764:融解せし愛の檻 その25
微かに、だが確実に響き始める台地の揺れ。
アルフィニールを包む火柱を中心として、周囲へと広がり始める地面の罅。
明らかな異常の発露に距離を取ろうとしたが、その罅は異常な速度で周囲全域へと広がっていった。
逃げる暇もない、飛んで避ける程度しか道は無いだろう。
だが――それよりも早く、広がった罅の隙間からは薄紫色の光が溢れ出した。
「これは……ッ!?」
セイランを呼び寄せるよりも早く、視界を覆い尽くした薄紫の光。
目の眩むそれから目を庇い――足元が崩落したのは、その直後のことであった。
内臓を揺さぶるような浮遊感に顔を顰めながら、急いで周囲の状況を確認しようとするが、光に包まれ続けているため目視で確認することはできない。
声は聞こえてくるため周囲のプレイヤーたちも無事ではあるようだが、生憎と詳細な状況を確認することは不可能だった。
(攻撃じゃない、攻撃なら今このタイミングで仕掛けてこない理由がない。何のつもりだ……!)
仮に奴がこちらを攻撃するつもりであったならば、俺たちは今このタイミングで全滅していただろう。
だが、アルフィニールは仕掛けてくる気配がない。
これほど大規模な現象を発生させておきながら、奴には攻撃するという意識すらなかった。
できることは、奴の出方を探りながら警戒を続けることだけ。
――そんな状況に変化が生じたのは、耳に絡みつくような甘ったるい声が響いたのと同時であった。
『私たちの在り方は、生まれながらの命題――真に人として、人のあるべきかたちを求めること』
落下の速度が緩やかになる感覚。ふわふわと、羽のごとく落ちていくような浮遊感。
光に包まれたまま身動きも取れず、耳に届いていたのはアルフィニールの声だ。
それは、こちらに語り掛ける言葉というより、奴の独白と呼ぶべきものであった。
『かつての私に、その意味は分からなかった。私はただ、幸せに生きたかっただけ』
薄紫の光の中で見えてきたのは、一人の女に関しての映像だった。
恐らくこれは、アルフィニール本人の記憶。奴自身の半生とも呼ぶべき映像であった。
『幼き日、小さな猫を飼っていた。幼少の頃を共に過ごした家族――』
幼い少女と、それに付き従う猫のシルエット。
何ら不思議なものではない、ありふれた家族の光景。
だが――その映像が切り替わった瞬間、赤く×のマークが刻まれていた。
『けれど、あの子は動かなくなってしまった』
ごくありふれた、何処にでもあるような光景だろう。
一つの別れと成長、悲しくも避けられない小さな悲劇。
『――だから、私たちは一つになった。私たちは、離れ離れにはならなかった』
――けれど、その猫を覆う赤い色は、アルフィニールの影の中へと溶け込んだ。
ここまで嫌という程見てきたからこそ分かる。あらゆる存在のリソースを溶かし、取り込むこの女の性質。
この時よりも昔からその力はあったのか、あるいはそのタイミングで目覚めたのか。
何にせよ、コイツは幼い頃から根本的に歪んでいたということだろう。
そこまで考えて、ふと気づく。悪魔の幼少期とは、一体何なのか、と。
『成長し、良き人と出会い、そして子供にも恵まれた』
俺の疑念を他所に、アルフィニールの独白は続く。
成長した女と、それに並ぶ父子のシルエット。
先ほどの不穏を払拭するような、穏やかな光景は、しかしまたも赤い色で塗りつぶされる。
赤い×印で塗りつぶされた父子のシルエット。けれど、アルフィニールの声の中には悲嘆の色は皆無であった。
『けれど、二人は動かなくなってしまった……だから、私たちは一つになった』
再び、赤い色の溶け込むアルフィニールのシルエット。
具体的な方法など考えたくもないが、やったことは猫と同じなのだろう。
失った家族のリソースを溶かし、己の裡へと取り込んだのだ。
