261:霧の街
「近くで見るとますます異様ね」
「現実感が無いのは今更だがな……しかし、実に厄介そうなもんだ」
アドミス聖王国、北西の街ラビエド。
開け放たれたままとなっている外壁門の前に立った俺たちは、内部に視線を向けつつ言葉を交わしていた。
結界の仕切りは非常に分かり易く、街を包み込むグレーの霧は、一定の範囲内から決して外に出ることはない。
故にこそ、その様子を外から観察することができた訳だが――これは正に、異様と評するのが正しい光景であった。
「変な色の霧ですね……体に悪そうです」
「まあ、実際に体に悪いんだけどね。HPを削られるわけだし」
「常にHPに気を遣っておく……ぐらいしか無いな。俺はあまり気にせんでもいいだろうが」
「貴方って、スキルでの自傷が無ければまずHPが尽きることなんて無いでしょう」
半ば呆れを交えたアリスの視線に対し、軽く肩を竦めて返す。
確かに、俺の《HP自動大回復》は順調にレベルが上がっているし、《回復適性》によってその効果は向上している。
《練命剣》によるHP削りが無い場合、体力が下がることなど殆ど無いのだ。
やはり、ここまで育つと中々馬鹿にできない回復力になってきているようだ。
「それよりも、厄介なのは視界が悪いことだな。通っているのは……十メートルって所か」
「上まで霧に満たされていますし、空を飛んでってわけにも行きませんね」
「ま、素直に入るしかないだろうな。外から解除する手立てがあるなら別だが……流石に、何の手がかりも無しではな」
結界を解除する方法があるのであれば最上だが、流石にそう都合よくは行くまい。
入ったら出られないとなると、流石に二の足を踏んでしまうが――まあ、いつまでも足踏みしていても仕方がない。
覚悟を決めて、俺は街を囲む結界へと手を伸ばした。触れた手は何ら抵抗を覚えることなく、その内側へと入り込む。
聞いていた通り、入ることには一切制限は無いようだ。そして、この状態であればまだ腕を戻すことも可能らしい。
一度腕を戻し、霧に触れた手を見てみるが、特に変化らしいものはない。どうやら、一部が触れた程度であればHPが削られることも無いようだ。
「ふむ……よし、入ってみるか。警戒は怠るなよ」
「了解」
「勿論です、お父様」
まあ、どちらかというと不安なのはアリスなんだがな。
自動回復系も持っていないし、体力も少ないから不意討ちを喰らったら危険だ。
尤も、『キャメロット』の前衛系が即死したという辺り、俺や緋真でも大差はないのだろうが。
軽く息を吐き出し、俺はゆっくりと結界の内部へと足を踏み入れた。
瞬間――ジワリと、体を包み込む不快感に思わず顔を顰める。気温や湿度的な問題による不快感ではない。
何と言うか、ずっしりと体が重くなったような、そんな感覚を覚えるのだ。
「これは……」
「むぅ。こいつは厄介だな、ちと体が鈍い」
「……そこまで言うほど?」
これは感覚を鍛え上げている久遠神通流の剣士ならではの感覚だろう。
普通の人間では――特に痛覚を持たないアリスでは感じ取ることが難しい筈だ。
しかし、これは少々厄介だと言わざるを得ない。ほんの少しではあるが、感覚が鈍ってしまう。
「いつ来るかも分からん敵を、この鈍った感覚で警戒しなけりゃならんのか。確かに厳しいな」
HPを確認するが、俺のHPはほぼ変化は無い。
正確に言えば、若干減ったものがすぐに元通りになっているようだ。
とりあえず、俺に関してはHPの心配はなさそうだし、むしろ《HP自動大回復》のレベル上げにはなりそうなものだが。
俺は深く呼吸して集中力を高めつつ、ゆっくりと足音を立てながら歩き出した。
今の所、敵の気配らしきものは感じ取れない。だが、いつ襲撃があるかどうかも分からないし、これは中々に骨が折れそうだ。
「とりあえず、街の中心に向かうぞ。警戒は絶やすなよ」
「分かりました」
「一応、身は隠しておくわ。後、生存者も探しておくわよ」
「ああ、頼む。少しでも情報が欲しいからな」
この霧に包まれた街の中、まだ生きている人間がいるのであれば、それは重要な情報源となるだろう。
この街が、果たしてどのような理由でこんな状態となっているのか。その経緯は知りたい所だ。
わざと足音を消さずに歩き、その音の反響を感じ取りながら、ゆっくりと街の中心へ。
今の所、周囲に動くものの気配はない。霧に包まれた街は、さながらゴーストタウンであった。
(死体が無いのはともかく、血痕もない。悪魔が大挙して攻めてきたような痕跡が見つからない……一体どんな流れでこんな状況になったんだ?)
