789:閉ざされた異界
深く、森の奥へと向けて歩を進める。
より木々が増えてきたこの森は、雨も大半が遮られているため、非常に薄暗く光源が必要になるほどだ。
既に外界からの光は届かず、木々によって封鎖された薄暗い空間が広がるばかりだ。
葉に降り注ぐ雨音ばかりが耳に届き、その外側の音は一切入ってくることが無い。
息の詰まるような、水槽の底で溺れているような錯覚すら覚える、異質な空間。
「……何だか、変なところですね」
「そうだな。魔物と出会わないのも奇妙だが、それ以上にこのエリアは何か変だ」
この閉塞感は不自然だ。雨が降り続けていることも含めて、意図して演出された感覚だろう。
まるで神隠しの伝承だ。知らず知らずのうちに異界へと迷い込んでしまったかのような、不自然な感覚である。
そしてそれと同時に、確信も強まる。ここには、確実に何かが存在していると。
「お父様、また精霊の痕跡です。やはり、時空属性の魔力のようですね」
「時空属性っていうところも、またきな臭いな。精霊でも珍しいんじゃないのか?」
「それは……そうですね。複合属性を持っているだけならまだしも、その力を核として生まれた精霊は希少です」
時空属性は、光と闇の複合属性魔法。それを持っているだけでも珍しいだろうに、その強い力を持っている精霊など、まず出会うことは無いだろう。
その痕跡を目の当たりにして、しかしルミナはますます困惑を隠せずに眉根を寄せていた。
「ですけど、これは……そう考えると、変ですね」
「何が変なんだ?」
「この痕跡、最初に見かけたものとは別の精霊のものだと思われます。魔力の質が少しだけ違うので」
「……それって、その希少な属性を持ってる精霊が複数いるってこと?」
アリスの率直な問いに、ルミナは困惑した様子のまま首肯する。
その感覚が確かなのであれば、そうとしか説明はできないのだろう。
しかし、その珍しい属性の精霊が複数存在するとなると、ますますこのエリアの不可思議さが高まる。
果たして、この場所には何が眠っているというのか。
「向こうから接触してきてくれるなら分かりやすいんだがな」
「姿は現さないですよね……所々痕跡は残してるから、誘ってるのかもしれませんけど」
この精霊の痕跡は、《魔力操作》のようなスキルを持っていれば感知することはできる。
尤も、それだけでは近付かなければ気付けないため、他のスキルも併用した方がいいものではあるが――ともあれ、この痕跡は人にも感知できるようにはなっていたのだ。
そんな魔力痕跡を、精霊たちは恐らく敢えて残しているのだろう。
発見した者を、奥へ奥へと誘うように。
(俺が相手の気配を捉えたように、向こうもこちらを捉えた筈だ。それでも接触してこないのは――)
友好か、敵対か、それすらも判別することはできない。
女神の勢力であるならば積極的に敵対するつもりは無いが、相手の出方が分からない以上は警戒を絶やすべきではないだろう。
しかし何にせよ、精霊たちは俺たちを誘っていることは事実だろう。
こうして痕跡を残しながら、俺たちを追い返そうともしないのだから。
(……先に進めば、目的が分かるのかね)
奥へ奥へと誘い込まれている。それを理解しながら、引き返すという選択肢を取ることはできない。
案内であるならよし。これが罠であるならば――正面から食い破るまでだ。
一度捉えた気配は、特徴さえ掴めば再度発見することも難しくはない。
ある程度接近すれば、今度こそ完全に捉えることもできるだろう。
「次の魔力痕跡は――あちらですね」
「間隔が狭まってきてるような……?」
「そのようだな。偶然なのか、狙っているのかは知らんが」
ルミナが浮かべている光の玉を光源に、薄闇に閉ざされた森の中を進む。
目にも耳にも捉えられない、感覚的な気配だけを道標に、更に更に奥深くへと。
マップを開いても、ただ森のエリアが広がっているばかりで何も発見することはできない。
俺たちの位置を示すアイコンが、ただ森の奥へと向けて進んでいる様子が見れるだけだ。