『――そうして、私は理解した。この愛こそが、神に認められた人の在り方なのだと』
決定的に破綻した、アルフィニールの倫理と論理。
それを確定させ、タガを外してしまったのがこのタイミングだったのだろう。
アルフィニールは、そこから暴走を開始した。
『もっと、たくさんの愛を。もっともっと、限りない安寧を』
言葉巧みに人々に取り入り、心を開かせ、そして取り込む。
それは周囲の人々だけに留まらず、小さなコミュニティ、大きな屋敷――そして、果ては国すらも。
傾城、傾国、傾世。ただひたすらに、貪欲に、全ては善意と愛の感情だけで、アルフィニールは全てを破滅させていった。
『溶けて交わる愛の檻――これこそが、人のあるべきかたち、私の答え。お母様の命題に対する、私の回答』
ここまで聞けば、俺でも理解できる。アルフィニールという存在……否、大公級悪魔と呼ばれる存在の正体を。
ドラグハルトは、奴らをマレウスと同様に外部から現れた存在であると呼んでいた。
そして、マレウスの告げた妄言を神の命題などと称したその在り方。
更には、最後の映像。世界の四分の一を覆った、アルフィニールの赤い侵食。
これは逆に言えば、アルフィニールが飲み込んだ領域は世界の四分の一だけだったということでもある。
「マレウス・チェンバレン……奴の生み出した蟲毒の壺、そこで育った四つのAI」
アルトリウスが言っていた、全ての箱庭の始まり。
箱庭計画の初期、AIの構築において対立した、逢ヶ崎とマレウス。
マレウスはその時、四つのAIを生み出したと言っていた。
もしも、そのAIを外部に持ち出すことができていたならば――そして、それが今もなお稼働し続けていたとしたら。
「この悍ましい答えを、人間の進化だと呼んだのか、マレウス……ッ」
最初の箱庭の中で、このような狂った世界を作り上げていたならば。
こんなものを覗き込んで、満足げに笑っていたのだとするならば。
――そんな狂った思想のために、かつての戦友たちが命を落としたというならば。
「貴様の答え、貴様の成果……貴様の全てを、否定し尽くして殺してやる」
全霊の殺意を以て、目を見開いて前を向く。
――薄紫の光が消えたのは、それとほぼ同時だった。
『歓迎しましょう、子供たち。ようこそ、私の愛の庭へ』
いつの間にか地に付いていた足の下には、先程の都市と同様に赤く蠢く肉の地面。
無数に立ち並ぶ肉の柱と、それに支えられた血の天井。
脈動するそれらは、全てがアルフィニールの一部であるのだろう。
そして、その奥には――巨大な肉の塊から上半身を生やす、悍ましき怪物の姿。
「それが貴様の本体か、アルフィニールよ」
前に出たドラグハルトが、唸るように声を上げる。
《化身解放》かとも思ったのだが、どうにも少々性質が違うように思える。
確かに公爵級悪魔たちは、真の姿を現すと共に周囲環境を変質させる場合があった。
だがアルフィニールのこれは、本体だけではなくその周囲の環境まで凄まじい魔力を有しているのだ。
本体だけではなく、周囲環境そのものが脅威であると、この強大な魔力が告げていた。
『ここは私の内側、女神の目も届かぬ私の世界。だから、存分に遊んであげられるわぁ』
全くもってロクでもないことになりそうだと、確信を得ながら餓狼丸を構え直す。
だが、ここが己の内側であると表現しているならば、この場所そのものがアルフィニールの一部であると言っていい。
ここを削り取られたならば、アルフィニールとて大きな痛手となることだろう。
「緋真、消耗は?」
「回復できる範囲です、問題ありません」
硬い声音ながらも、戦意を失った様子のない緋真の言葉に、小さく笑みを浮かべる。
ここからが、アルフィニールとの戦いの本番だ。
ここが奴の腹の内側ならば、中から臓腑を掻き回してやることとしよう。