞬間、ルミナの灯していた魔法の光が掻き消され、周囲は闇へと包まれた。
そして――暗闇の中、アリスはまるで躊躇う様子もなく、湖の中へと跳躍して飛び込んだのだった。