572:霧に潜む影
書籍版第7巻が12/19(月)に発売となります。
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伯爵級第十一位、ラビュトス。《化身解放》によって変貌したその姿は、牛の特徴を備えた巨人――即ち、ミノタウロスと呼ばれる怪物に近しいものであった。
大柄で勇ましく、気性の荒そうな姿であるのだが、実際のところ当の悪魔は非常に慎重な性格をしていた。
既に公爵級すらも討ち取った経験のある女神の使徒、異邦人たち。伯爵級に過ぎない己ではそれに勝つことはできないと、ラビュトスは最初から理解していたのである。
だからこそ、彼は一切姿を見せることはなく、与えられた仕事をこなし続けていた。
――今日、この日までは。
「グゥゥ……畜生、ゲートを破壊するなんて……!」
街の中に展開されていたゲートは、戦力の補充に加えて、撤退するための経路でもあった。
例えどれだけ強力な戦力がやってこようとも、人間がゲートをくぐることができない以上、安全に撤退することが可能なはずだったのだ。
しかし、その目論見はあっさりと崩れ去ることとなった。潜入していた異邦人たちにより、ゲートを破壊されてしまったのだ。
無論のこと、都市にとって生命線となるゲートのことは、ラビュトスも警戒していた。
しかし、異邦人たちの隠密技能は、その警戒網すらも上回ってしまったのだ。
「ググッ……逃げられない、逃げたら殺される……! でも、逃げなくても……!」
高位の悪魔に仕えるラビュトスは、この街の防衛を任されている。
その任務を放棄して逃げ出したとなれば、粛清は免れないだろう。
だからこそ、彼は接敵する前から切り札を切り、時間稼ぎを狙い始めたのである。
時間を稼ぐことができれば、援軍が来るかもしれない――その可能性に賭けるために。
事実、その判断は決して間違ってはいないだろう。この状況下において、逃亡という選択肢を選べないのであれば、援軍を待つ他に道はない。
尤も――それだけの時間を稼ぐことができれば、の話であるが。
「――っ!?」
ふと、腰の辺りに何かが触れる感覚に、ラビュトスは咄嗟に振り返る。
しかし、その後ろには何の姿も無い。不気味なほどに濃い霧と、何も無い空間が広がっているだけだ。
じっと目を凝らし、耳を澄ませても、何も発見することができないこの空間。
ただただ、霧に包まれた静寂だけがその場を支配していた。
「……気のせい、か。神経質になり過ぎていたか」
人知の及ばぬ力を持つ、公爵級や大公級。
その力を恐れすぎるが故の錯覚だと結論付け、再び異邦人に対する対策へと思考を戻した。
ラビュトスが生き残るための道は、ただひたすらに異邦人たちの足止めをするしかない。
しかし、殆どの悪魔たちは都市の外に出てしまっており、追加の戦力を呼び出すことも不可能。
ラビュトスにできることは、迷宮化の能力を使って異邦人たちの足を止めるしかないのだ。
――何かが、腕に触れる。
「ッ……気のせいではない、誰だッ!?」
腕を振り払いながら振り返り、ラビュトスは誰何の声を上げる。
しかし、それに答える声はない。音も、何もかも。ただ不気味な沈黙が広がるのみ。
何の音も響かぬ静寂が、ただ空間を支配しているだけだ。
(おかしい……何の音も聞こえないだと!?)
そう、周囲にいた悪魔たち、その気配すらも消えてなくなっているのだ。
今この場で音を立てているのは、ラビュトス当人のみ。耳に痛いほどの静寂に、名のある悪魔である筈のラビュトスは息を飲んだ。
何かがいる。しかし、その姿を捉えることができない。
あまりにも不気味過ぎるこの状況に、ラビュトスは視線を右往左往させながら警戒を続けた。
――そんなラビュトスの脇腹を、再び撫でるように何かが触れた。
「ッ、オオッ!」
恐怖を交えた咆哮と共に、ラビュトスは巨大な斧を振るう。
空を裂き、叩き付けた先の地面を打ち砕いた一撃は、トップ層のプレイヤーであっても無傷では済まない一撃だろう。
しかしながら、その一撃に手ごたえはない。ただ、ほんの僅かに黒い影が揺らいだのみで、霧の中に潜む何者かを仕留めるには至らなかった。
「何だ……どこにいる、何者だ!? それに――何故攻撃してこない!?」
何よりも不気味なのは、潜んでいる存在が攻撃してこないことだろう。
影に潜み、幾らでも攻撃する機会があったにもかかわらず、その存在はただ触れるだけで再び姿を隠してしまう。
ラビュトスとて、攻撃を受けたいわけではない。だが、ただ触れられていくだけというこの状況は、何よりも不気味だったのだ。
息を荒げ、目を血走らせながら周囲を窺うラビュトスであるが、標的の姿は影も形も残っていない状態だ。
「クソ、これは何のスキルだ……!」
しかし、謎の敵が何らかのスキルを使っていることは、ラビュトスもきちんと理解していた。
悪魔の巨体からは、暗く青いエフェクトが湧き上がるように発生している。
当のラビュトスには一切心当たりのないこのエフェクトは、謎の存在による攻撃であると彼は確信していた。
しかし、その効果までは把握することができない。触れることで発動することは間違いないが、今のところは何の影響も及ぼしていないのだ。
(ダメージは受けていない、状態異常が発生しているわけでもない……何だこのスキルは、何の意味がある!?)
