135:死力を尽くす
それは、一見すれば美しい女の姿をしていた。
長い翠の髪、抜群のプロポーション、そしてそれを強調するかのようなタイトなドレス。
それがただの人であったならば、俺でも多少は目を惹かれていたかもしれない。
だが――その身から発せられる膨大な魔力と、その冷たい視線の前では、ただただ危機感を覚えることしかできなかった。
「ごきげんよう、異邦人の方々。ついにあなた方と直接対面することになるとは……わたくしも、少々感慨深いというものです」
「……爵位悪魔。しかも、男爵どころじゃないな」
「あんな十把一絡げの者たちと比較されるのは心外ですが……あなた方程度では、それも仕方のないことですか」
不遜な物言いではあるが、それは決してこちらを甘く見てのものではない。
奴はただ純粋に、己の方が強いと宣言しているのだ。
そして実際のところ、俺自身もまた、この目の前の悪魔に対して勝利するためのビジョンが見えていない状況だった。
何故ならば――
「わたくしの名はヴェルンリード。伯爵級第二十七位――真なる悪魔の位を得た者の一角。短い間ですが、よろしくお願いしますわね」
「な……は、伯爵……!?」
女悪魔――ヴェルンリードの言葉に、緋真は呆然とそう呟く。
だが、俺はそれに納得すらしていた。
この女と対面した感覚は、ロムペリアと対峙した時のそれに近いものであったからだ。
奴ほどこちらに対する執着は感じられないが、脅威としてはどちらもかなり上だ。
少なくとも、現時点の俺でもまともに相手をできるような存在ではない。
(だが……)
ちらりと、餓狼丸の刀身へ視線を落とす。
ヴェルンリードは効果範囲内まで足を踏み入れているため、今の餓狼丸は奴のHPを吸収している。
吸収対象は一気に消し飛ばされたため、現在の所は殆どヴェルンリードのみが相手であると言えるだろう。
だが、そうであるにもかかわらず、刀身の黒は目に見えて増加していく。
どうやら、奴のHPは俺たちや他の悪魔共とは比べ物にならないレベルであるようだ。
勝ち目はまずない。だが――同時に、チャンスでもある。
「緋真、お前は下がれ。避難民の誘導をしろ」
「先生!? 伯爵級を相手に一人で戦うつもりですか!?」
「目的を違えるな。俺たちの目的はあくまでも、住人が逃げるまでの時間稼ぎだ。悪魔共が一気に数を減らした今、奴さえ抑えられれば逃げる余裕は十分にある」
そして、今の餓狼丸は最大近くまでHPを吸収した状態だ。
攻撃力が高まっている今の餓狼丸ならば、まだ通じる可能性はある。
これは窮地であるが、同時にチャンスでもあるのだ。
「あら……随分と思い上がっているようですわね。まさか、あなた如きがこのわたくしに勝てるとでも?」
「さあな、何だっていいが――俺に挑む度胸も無いならさっさと帰った方が身のためだ」
「ふふふ、面白い戯言ですわね。それならば――」
ぱちんと、ヴェルンリードは指を鳴らす。
その瞬間、奴の周囲、そして上空には無数の魔法陣が出現した。
どうやら、ルミナの扱う魔法陣と同様の、魔法を同時発動するためのスキルのようだ。
数えるのも億劫になるような数の魔法陣。あれから一斉に魔法が放たれたら流石に厳しいだろう。
《斬魔の剣》で消せるのは、基本的に一つの魔法のみ。ただ一度の攻撃にしか効果は適用されないのだ。
あれだけ多くの魔法に狙われるのは流石に厳しい。少なくとも、緋真には対処できない状況だ。
「とっとと行け!」
「っ……お願いしますよ、先生!」
悔しげに顔を顰めながら、緋真は背を向けて走り出す。
だが、ヴェルンリードはそれに反応することも無く、ただ俺にのみ意識を向けていた。
またロムペリアが何か吹聴していたのか、ヴェルンリードも俺のことを何かしら知っているらしい。
何にせよ、俺にのみ集中しているのであれば好都合だ。
「ふふふ、いい度胸ですわね。ならば――消し飛びなさい」
告げて、ヴェルンリードは手を振り下ろす。
その瞬間、周囲の魔法陣は一斉に輝き――
久遠神通流合戦礼法――風の勢、白影。
無数の雷が降り注ぐ。
目を焼くような閃光、そして瞬く間にこちらに降り注ぐ稲妻。
見開かれた俺の目は、それら全てを捉えている。
「……ッ、ァ!」
視界から色が失せる。耳に届く言葉の意味を理解できなくなる。そして、嗅覚は全面的に消滅する。
代わりに、視界に映るもの全ての動きがゆっくりとしたものへと変化する。
迫る雷光すらもスローモーションに映り、俺はその間を潜り抜けるように駆けだした。
四つの合戦礼法の一角、風の勢の白影。その性質は、一言で言えば脳の情報処理機能の意識的な操作だ。
