592:撤退戦
後方へと撤退し、第二防衛ラインまで移動することが目的であるため、今回は積極的に仕掛けることはない。
とはいえ、相手は侯爵級悪魔、しかもトップクラスの戦闘能力を持つ個体だ。
そうそう容易くあしらえるような相手ではあるまい。
とはいえ――
「ほらほらほらぁ! 手も足も出ないじゃない!」
こちらが手を出しづらいとなるとつけあがるのがエリザリットという悪魔だ。
俺たちが積極的に攻めてこない様子を見て、奴は高笑いを上げながら無数の魔法を展開してくる。
使う魔法は水と氷――以前の水だけとは違い、物理的な破壊力も増した状態だ。
手数も多いのが厄介だが、《蒐魂剣》で何とか対処しきれている辺り、奴もまだ本気にはなっていないのだろう。
(こちらとしては助かるがな)
こちらの目的はあくまでも時間稼ぎ、軍曹たちの撤退だ。
それが果たせるのであれば、別にこの悪魔を斬る必要はないのだ。
まあ、隙があれば斬るつもりは満々だが、生憎とそれで本気になられても困る。
相手に痛打を与えたせいで本気になられ、面倒な事態になったことがここ最近あったのだから、慎重にもなろうというものだ。
「《蒐魂剣》、【断魔斬】!」
横薙ぎに払った一閃で、エリザリットの放つ魔法を吸収する。
奴の魔法は絶え間なく飛んでくるが、現状ではそこまで威力は高くない。
そのため、《蒐魂剣》で対処は可能なレベルであった。
浮かんでいる雪の結晶も、こちらが近付くと反応するようだが、逆に近付かなければ何もしない。
どうやら、自動防御的な性質を持つ魔法であるようだ。
(こちらから攻めるとなると厄介だがな……対策を考えんとならんか)
シャボン玉の時は、単純にこちらの遠距離攻撃を阻害する能力を持っていた。
たまに色の違うシャボン玉があり、それは破裂によって衝撃を放つ性質もあったが、その程度だ。
だが、この雪の結晶はその性質に加えて、近付いた相手に自動的に氷の弾丸を放つ能力と、砕け散った際に氷の刃として周囲に飛び散る性質を持っている。
とにかく、接近戦を拒絶するような能力だ。敵を褒めるのもどうかとは思うが、自らの得意な戦場を押し付ける作戦は理にかなっている。
魔法であることには変わりないため、《蒐魂剣》など魔法破壊スキルならば消滅させることも可能だが、結局はすぐに新しいものを生み出されるだけだ。
「……手が足りんか」
緋真は既に紅蓮舞姫を解放し、魔法や【紅桜】を次々と撃ち放っている。
それらは雪の結晶によって阻害され、エリザリットの身までは届かない状態だ。
エリザリットが結晶を生成するスピードからして、アタッカー一人では到底手が足りない。
というより、周囲から飽和攻撃を放ってようやく戦闘になるレベルだ。
ルミナとセイランを呼び戻してもまだ足りないだろう。
「《奪命剣》、【咆風呪】」
そして、困った時の【咆風呪】であるが――確かに、このテクニックならば雪の結晶に阻害はされなかった。
しかしながら、これが迫った時にエリザリットは別に障壁の魔法を発動し、攻撃を防いでしまうのだ。
【咆風呪】は防御力を無視できるが、相手の防御スキルを貫通できるわけではない。
言うまでもなく【命輝一陣】では雪の結晶に遮られてしまうため、ほとんど有効打が無い状態だ。
反撃として飛んできた水の刃に氷の槍、それらを大きく後方へ跳躍して回避しながら、俺は舌打ちを零す。
「面倒なことをしてくれる……!」
エリザリット自身も大変厄介であるのだが、問題なのは今まさに都市内へ侵入しつつある悪魔の群れだ。
未だに聖火は燃え続けているのだが、エリザリットが門を破壊してしまったため、そこから次々と侵入してきている状況だ。
エリザリットは周囲に気を配るタイプではないため、悪魔たちも近寄れてはいないのだが、だからこそ悪魔たちは周囲に拡散してしまって行っている。
