799:削り取る悪夢
ふわりと浮かび上がった巨大な爪は、そのままこちらへと向かって振り下ろされる。
まるでビルが頭上に落下してくるかのような圧力だ。能力や魔力を抜きにしたとしても、その純粋な質量だけで俺たちを磨り潰して余りある威力である。
ルミナやセイランによる魔法攻撃をものともせず、その切っ先は俺たちへと向けて振り下ろされ――
「ガアアアッ!」
巨大なシリウスの拳が、横からそれを迎撃した。
幻である筈の地面に衝撃が走り、爆ぜ割れる。それでもシリウスは全力で拳を振り抜き、足爪の一撃を横へと弾き飛ばした。
爪の先端を受け止める形ではなく、横から殴りつけて逸らす方法を取ったのは良い判断だろう。
内心で称賛しつつ足爪へと追撃を放とうとし――シリウスから伝わる困惑の感情に足を止めた。
「シリウス、どうした?」
「グル……ッ」
シリウスは、先程足爪を殴りつけた拳を見下ろして唸り声を上げている。
そのステータスを確認して、俺は思わず眉根を寄せた。
おかしな状態異常を付与されているというわけではない。ただ――全快であったはずのMPが、妙に減少していたのだ。
減っている割合は5%程度であるとはいえ、まだスキルを使っていないシリウスの魔力がそれほど減る筈がない。
MPが減少する要素があるとすれば、それは一つだけだろう。
(《不毀》が発動していた……?)
シリウスの体の損壊を防ぐ《不毀》のスキルは、受け止めたダメージ量に応じてMPを消費する。
先ほどMPを消費していた要因として考えられるのは、このスキル程度なのだ。
しかし、それはつまり――
「ほんの僅かでも、直接接触したらダメージを受ける可能性がある! 注意しろ!」
「どうしろと……!」
言いつつも直接攻撃ではなく魔法攻撃を選択した緋真であるが、悪態を吐きたくなる気持ちは十分に理解できる。
敵は攻撃態勢であったとはいえ、その攻撃はシリウスに命中していない。
というより、命中していたらもっとMPを削り取られていたはずだ。
横合いから逸らしただけであれば、通常はダメージを受けることなどないのである。
単純に、その横の部分にも攻撃の判定があった、というだけならまだいい。だが、もしも接触だけでダメージを与えられるなら、攻撃には慎重を期する必要がある。
「……俺がやるしかない、か」
俺ならば、ある程度のダメージはすぐに回復することができる。
尤も、HPは《練命剣》で減りやすいため注意が必要だが、比較的リスクは少ないだろう。
そう判断し、改めて巨大な足爪へと向けて駆け出してゆく。
「『練命破断』」
HPの消費は控えめに、しかし十分な火力を確保するため餓狼丸を金で包み込む。
餓狼丸の吸収そのものも効いてはいるのだが、奴のHP総量が多すぎるためか、目に見えてHPが減っているようには感じられない。
俺がスキルを発動するのと同時、何処からか飛来した矢が足爪に命中し、その場に赤い刻印を残す。
アリスによる弱点付与があれば、《会心破断》の効果はここでも発揮可能だ。
だが、今はそれよりも、奴の表面で弾かれた矢の方に注意を引かれていた。
(矢が、折れた……?)
