645:風の歩む先、凍れる城塞あり その32
シリウスの放つ《魔剣化》の一閃を受け、デルシェーラは展開していた氷の花ごと、真っ二つに両断された。
緑の血が弾けるように噴き上がり、手を振り上げたままのデルシェーラは呆然と目を見開く。
そして、次の瞬間――地面から爆発するかのように、十メートル以上はあろうかという巨大な氷の花がデルシェーラの体を包み込んだ。
「っ……しまったな」
「危ないですね……!」
巻き込まれかけて咄嗟に後退したが、おかげで氷の中に奴の姿を見通すことができない。
透き通った氷ではあるのだが、複雑に絡み合ったようなこの形状では、光の屈折によって姿を捉えることができないのだ。
手を拱いてみているしかないこの状況に、やきもきした様子のアンヘルが声を上げる。
「シェラート、何かないんですか? これ、変身の準備ですよね?」
「今までの悪魔も、《化身解放》前に仕留め切れた試しは無いんだがな……残りのHPバーもある以上はどうしようもない。というか、下がった方が身のためだぞ」
「何でです?」
「公爵級の変身が、マトモな姿で済むわけがないってことだ!」
凍えるような冷たい風が、デルシェーラを中心として渦を巻いている。
風を吸い込むように佇む巨大な花からは、漏れ出るほどに強大な魔力の胎動が響いていた。
尋常ではないレベルの魔力の発露。それは紛れもなく、ディーンクラッドが真の姿を現した時のそれに似ている。
もしもあの時と同レベルの巨体が現れるのであれば、近場にいたらあっという間に踏み潰されてしまうだろう。
凄まじい風速の風に逆らいながら後退し――その刹那、デルシェーラの魔力が爆ぜるように周囲へと広がった。
「何だ……ッ!?」
「うわっと……地面が!?」
魔力が放たれ、空が紫色に染まる。そこまでは、ディーンクラッドの時と同じだ。
しかし、今回は空だけではなく、地面にまでその変貌は及んでいた。
雪に覆われていた筈の地面は、鏡のように透き通った氷へと姿を変えていたのだ。
周囲には規則的に太く高い氷の柱が立ち並び、遠方に見えるのは見たこともない景色の雪山だ。
先ほどまで街中、平地にいた筈だというのに――
「シェラート、これ山の上にいるように見えるんですけど?」
「俺もだ、奇遇だな。さっきまで街中にいた筈なんだがな!」
これは、転移なのか。或いは、デルシェーラ自身が周囲の環境を変化させたのか。
どちらなのかは分からないが、この原因が奴であることだけは間違いないだろう。
十分に距離を離した上で振り返り――俺は、デルシェーラの状況に眼を見開いた。
奴を包み込んでいた花は、高層ビルと見紛うほどにまで成長していたのだ。
『――《化身解放》』
声が、重なって響く。
これまで耳にしていた、デルシェーラの高く美しい声と共に、低く地を這うような恐ろしい声が。
だが、それは間違いなくデルシェーラの声であった。あの独特なイントネーションの声音は、その悍ましい声であっても変わっていない。
そして――奴はついに、その姿を現した。
まず見えたのは、足なのだろう。一歩踏み出すように、巨大な氷の花を割りながら姿を現す。
光の加減によって青くも見える、黒い体毛。それに包まれた足は、全体の大きさから比較するとひどく細く見える。
だが、たとえ細かろうが何だろうが、小さな家ぐらいは踏み潰せるだけの巨大さがあった。
そして、次に飛び出してきたのは右腕。巨大な鉤爪の付いた、青黒い四本指。
足と同じく、それは体の大きさから比して病的なほどに細い。そしてその爪からは、ぼとぼとと青い粘液が滴っていた。
「ワオ、あんなジャパニーズな見た目だったのに、正体はジャイアントですか。日本の神話の怪物か何かです?」
「あんな悍ましい姿の妖怪は聞いたことも無いがな。だいだら法師でもないだろうに」
胴体もまた細く、肋骨が浮き出ているような様相だ。その姿からは、人間の見た目であったころの面影は一つも感じられない。
そして、その頭は――黒い影に覆われて、全容を把握することはできなかった。
ただ、その黒い影の奥で輝く赤い瞳だけが、変わらず俺たちの姿を睥睨していた。
俺たちを踏み潰さんとする、抑えの利かない殺意に塗れた、その血のように赤い視線が。