騎兵たちもいるし、軍曹たちのケツに食らいつかれてしまうかもしれない。
だが、こちらはエリザリットの注意を引くことに手いっぱいで、そちらに対する対処などできるはずもない。
どうしたものかと顔を顰め――刹那、地響きと共に破裂音が響き渡った。
「っ、何よ今の!?」
どうやらエリザリットも知らない事象であったらしく、顔を顰めながら喚いている。
ファムの仕掛けた罠でも発動したのかと、そう考えた刹那、飛来してきた物体により、近くの家屋が崩れ去った。
ほんの一瞬ではあったが、その原因は明白だ。何しろ、瓦礫に潰れた悪魔の死体が、今まさに塵に還ろうとしているところだったのだから。
「おいおい、建物までぶっ壊すなよ?」
「いや、今のは元から崩れかけていたことが原因故……」
「あー、そもそも保全の必要も無いんだっけか? じゃあ遠慮はいらねぇか!」
聞き覚えのある声に、エリザリットからは注意を外さぬままその気配を捉える。
思わず頬を引き攣らせてしまったが――この状況では、ありがたい援軍だと言えるだろう。
「おーい師範! 追い付いたから来てやったぜ!」
「有象無象の相手は任されよ。後ろには一匹たりとも通しはせぬ」
戦刃と巌、我が久遠神通流の師範代たち。
そしてその二人だけでなく、門下生たちは揃ってこの場に参戦してきたようだ。
彼らは周囲に散りつつあった悪魔たちを追い、各個に撃破を行おうとしているようだ。
門下生たちとはいえ、爵位悪魔でもない普通の個体相手に後れを取るようなことはない。
これならば、撤退中の部隊に食いつかれることはないだろう。
「いい仕事だ! だが、後ろの連中が撤退完了したらお前たちも退け! 続きはその後だ!」
「水蓮にも言われたよ、分かってるって!」
うちの連中にそういった作戦行動に慣れているメンバーはいないのだが、流石にその程度は理解しているか。
これならば、軍曹たちの撤退は十分に可能だろう。
「フン、ザコが集まってきたって、このアタシを倒せるとでも――」
「《奪命剣》、【呪衝閃】!」
「っと、危なっ」
戦刃たちの登場で注意の逸れたエリザリットに、【呪衝閃】による伸びる一撃を放つ。
穿牙によって神速で伸びた一撃であるが、エリザリットは瞬時に反応して攻撃を回避してしまった。
魔法使いのくせに、そういった反応は決して悪くないのが厄介なところである。
戦刃たちとて、エリザリットが相手では分が悪い。こいつの相手は俺たちが行わなければ。
(撤退のタイミングは分かりやすい。問題はどうやってコイツから離脱するかだ)
反撃とばかりに襲ってきた水の奔流を、【護法壁】で受け止める。
氷交じりの水流は、まるでウォーターカッターのように作用するため、まともに受ければ手足の一本は千切れ飛んでしまうだろう。
これを受けても平然と行動できるのはシリウス程度であるが、激しく魔法攻撃が飛んできているため、シリウスも積極的には攻撃できない。
ルミナがまだ戻ってきていないため、回復のペースも遅いのだ。
(前にシャボン玉を壊されまくったことも覚えているな。本当に油断ならん悪魔だ)
見た目も性格もクソガキではあるのだが、何だかんだと頭の回転は悪くない。
手を変え品を変え襲ってくる性質は、正直に言って大変面倒臭い。
こういった相手は時間を追うほど厄介になるのだが、ここまで決着を長引かせてしまったのが運の尽きと言うべきか。
(だが、今回で貴様は確実に仕留める。そのためにも、まずは作戦を継続しなくては)
侵入された時の対処を何とかしておけとファムに言いたいところだが、今更言っても仕方がない。
一応、多少の案はあるのだが、何にしてもあの雪の結晶が厄介だ。
あれさえ何とかすることができれば、チャンスを見出すことができるだろう。