659:霧深き山林
「ふむ……こりゃまた、変なところに来たな」
「これ、そのまま行って大丈夫なんですかね?」
俺の言葉に同意しつつ、緋真は困った様子で眉根を寄せる。
敵との遭遇を求めて向かった山林。そこに足を踏み入れた俺たちは、急速に現れた霧によって方向感覚を失っていたのだ。
一旦引き返そうかと思ったのだが、戻る道も分からなくなってしまっている。
頭上も太陽の位置が分からないため、方角は一切掴めない状況だ。
おまけに――
「……ゲームシステムまで阻害してくるとなると、こりゃ自然現象じゃなくて何らかのイベントだろうな」
「マップが見れないなんて、念入りよね」
メニューから表示したマップにはノイズが走り、周囲の状況も自分の位置も把握することができなかったのだ。
あまりにも急な霧の発生であったため最初から疑ってはいたが、これは間違いなく自然現象ではないだろう。
とはいえ、何かしらのメッセージが表示されたわけでもなく、クエストに巻き込まれたということでもないのだが。
「お父様、私が飛んで見て来ましょうか?」
「いや、止めた方がいいだろうな。この状況で離れると、合流できるかどうかわからん」
いかなるイベントであるか把握できていない状況で、メンバーを分断するのは流石にリスクが高い。
もう少し、この霧についての情報を集めてからの方がいいだろう。
数メートル先までしか見通すことのできないこの霧は、しかしすぐさま敵が襲ってくるという気配もない。
果たして、これはどのようなイベントなのか。確かめるためにも、この中を進んでいくしかないだろう。
「とりあえず進んでみるしかないか」
「でも、どっちに行くんですか?」
「最初から方角も分からんのだから、真っすぐ進むしかないさ。離れすぎるなよ、シリウスを目印にしろ」
何かしらの目標もない以上は適当に進むしか道はない。
森と言うほど木々は密集していないが、直線で進むことは難しい場所である以上、進む方向もある程度の目安にしかならないだろう。
それでも、シリウスが自由に動ける程度の木々であったことは幸いだ。この巨体があれば、少なくとも全員がはぐれるということはない。
「でも、どうしましょうかこれ。当てもなく進んで、何も無かったら……」
「霧を抜けられるならそれで良し、できないなら――まあ、目星を付けるしかないだろうな」
「目星になるものなんて有るの?」
「あるにはある。しかし、こうも露骨だと乗るのも躊躇われるからな」
「え、露骨?」
俺の言葉に、目を見開いた緋真はきょろきょろと周囲を見渡す。
だが、何も見つけられなかったのだろう。困惑した表情で問いかけてきた。
「露骨って、何のことですか?」
「お前はもうちょっと気配の察知を磨け。俺にばかり任せているから伸びんのだろう」
「う……すみません」
いつも俺が先に気付いてしまうからか、その辺がおざなりになってしまっていたようだ。
とはいえ、俺が察知しなければ致命的なことになりかねない戦場ばかり。気づいても何もしないというわけにもいかなかったのだ。
まあ、言っておけば気は付けるだろうし、とりあえず致命的にならない程度には任せてみることにしよう。
特に今回などは、こちらに害意や敵意は無いようだしな。
「こちらを見ている奴がいるが……特に何かをしてくる気配はない。攻撃をするつもりも無いようだな」
「……敵意を向けてくるならもうちょっと分かるんですけど」
「ま、お前はもうちょっと探ってみろ。今のところは危険は無いようだからな」
アリスの方も、分からないのかきょろきょろと周囲を見渡している。
まあ、敵意の篭った視線ならばともかく、ただこちらを観察しているだけの視線に気づくのは難しい。
ちょうどいい訓練にはなるだろうが、これを向けられ続けるというのも中々に不愉快だ。
この視線の主の思惑も全く分からないというのも気持ちの悪い点である。
「その視線って、悪魔?」
「いや、悪魔ではないだろうな。奴ら特有の敵意も殺意もない。これがドラグハルトだったらそういうこともあるかもしれないが……あの気配は間違えようがないからな」
それに、奴ならばこのような迂遠な手は使わないだろう。
さっさと目の前に現れて、勧誘なり攻撃なりをしてくるはずだ。
この視線の主は、もっと老獪な何者かだろう。何かを企んでいるのだろうが、姿も見せない現状ではその真意は全くの不明。
いずれ向こうから何かしらのアクションがあるだろうが、それまでは甘んじてこの視線を受け続けなければならないだろう。
「うーん……これ、進行方向にいる感じですか?」
「それ以外に目印になるものもないからな。とりあえずそっちに向かって歩いている」
「ですか。何となく引っかかるような、気のせいなような……」
元々、緋真は感覚が鋭いタイプだ。そこにあると分かっていれば、感じ取ることもできるだろう。
これをきっかけとして感覚を掴んで行けば、俺に近い察知能力を得ることも不可能ではあるまい。
尤も、一朝一夕にはいかないだろうが。こちとら、戦場でスナイパーに狙われながら培った感覚だからな。
そう簡単に追い付かれてしまっては、こちらの立つ瀬がないというものだ。
「クェェ」
「すまんな、セイラン。お前には不満だろうが」
「クェ!」
のしのしと歩いているシリウスはともかく、自由に走り回れないセイランは不満そうだ。
駆け回るには視界が悪いし、おまけに木々という障害物もある。
本気で走っている時のセイランならば物ともしないだろうが、少し走るにはかなり邪魔だ。
翼を羽ばたかせ、風の魔法まで使って霧を遠ざけようとしているようだが、生憎と効果を発揮した様子はない。
一瞬ならば霧を押しのけることができるのだが、それもすぐさま元に戻ってしまうのだ。
残念ながら、セイランがこの状況で自由に走り回ることは不可能だろう。
「しかしまぁ、多少何か知らの接触があってもいいとは思うんだがな。この霧の原因なのか何なのかは分からんが、ただ見ているだけというのも――」
――そう呟こうとした、瞬間だった。
先ほどからこちらへと向けられていた視線、それとはまったく別の方向、それもすぐ近くから殺気が発生したのだ。
反射的に餓狼丸を引き抜き、抜刀と共に刃を振り抜く。
その一撃は、こちらへと振るわれた木の枝を確かに弾き返していた。
「――シリウス!」
「ガアアアッ!」
その正体を即座に察知した俺は、近くにいたシリウスへと指示を飛ばす。
声を聴いたシリウスは、状況を把握しきってはいないものの、その強靭な前足を攻撃の方向へと向けて薙ぎ払った。
その瞬間、唐突に地面から飛び出してきた木の根がシリウスの巨腕へと巻き付き、その動きを阻害しようとして――鋭い鱗が根を引き裂き、強引に振り払った。
そんなシリウスの一撃は、位置を完全に把握していなかったためかクリーンヒットとまでは行かなかったようだが、それでも標的に十分なダメージを与えた様子であった。
■ミスティックトレント
種別:魔物
レベル:128
状態:アクティブ
属性:水・地
戦闘位置:地上
その正体は、予想した通り木の化物であるトレント。
樹木の幹に顔面のような虚の開いたその魔物は、口から絶えず霧を吐き出している奇妙な見た目をしていた。
つまり、この周囲を覆っている霧は、視線の主ではなくこいつらが原因であったようだ。
「ええい、紛らわしい……とはいえ、これで解決の一端は見えたか」
「こいつらを減らせば、多少は霧も晴れますかね!」
木の魔物というだけあって、緋真は中々にやる気である。
擬態している上に霧も深く、まだ何体か潜んでいる可能性はあるが――まあいい、とりあえずは目の前の敵に対処することとしよう。