743:融解せし愛の檻 その4
アルフィニールの力によって侵食された都市に、突如として現れた安全地帯。
その出自は明らかになったためある程度安心できるのだが、果たしてこれがどの程度存在しているのか。
流石にこれが無ければ他のプレイヤーも進めないだろうし、アルトリウスも積極的に情報を集めている様子であった。
「やはり、安全圏を確保しながら進む形か」
「まあ、そりゃそうですよね」
安全圏の存在が明らかになったことで、後続のプレイヤーも次々と内部に侵入してきている。
高頻度で攻撃を受け続けるこのエリアには、休憩できる安全圏の存在は必要不可欠だ。
足がかり無しで進むことは、俺たちでも困難だろう。
そういった朗報がある一方で、こちらにとって不利な事実も明らかになりつつあった。
「それで……このデスペナルティの件だけど、どう思う?」
「蓄積経験値の没収か。このエリア特有の仕様というのが、何ともきな臭い話だ」
このワールドクエストのエリアにおいては、死亡した場合はステータスの低下を受けない代わりに、経験値を奪われてしまうのだ。
ゲームによってはよくある仕様であるためプレイヤーたちには納得されている様子だ。
しかし、経験値ゲージが下限まで行っている状態でもう一度ペナルティを受けると、レベルが一つ下がってしまうという点については非難轟々であったが。
自らレベルを下げようとする一部の変人以外には不評な要素だが――俺たちにとっては、それ以上に厄介な情報であった。
「これ、リソースを吸収されてるってことですよね」
「そうだろうな。イベント期間内の撤退を封じた上で、死ぬ度にプレイヤー側のリソースを奪っていると見るべきだろう」
こいつは檻だ。入り口を開けて人々を誘き寄せ、出口を塞いで少しずつ融かすように削っていく。
俺たちは奴の口の中に自ら飛び込んできた獲物というわけか。
アルフィニールにとって、これは戦いではなく狩りだとでも言うつもりなのか。
――ああ、本当に気に喰わない。
「こうなると、アルトリウスも慎重になるだろうな。下手な配置はアルフィニールに力を与えるだけだ」
「奪われる量も違和感のない程度ではあるみたいですけど、塵も積もればですし」
少しずつだったとしても、アルフィニールに力を与えるわけにはいかない。
冷静に、かつ慎重に駒を進めるしかないだろう。
まあ、事情を話せないアルトリウスにとっては、何とも頭の痛い問題であるだろうが。
「少しでも消耗を避けながら進むためにも、安全圏は一つでも多く、素早く確保せにゃならんだろうな」
「確かに、イベントの制限時間はあるからのんびりしてはいられないけど……そこまで急ぐ必要があるの?」
「単にワールドクエスト云々の話だけだったらそれでも良かったが――」
こちらを見上げながら首を傾げるアリスに、小さく嘆息しながら返し――その、瞬間だった。
遠雷のように響き渡る轟音。足元から伝わる揺れが、長らく使われていなかった建物の埃を天井から落とす。
音の響いた方向は、方角的には北西方面だろう。その正体が何であるかなど、考えるまでもない。
「……来やがったか」
「ああ、そういうこと。彼らより早く、有利な安全圏を確保する必要があるってことね」
ドラグハルトの軍勢。どうやら、奴らもこの都市まで到達した様子であった。
どうやら、肉の壁を強引にブチ破って来たようであるが、果たしてどの悪魔が力を行使したのやら。
「奴らの大半は悪魔だから、安全圏を利用することはないだろう。だが、向こうに付いたプレイヤー連中に、有利な位置を奪われちゃ堪らんからな」
「位置的には反対側ですし、しばらくは大丈夫だと思いますけど……でも、のんびりとはしてられませんね」
緋真の言葉に頷き、腰を上げる。
本当であれば後続のプレイヤーがやって来るまで待っておきたいところではあったのだが、最初にスタートダッシュを決めたせいで他の連中とは距離が離れてしまっている。
ここは先行して、他の安全圏の位置を割り出しておいた方が得だろう。
