598:サイレンの魔女
セイレーン、あるいはサイレン。
美しき歌声を持つ海の魔物であり、その歌声で船乗りを惑わせ、船を座礁させるという。
別段、その存在を信じていたわけではないだろうが、海兵たちは時折それを話題に盛り上がっていた。
とはいえ、聞いていた話も話半分。残念ながら、その性質を事細かに把握しているわけではない。
そもそもの話――
(こんな性質は聞いたことが無かったぞ……!)
呻くように声を上げようとして、しかしその音は一切周囲に響かない。
白影を使っているからではない。そもそもの音が一切消え去っているのだ。
白影の効果によって言語を処理することはできないが、そもそも音が聞こえていないためそれ以前の話だ。
(痛みはない。鼓膜が破れたわけじゃない。ならば、これがエリザリットの能力か!)
一切の音が聞こえないこの環境は厄介だ。言語を理解できずとも、音による気配の察知は行っていたのだから。
相手の行動を読み取るための感覚を一つ潰されたとなれば、ほんの僅かにではあるが反応が遅れてしまう。
まあ、そこは白影で補えるため何とかなるだろうが、問題は――
「――――っ」
音を発することができないということは、即ちスキルや魔法を発動させられないということだ。
故に《蒐魂剣》を発動することができず、俺はエリザリットの魔法に対して大きく後退することで回避した。
声を発さずにスキルを使用するためには、アリスが使っている《無影発動》のようなスキルが必要になる。
逆に言えば、それを持たないプレイヤーは、全て通常攻撃しか行えなくなるということである。
尤も、【断魔鎧】が消えていない辺り、事前に発動していたスキルは残っている様子だが。
(クソ、これじゃ手が出せんか)
俺の攻撃力ならば、近付けさえすればダメージを与えることができるだろう。
しかしながら、奴ばかりが魔法を使えるこの状況では、エリザリットに近づくことすら不可能だ。
雪の結晶や水球、それらから放たれる魔法をひたすらに回避しながら、俺と緋真はエリザリットの姿を観察する。
空中を泳ぐように舞うエリザリットは、しかしその場から移動する様子はない。
この能力を発動してからの攻撃が苛烈ではないのは、余裕を見せているのか、或いは何らかの制限があるのか。
分からないが、どちらにしても《蒐魂剣》を使えないのでは近づけない。
(チッ……!)
舌打ちの音すらも虚空に消え、思わず顔を顰める。
こちらを狙ってきた水球の攻撃を回避し、そこに回り込むように移動してきた雪の結晶を破壊する。
《蒐魂剣》での破壊ではないため、砕けた際の衝撃波がこちらを襲うが、それは【断魔鎧】によって無効化した。
とにかく、足を止めている場合じゃない。ひたすら移動して、エリザリットの攻撃を回避し続けなければならないのだ。
歩法――陽炎。
緩急をつけて走り、エリザリットの攻撃の隙間を探るが、やはりそう簡単には届かない。
更に厄介なことに、この音が消えた状況で、周囲の悪魔たちが防壁までの距離を詰めつつある。
うちの馬鹿どもが前に出ているおかげで何とか保っているのだが、スキル頼りの一般的なプレイヤーは、この無音環境では戦力外となってしまう。
この状態がいつまでも続けば、ここが陥落するのもそう遠くはない話になってしまうだろう。
そう思いながら地を蹴った瞬間、俺の耳に石畳を叩く足の音が届いた。
「ッ、《蒐魂剣》、【断魔斬】!」
エリザリットの能力が解除されたことを確認し、テクニックを発動しながら駆ける。
恐らく、この能力の効果時間は一分程度。先ほどの歌うような声と共に発動すると思われる。
効果中は一切の音が消え、しかしあらかじめ使用していたスキルの効果は残り続ける。
そして、その間は声によるスキルの発動は一切行えない――
(――無茶苦茶な能力をしやがってからに!)
斬法――剛の型、輪旋。
心の中で罵倒しながら、刃を大きく振り抜く。
それと共に広がった青い軌跡は、宙に浮かんでいたエリザリットの魔法をまとめて薙ぎ払う。
おかげで攻撃の圧力はかなり減ったが、それでもエリザリットの手数はまだまだ多い。
だが、それ以上に厄介なのは、周囲のプレイヤーが委縮してしまった点である。
(援護の数が少ない! こいつ相手には手出しできないってか!)