まるで理解のできないその効果に、ラビュトスは苛立ちながら斧を振るう。
やたらめったらと振り回している攻撃であるが、残念ながら標的に掠らせることもできていない。
ただ霧が蠢くばかりで、そこには何の姿も見当たらないのだ。
苛立ちを吐き出しながら武器を振り回すラビュトスは、あまりにも手応えのない状況に動きを止め――
「――お疲れ様ね」
「ガッ!?」
――ラビュトスの首に、黒く染め上げられた刃が突き刺さった。
瞬間、HPゲージの全てを削られ、ラビュトスはその場に片膝を突く。
《化身解放》を使用したことで、ラビュトスの持つHPバーは二つ。
そのうちの一つを、ただの一撃で削り切られたのだ。
「き、さま……何をした……ッ!?」
「……あと一つ」
攻撃をした瞬間に現れたのは、赤い頭巾を被る小柄な少女。
頭巾の奥から赤い瞳を覗かせ、ラビュトスの姿を観察しながら、彼女はただ淡々とそう口にする。
舌打ちしたラビュトスは、その少女へと向けて斧を振り下ろし――少女の姿が消え去ると共に、ラビュトスの脇腹へと刃が突き刺さった。
一瞬でその姿を見失ったことに驚愕し、同時に感じた痛みに歯を喰いしばる。
ラビュトスは、腕で振り払うようにその小柄な体を弾き飛ばそうとし――黒い影となって、その姿が消える。
「く、そ……今の、姿は!」
ラビュトスは知っている。異邦人たちの中で、最も注意しなければならない存在を。
魔剣使いという、公爵級悪魔すらも討ち取った者――その男が引き連れる集団の中に、赤い頭巾を被る子供の姿があることを。
華々しい活躍をする存在ではないため、悪魔の間でもあまり認識はされていない存在だ。
しかしながら、ラビュトスはしっかりと、その存在のことを覚えていた。
魔剣使いが引き連れている以上、それは決して油断のならない存在であると、慎重な悪魔は確信していたのだ。
(ここでも立ちはだかるか、化け物め……ッ!)
心の中で罵声を上げながら、悪魔は斧を油断なく構える。
たとえ小さな少女の姿であろうとも、それが魔剣使いの仲間である以上、絶対に油断することなどできはしない。
だが――それが油断以前の問題であると、ラビュトスは気づいていなかった。
「――ひとつ」
再び、黒い刃がラビュトスの首へと突き刺さる。
ダメージを受け――しかし、先程と同じように一撃でHPが消滅するようなことはない。
無論、ダメージも決して小さくはないため、少女の体を振り落としながら悪魔は呻く。
一体、先程の攻撃は何だったのだろうか、と。
(いや、冷静になれ……この化物を近づけさせてはならない!)
決意し、ラビュトスは地を踏みしめる。
瞬間、周囲には無数の壁が発生し、一帯を覆い隠した。
ラビュトスが持つ、伯爵級悪魔としての能力――それこそが迷宮創造だ。
霧に閉ざされたこの迷宮は、酷く入り組んでおり、またその内部を通ることでしか最奥に辿り着くことができない。
複雑な迷宮を作り上げるには、相応の魔力が必要となるのだが、ラビュトスには最早出し惜しみをしている余裕などなかった。
(相手がどこから来るのかが分からないのであれば、来られる場所を限定してしまえばいい!)
例え姿を消していたとしても、その一点に集中していれば捉え切れる。
そう確信して、ラビュトスは斧を大上段に構え――
「ふたつ――あら、二回目で成功したのね」
――その懐に直接転移したアリシェラは、ラビュトスの心臓に刃を突き立てながら、そう呟いたのだった。