これまでの街は、大なり小なり戦闘の痕跡が残されていた。
死体が残らないのは悪魔の性質上仕方ないが、破壊された建物などは確実に残る。
だが、このラビエドの街には、そういった攻撃された跡が一切残っていないのだ。
まるで、ある日突然滅び去ったかのような――そんな不気味さを覚える。
しかし、この霧の性質を考えると――
「……潜入されたのか?」
「え? 突然何ですか?」
「いや、どうしてこんな状況になっているのかを考えていただけだ。まるで、悪魔が街の中に気づかれぬまま忍び込み、この霧を発生させたようだとな」
常にHPを吸収する効果を持つ霧だ。短時間ならばまだしも、長時間晒され続けることは現地人にとっては命に係わる。
そして、仮に耐えることができたとしても、霧の中から襲撃してくる悪魔が存在するのだ。
この街の住人にとっては、まさに悪夢であるとしか言いようがないだろう。
「悪魔が石碑の結界を無視したんですか?」
「ディーンクラッドとて無視はしていたし、デーモンナイトは結界内でも平然と活動していた。何かしら方法はあるんだろうよ」
それも問題ではあるのだが、どちらかと言えば何故悪魔がこのような迂遠な手を選んだのかが気になる所だ。
奴らの目的はリソースの回収であり、それは人々を殺害することで成される行為だ。
この霧は危険ではあるものの、即座に致死性を発揮するものではない。
奴らの目的に直接つながるようには思えないのだが――まあ、そこは今考えても答えが出るものではないか。
「さて、どうしたもんか……」
相変わらず霧は深く、俺の足音は霧の向こう側へと消えていくだけだ。今の所、悪魔の気配を感じ取ることができない。
せめて何かしらの情報を手に入れたい所なのだが――
「……ん?」
ふと、広げていた感覚に僅かな気配が引っ掛かる。
街の中央に向かう直前、近くの路地から小さな物音を感じ取ったのだ。
何かがこちらに近づいてくる、そんな気配である。
どうやら、極力音を立てぬよう、忍び歩きでこちらに向かってきているらしい。
その気配に、俺は更に集中しながら餓狼丸の鯉口を切った。
「先生?」
「静かにしろ」
俺が戦闘態勢に入ったことを感じ取り、緋真が息を飲む。
緊張感が高まる中、俺はゆっくりと近づいてくる気配の方へと足を踏み出し――その瞬間、気配の主は驚いたように物音を立てて逃走を始めた。
「これは……アリス」
「私が追いかけるの? まあいいけど」
俺の言葉に軽く嘆息し、アリスが気配を追って走り出す。
歩法を使っているならともかく、通常の移動速度は俺よりもアリスの方が速い。
ステータスの差によるものなのだろうが、あの小柄なアリスが凄まじい速さで動いているのは中々に違和感があるものだ。
姿を見失わぬようその背を追い――アリスは、跳躍して壁を蹴り、身軽な体捌きで逃げた人物の前まで回り込んだ。
「はい、ちょっと止まって」
「ひっ!? や、やめて……!」
小柄なアリスに寄っていく手を塞がれたのは、大人しげな姿の女性であった。
突然目の前に現れたアリスに、腰を抜かしたように座り込んでしまっている。
その姿や振舞いからは、特に悪魔の気配を感じ取ることはできない。
予想はしていたが、どうやら俺たちを悪魔だと勘違いしたこの街の住人であるようだ。
勘違いされていることはアリスも承知していたのか、軽く嘆息して声を上げる。
「落ち着いて。私は悪魔じゃないわ」
「っ……に、人間……?」
「正確に言えば異邦人だ。悪魔とは敵対している側だな」
後ろから声を掛けると、女性は再びびくりと肩を跳ねさせる。
だが、一応言葉は通じていたのか、恐る恐る振り返りながらも逃げる様子はない。
とりあえず、生存者がいたことに安堵しつつ、俺は息を吐き出しながら声を上げた。
「とりあえず、話を聞かせて貰いたいんだが――ここではな。どこか拠点のような場所はあるのか?」
「きょ、拠点……え、ええと、その……」
どうやら敵ではないと理解したようではあるが、未だにパニックからは抜け切れていないらしい。
この場所が危険であるというのもあるが、やはり先に腰を落ち着けられる場所に移動するべきだろう。
俺たちとしても、この霧から逃れられる場所があるなら利用したい所であるし、ここで彼女を逃す理由は無い。
何とかして、多少なりとも安心して使える場所に移動したい所だが――
「……!」
ひやりと、背筋を這い上がる感覚。
周囲の霧が氷の粒と化したかのような感覚に、思わず息を飲む。
どうやら、早速拙い状況になりつつあるようだ。
俺は即座に振り返り、餓狼丸を抜き放って重心を落とす。
「先生!?」
「お前らはその人を連れて退避しろ、どうやらお出ましのようだぞ」
「お父様!? 一人で戦うおつもりですか!?」
「適当に時間を稼いだら退避する。緋真、後で場所を教えろ」
「っ……分かりました」
唇を噛み、緋真は腰を抜かした女性を助け起こしてセイランに乗せる。
戦いたい様子ではあったが、生憎とこの状況での全力戦闘は困難だ。
それを理解している緋真は、後ろ髪を引かれつつも他の面々を引き連れて霧の向こうへと姿を消した。
全員を見送ってから小さく息を吐き出し、俺は改めて後方――先程俺たちが来た方向へと視線を向ける。
視界を塞ぐ、濃い霧の向こう側。その中から姿を現したのは、一振りの剣を手に携えた、黒衣の男であった。