あの音の消えた空間は、どうやら防壁の場所まで届いていたらしい。
つまり、この場に出てきているプレイヤーのほぼ全てがあの能力に晒され、スキルを発動できない状態を味わったのだ。
流石に、その状態で侯爵級の前まで出てくる度胸のある奴は殆どいないらしい。
普段ならば祭とばかりに囲んで攻撃する場面なのだが、彼らがここまでやってくる様子は見受けられなかった。
まあ、軍曹やランドたちは遠慮なく援護をくれているため、全くどうにもならないというわけではないのだが。
「っ、小賢しいわね」
そう考えたのと同時、飛来した一発の弾丸がエリザリットの腕――翼と化したそれに命中した。
どうやら、俺が消したエリザリットの魔法の隙間を縫って、軍曹が弾丸を通したらしい。
急所には当てられなかったようだが、おかげでエリザリットの動きが僅かに鈍る。
そして、次の瞬間――どてっ腹を突撃槍によって貫かれたグレーターデーモンが後方からすっ飛んできた。
「思ったんですけど、シェラート――」
エリザリットの放つ魔法の反撃を、全て突き刺したグレーターデーモンの体を盾にして受け止めながら、駆け抜けてきたアンヘルは槍を地面に突き刺して大きく跳躍する。
その手に握るのは、普段はインベントリに格納していたであろうスレッジハンマーであった。
「――スキルを使えないなら、最初から武器を出しとけばいいですよね!」
どうせ馬鹿なことを言っているのだろうと判断し、発言については認識せずにスルーすることとして。
背中に大剣とハルバード、スレッジハンマーを背負っている馬鹿は、一切の加減なくエリザリットへとハンマーを振り下ろす。
対し、エリザリットは氷の障壁によってその一撃を受け止めようと構えた。
が――アンヘルの攻撃が障壁に防がれる直前。飛来した青い弾丸が、その障壁の魔法へと亀裂を走らせる。
「なっ!?」
「フンッ!」
《スペルブレイク》の弾丸によって綻びが生じた障壁を、アンヘルは力任せの一撃によって打ち砕く。
突き抜けた一撃はエリザリットの胸元に直撃し、奴の体を勢いよく地面へと叩き付けた。
それを目にして、俺と緋真は即座に駆ける。
『――《夜叉業》!』
餓狼丸の吸収は済んだ。今ならば、種族スキルを使っても危険は少ない。
奇しくもスキルの発動タイミングは緋真と被り、俺たちは輝く角を発現させながらエリザリットへと肉薄した。
「《練命剣》、【命輝練斬】」
「《術理掌握》、《オーバースペル》【ボルケーノ】――【緋牡丹】」
地面に叩き付けられ、バウンドしたエリザリットへ、狙うは全力の一撃。
衝撃の強いハンマーによる攻撃により、エリザリットは行動できずにスタンしている状態だ。
しかし、それでも周囲の魔法たちは自在に動き回り、俺たちへと攻撃を放つ。
――それら一切を【断魔鎧】によって無視して、俺たちは加減なき全力の攻撃を振り下ろした。
斬法――剛の型、白輝。
全力の一閃がエリザリットの体を斬り裂き、収束した炎がその体を吹き飛ばす。
大ダメージは与えられた。しかし、それでも今のHPを削りきるには至らない。
俺たちは使いきってしまった【断魔鎧】を再び発動しつつ、ポーションで体勢を整える。
追撃を仕掛けたいところだが、流石に味方との距離が開きすぎてしまうのだ。
リソースを削った今の状態では、流石にリスクが高い。
とにかくHPとMPを万全な状態に戻しながら、俺は静かに刃を構え直す。
瞬間――
「Ahh――――」
再び、歌うような声と共に、強大な魔力が波のように広がる。
建物に叩き付けられていたエリザリットは、水の塊と共にふわりと浮かび上がり、こちらへと憎悪の視線を向けていた。
その身には傷が刻まれているが、思った以上に傷は深くはない。
あれだけの攻撃を受けたにもかかわらず、致命傷には程遠い傷跡しか残っていなかった。
何らかの手段で防御したのか、或いは素の肉体強度が高いのか。
ダメージを与えられていることは事実だが、このまま戦闘が長引けばこちらが不利だ。
何とかして、コイツを乗り切らなければならないだろう。