アリスのクロスボウは、それなりに高級な装備であるため威力は十分にある。
しかしながら、通常のアリスの攻撃力では、それほどダメージを与えられないことも事実であった。
しかしだからこそ、使っている矢は決して安物ではない。最低限でもダメージを与えられるよう、それなりに良い品を使っているのだ。
その矢が、一度の接触でへし折れた。まるで枯れ枝のようにぽっきりと。
それをただの偶然と判断するほど、暢気な性格はしていなかった。
「ッ……!」
斬法――剛の型、輪旋。
弧を描き、振り下ろす刃。足爪はその巨大さ故か動きは鈍重で、ようやく体勢を立て直した程度の状態だった。
その体に刻まれた刻印へと向け、餓狼丸の切っ先は吸い込まれるように直撃する。
――瞬間、その奇妙な手応えに、俺は思わず眉根を寄せた。
(当たりはした、刃は通っている。だが……何だこの手応えは)
足爪に届いた刃は、確かにその身へと一筋の傷をつけた。
だが、その刃が届く直前に、奇妙な抵抗感を感じたのだ。
何かの力が、その体の表面を全体的に覆っているのだろう。その力は、ある程度のエネルギーを遮ってしまっているように感じられる。
しかし驚くべきことに、これだけ接近しても魔力の気配は感じ取れない。つまり、これはMPを消費しないスキルによる現象ということだろう。
「チッ、面倒な……!」
これが魔法の類であるならば、《蒐魂剣》で突破することは可能だっただろう。
しかし、魔力の気配が感じ取れないのであれば《蒐魂剣》を使っても意味をなさない。
純粋な攻撃力でその防御を突破し、ダメージを与えなければならないのだ。
問題は、コイツ自身の防御力とHPもかなり高いという点だろう。
その能力によってダメージが減衰しているというのに、単純にタフなのである。
(再生している様子が無いのだけはせめてもの救いか)
胸中で呟きながら、足爪より距離を取る。
その直後、足爪は再び動き出し、周囲を引っ掻くようにこちらを薙ぎ払おうと狙ってきた。
幸い、距離は開けていたため回避は問題ないのだが、体が巨大であるため接近状態では避けづらいだろう。
爪先であるため動きは大変読みづらいのだが、それでも見極めなければ。
「グルァアアアアアッ!!」
威勢のいい咆哮と共に、バチバチと弾けるような魔力の気配。
それは、シリウスの尾に収束された《不毀の絶剣》の象徴であった。
攻撃の後に体勢を戻そうとする足爪へと向け、シリウスは大きく踏み込みながら尾の刃を振り抜く。
空間を裂くその一閃は、尾の刃ごと足爪の巨体へと突き刺さり――劈くような甲高い音が、俺たちの耳を貫いた、
「ぐッ!?」
思わず耳鳴りがするようなハウリングに足が止まる。
何が起こったのかは分からなかったが、シリウスの魔力が足爪の表面に触れた瞬間に干渉を起こした様子ではあった。
拮抗は一瞬ながら尾は振り抜かれ、空間ごとその巨体を断ち斬り――足爪をなぞった巨大な空間の裂け目は、しかし巻き戻るように元通りの空間へと戻って行った。
「何だと……?」
「今の攻撃が、効いてない!?」
裂け目が消え、通常通りになった空間。しかしながら、その裂け目を刻まれていた足爪には、一切の切れ目が刻まれていなかったのだ。
ダメージが全く通っていなかったわけではない。しかしながら、それは直接尾の刃が当たった分だけのダメージのようで、空間ごと引き裂く《不毀の絶剣》本来のダメージは無効化されているようであった。
空間攻撃に対する耐性、とでも呼ぶべきなのだろうか。
理屈は不明だが、この巨大な化け物相手には、《不毀の絶剣》は有効な攻撃にはなり得ないということらしい。
「グル……ッ!」
流石に、自慢の一撃を無効化されたことについてはショックだったらしい。
衝撃を受けた様子のシリウスであるが、それでも戦意まで折られることは無かった。
怒りに気炎を上げながら、巨大な足爪を鋭い視線で睨みつけている。
しかし、これはどう攻めたものか――そう悩んでいた、瞬間だった。
『――――』
声とも呼べぬような音が響く。それを発したのは、間違いなく足爪であった。
それと共に、その巨体に幾重にも巻き付いていた節足が解け、リボンのように宙を舞い始める。
一体何を始めるつもりなのか、警戒と共に餓狼丸を構え直し――
『――!』
――鞭のようにしなる無数の攻撃が、頭上から俺たちへと降り注いだのだった。