――刹那、開いていたはずのマップ画面が、強制的に消失させられた。
「っ!? 何だ……?」
再度マップを開こうとしても、マップボタンが反応しない。
エラー音が鳴るばかりで、完全に機能しなくなってしまったのだ。
一応、戦闘中だとしても開くことはできるはずの機能だったのだが――
「先生! マップが……!」
「そっちもか。どうやら、そういう場所になってるみたいだな」
周囲の景色は、何かが変わったわけではない。
だが、恐らく俺たちは何かのエリアに足を踏み入れてしまったのだろう。
現在位置を把握することもできない、不思議な領域。
あの仙人が暮らしていた森もそれに近いものではあったが、こちらは更に異質であった。
「システムにすら制限を掛けているとなると、相当特殊なエリアなんだろうな」
「それこそ、あのレーデュラムみたいな?」
「あり得なくはない。試してはいなかったが、あの過去の映像のエリアはマップが無かったかもしれん」
「流石に、ここが過去の映像ってことはなさそうですけど……」
あの過去の再現については、そういうイベントだったからこそだろう。
だが、ここにはその前提のようなものも、変化の様子も感じ取れなかった。
何かがあるとすれば、この先だろう。
「分からんことが多すぎるが……まあ、行ってみるしかないだろう」
気配はこの先だ。こうも大きな変化が起きたのであれば、何かしらの事象が発生してもおかしくはない。
期待と警戒、それを半々に抱きつつ、ルミナが指し示した方角へと足を進める。
果たして、見えてきたのは――ひときわ大きく聳える、節くれだった巨木であった。
「頭上が見えなかったから分からなかったですけど……随分、大きな木ですね」
「魔物ではないわね。でも――」
「ああ。どうやら、ここにいるようだな」
こうして目視すれば、アリスの《超直感》も感知できたようだ。
先ほどから俺たちを誘っていた精霊、それはここにいるらしい。
敵意も悪意も、戦意すらない。だが、その強大な気配だけは、確かな圧迫感となって俺たちの肌を叩いていた。
「ルミナ、意志疎通は可能か?」
「分かりませんが、試してみます」
ルミナのような、人の姿を取る精霊は珍しい。
ましてや、こうして人と共に戦う存在となれば猶更だ。
どちらかといえばルミナの方が精霊としては異端であり、相手側がルミナのことを迎え入れてくれるかは不明である。
ルミナは魔力を発し、木々の傍にいると思われる精霊へとコンタクトを試みる。
翼と共に全身が輝くルミナの魔力を受け――木の周りを回っていたらしい精霊は、動きを止めて巨木の前に着陸した。
そこでようやく、精霊は俺たちの目にも捉えられる姿を取る。
「……あれが、時空属性の精霊か」
「見た目、羽の生えた砂時計ですね」
外見は、円形の木枠に嵌った砂時計で、その木枠から翼が生えているような様相をしている。
ああも無機物的な姿だと、果たして本当に意思疎通が可能なのかどうか不安になってくるが、精霊は間違いなくルミナの存在に反応していた。
魔力を発するルミナが見つめる中、姿を現した精霊は、しかし言葉を発することもなく後方へ……つまり巨木の中に吸い込まれるように姿を消す。
そして、次の瞬間――節くれだった巨木は、うねるようにその身を動かした。
「……! どうやら、入れと言っているようです」
「そのようだな。見るからに、誘われているようだし」
俺たちの目の前に現れたのは、人がすっぽりと入れるほどの、巨大なうろ。
そこが、光を発しながら待ち受けるように口を開いていたのだ。
さて、果たしてこれはまともな案内なのか、或いは俺たちを誘い込もうとする罠なのか。
あまりにも不明点は多いが――流石に、ここで引き返すという選択肢は無いだろう。
「よし、入ってみるぞ」
「思った以上に大きなイベントっぽいですけど、何があるんですかね?」
「……まあ、ここまで来たからには仕方ないわよね」
――頷き合い、俺たちは潜るように光の中へと足を踏み入れたのだった。