位置関係からして、ドラグハルト側の連中にここを確保される可能性は皆無だ。今の段階ならば、放っておいても問題は無い。
「のんびりともしていられん、出発するぞ」
「了解です。とにかく中央に向けて進む感じですよね?」
「それもあるが、安全圏の正体からして、最初に石碑があった場所も確保するべきだろうな。恐らくは、そこが最大の安全圏になっている筈だ」
石碑の破片によって安全圏が作り上げられているのであれば、それが存在する可能性が高いのは元々石碑があった場所だろう。
大きな破片でも残ってくれていれば、広い安全圏が確保できる可能性もあるだろう。
石碑が置かれている場所は、基本的に広場のような形状となっている。
マップに詳細な位置は記載されていないが、ある程度地形が分かれば場所を類推することは難しくはない。
シリウスの大きさを途中まで戻しつつ、マップで位置を確認する。
「位置的には……ここから北、西寄りか」
「私たちの方が近いでしょうけど、ドラグハルト側も遠くはなさそうね」
「このエリアの性質については情報を持っている前提で考えておいた方がいいだろう。奴らが辿り着くより早く、石碑の跡地を確保するぞ」
連中がスパイ活動をしているかどうかはともかく、ファムの奴が情報を流している可能性は高い。
少なくとも、掲示板で共有している程度の情報は渡っていると考えておいた方がいいだろう。
悪魔たちには利用できないとはいえ、奴らも安全圏の確保には動いてくるはずだ。
(石碑の破片である以上、悪魔側は戦力としては投入されない筈。であれば、俺たちだけでも防衛は十分だ)
もしも公爵級が出てきた場合は対処が難しいが、相手がプレイヤーだけであればどうとでもなる。
アルトリウスたちが追い付くまで、俺たちで最重要地点を確保しておくべきだろう。
そうと決まれば、後は行動あるのみだ。軽くシリウスの腹を叩き、北へと向けて出発する。
「ところで、ドラグハルト側はどう動くと思います?」
「さて、分からんとしか言えんな。こちらはこうして安全圏を確保しながら進むしかないが、悪魔はそれも利用できんだろうし」
安全圏が石碑の破片による効果である以上、悪魔には利用することはできない。
まあ、上位の悪魔であれば無視して入り込んでくるぐらいはするだろうが、奴らにとっては居心地のいい場所ではないだろう。
何らかの方法で石碑の効果を損なうという可能性もあるが、そうすればさっさとアルフィニールに侵食されるだけだ。
最悪、こちらを妨害するためにそれを行うという可能性もあるが――とりあえず、こちらで確保しておくに越したことはないだろう。
(ドラグハルトなら、この場で俺たちとの戦いは避けるはずだ。ここで正面からのぶつかり合いになる筈がない)
互いに消耗すれば、得をするのはアルフィニールだけだ。
俺たちも奴らも、できる限り消耗を避ける必要があることに変わりはないのである。
「……ま、希望的観測だな。行ってから考えるしかないか」
何にせよ、石碑広場を確保しないという選択肢はない。中央へと向かう足掛かりには、最適な場所であるからだ。
アルフィニールに挑むためにも、そのエリアの確保は必要不可欠である。
安全圏から離れれば、途端に始まるのは周囲からの攻撃の群れだ。
攻撃の種類については既に慣れたものであるため、シリウスを先頭にしておけばそれほど対処は難しくない。
こちらへも飛んでくる攻撃には適宜対処しつつ、北へと向けて歩を進め――ぴたりと、前に出そうとした足を止めた。
それは俺だけではない、緋真も、アリスも……シリウスすらも、思わず足を止めてしまったのだ。
「こいつは、初めてのパターンだな」
――それは、俺たちが向かおうとしていた道の角からゆっくりと姿を現した。
長い胴体と、頭から胴まで縦に裂けているような異形の口。
手足と思わしき部位は不規則に何本も伸びた、子供が粘土と割り箸で作ったナナフシのような化け物。
白と赤と黒が混じった異形の体を伸ばしながら、これまで見たこともないような怪物が、唐突に姿を現したのだった。