奴は、変わらず俺たちの方を見つめたまま、その巨大な腕を振り上げた。
『アアアァ――――』
「ち……ッ! アンヘル、お前も来い!」
「助かります!」
とてもではないが、徒歩で避け切れるような規模ではない。
俺はアンヘルを伴いながら走り出し、指笛を遠く吹き鳴らした。
瞬間、暴風を伴いながら、セイランがこちらへと駆けこんでくる。
風の鎧を解除したセイランに横から跳び乗り、アンヘルもまたその後ろに載せる。
止まることなく地を蹴ったセイランは勢いよく空へと舞い上がり――そんな俺たちのいた場所を、デルシェーラの巨大な腕が薙ぎ払っていた。
「巨体の癖に何つー速さだ……!」
「今まで魔法ばっかりだったのに、急にフィジカルに振ってきましたね」
言うまでも無いが、直撃したらひとたまりもない。
この規模となると、シリウスでも何度も耐えきれるようなものではないだろう。
ディーンクラッドの時も思ったが、大きさというものはただそれだけで一つのステータスだ。
ただ巨大であるというだけで、小さな生き物にとっては脅威といえるのである。
だというのに――
「この怪獣、やたら動き速くないですか?」
「それがコイツの能力なんだろうよ、クソ厄介な!」
セイランを急かして加速し――しかし、それだけではスピードが足りない。
凍える風を纏っているデルシェーラは、ビルにも等しい巨体を持っているくせに、まるで鈍重さを感じさせぬ動きで行動しているのだ。
そも、巨大な体を持つ敵の動きが鈍重に感じるのは、その大きさに比した動きの規模が小さく見えるからである。
実際のところは十分な速さで動いているため、見た目で判断すると痛い目を見ることになる。
だというのに、このデルシェーラは見た目の時点で鈍重さを感じないレベルで早く動いているのだ。
(纏っている風の効果か? どう見たってそこまで素早く動けそうな見た目じゃないだろうに)
蠅でも叩き落そうとするかのように振るわれる腕を、辛うじて躱しながら舌打ちする。
あの巨体が相手だというのに、小回りですら勝てないのだ。
これでは近付けるはずもない。仮に近付けたとしても、離脱することは不可能だろう。
「シェラート、私は本隊の方に戻ります。私が乗ってる分だけ重いでしょう」
「正直助かる。俺一人だけの重量なら、回避に徹すればギリギリ何とかなるとは思う」
「まあ、その上でどうするか、っていう話になりますけど」
「まずは分析、ってか。こっちが引き付けておくから、その間に何とかしろとアルトリウスと軍曹に言っといてくれ」
「オーライ、やるとしましょうか!」
デルシェーラの腕を躱しながら低空で駆け――そのタイミングで、アンヘルは俺の後ろから飛び降りた。
普通なら死ぬ速度だとは思うのだが、何かしら着地手段は用意しているのだろう。
生憎と、そちらのことを気遣っている余裕は無い。風に乗るようなスピードで動くこの巨人を、何とか引き付けなければならないのだから。
「セイラン、全速力だ。駆け抜けるぞ!」
「クェエエッ!」
俺の言葉に威勢よく応え、セイランは翼に雷を纏わせる。
翼が空気を叩く音と共に加速したセイランは、こちらを叩き落とそうとしたデルシェーラの腕を回避しながら上空へと駆け上がった。
幸いと言うべきか、このフィールドになったことで、高さの制限は解除されている。
そのおかげで、飛行能力を持つ面々は上空へと戦闘位置を移しているようだ。
緋真もペガサスを駆って空へと舞い上がっているが、まだ距離を取って様子見をしている状況である。
デルシェーラの攻撃に対する対処が、今のところ思いついていないのだろう。
(このスピードに対処できなければ一撃で落とされる。下手に手を出して標的にされれば、その時点で終わりか)
このクエストに集まっているプレイヤーは、大なり小なり手練れの連中だ。
通常ではこの化物に対する対処が難しいことは、この光景を見れば十分理解できているらしい。
だからこそ、デルシェーラの注意を引くほどの攻撃は飛んできていないのが現状だ。
俺を囮にしている状態であるためこちらとしても負担は大きいのだが、比較的安定して時間を稼げる手段がこれしかない。
俺をセイランごと握り潰さんとするデルシェーラの手を回避して――視界の端で、ついにアルトリウスが動き出した姿を目撃した。