普段脳が処理している情報のうち、不必要なものを意識的にカットし、映像の処理速度を限界まで高めることで目から入ってくる情報をスローモーションで認識する能力。
興奮状態を作り出して身体能力そのものを高める鬼哭とは異なり、白影は肉体の性能そのものは変わらない。
しかし、この加速した感覚の中で、俺は普段と変わらぬ意識のままに体を動かすことができる。
結果的に、俺は通常ではあり得ない速度で動き回ることができるのだ。
「ッ――――!」
当然ながら、脳と肉体に対する負荷は大きい。
制御を失敗すれば、それだけで廃人になりかねないほどの負荷がかかる。
とは言え、こちらに関しては慣れたものだ。あの戦争では、幾度となくこの白影を使い続けていたのだから。
降り注ぐ雷を避け、前進を続ける。
俺の動きに対し、ヴェルンリードが驚愕に目を見開いているのが目に入るが、気にしている暇もない。
ゆっくりと腕を振るうヴェルンリードの指示に従うかのように魔法陣は向きを変えて俺を狙うが、それよりも速く俺は移動している。
歩法――烈震。
魔法が放たれる前のラグを利用し、ヴェルンリードへと肉薄する。
そのスピードは普段の烈震とは比べ物にならないほどのものだ。
その速度で接近しながら刃を振るい――しかし、何らかの障壁に弾かれて奴の体に届かずに終わる。
どうやら、魔法による障壁を常に張り巡らせているようだ。
「《斬魔の剣》……!」
ならばと、障壁を斬り裂く《斬魔の剣》で刃を振るう。
その一閃は確かにヴェルンリードの纏う障壁を斬り裂き――その向こう側にあるヴェルンリードの体に、ほんの僅かな傷を付ける。
「馬鹿な!? 何なのですか、あなたは――!」
ヴェルンリードが何かを喚いているが、その意味を理解することはできない。
無駄な問答をする余裕があれば、その全てを映像処理速度の強化に回すまでだ。
ヴェルンリードが反撃のために放った雷撃を至近距離で回避し、更に頭上から降り注いだ雷を回避するために大きく距離を空ける。
全方位から飛来する攻撃は厄介なものだが、殺気があるためタイミングは読みやすい。
ヴェルンリードは分かり易く魔法型の悪魔だ。今までは武器で戦う悪魔が多かったが、どちらかと言えば最初に戦った悪魔であるゲリュオンに近いタイプだろう。
尤も、こちらは戦闘タイプの魔法使い。使ってくる魔法のタイプもまるで異なるようだ。
速度と威力のどちらも強い雷の魔法というものも厄介だが、それでも動きは直線的であるため、回避することは難しくはない。
「――――オォッ!」
頭上から降り注ぐ何条もの雷。
そして、ヴェルンリードの手から放たれる横薙ぎの雷。
それら全てを視界に捉え回避しながら、建物の壁も足場にしつつ駆け回る。
ヴェルンリードはひたすらにこちらを目で追おうとしているが、その死角を縫うように駆ければ、奴を翻弄することは可能だ。
奴はこちらを捉え切れず、ひたすら魔法を乱射している状態である。
おかげで、周囲の建物は次々と破壊されている状況だが、既にこの周囲に民間人の姿はない。
否、悪魔も騎士も、プレイヤーたちも――俺とヴェルンリード以外の全てが、この場には存在していなかった。
「『生魔』……ッ!」
ただ障壁を斬るだけでは意味が無い。
障壁を貫いた上で、ヴェルンリード自身にダメージを与えなくては。
ならば、あらかじめ威力を高めた一撃を叩き込めばいい。
そう判断し、俺はフェイントを交えながらヴェルンリードの側面へと潜り込んだ。
斬法――柔の型、零絶。
《生命の剣》を併用した一閃。
障壁へと刃を触れさせた上で放った零距離からの一撃は、確実にその障壁を斬り裂き――そして、ヴェルンリードの右足に傷を付けていた。
「ぐっ!?」
「――――!」
いつの間にか、餓狼丸からは放出されるオーラが無くなっている。
刃はその切っ先まで黒く染め上げられており、どうやらそれ以上の吸収はできない状態のようだ。
それはつまり、餓狼丸は最大限に攻撃力が高まった状態であるということだ。
そうであるにもかかわらず、今の一撃で与えられたダメージは微々たるもの。
正直な所、餓狼丸の吸収によって与えたダメージの方が大きいぐらいだ。
(やはり、今殺しきることは不可能か)
今の一撃は、感覚的には足を切断するイメージで放ったものだ。
それがただの斬り傷にしかならないのであれば、こちらのステータスが大幅に足りていないということだろう。
そもそも、子爵級ですらまだ通用するかどうか微妙な所なのだ。
伯爵級を相手に手傷を負わせられただけでも御の字と言った所だろう。
足の痛みに動きを鈍らせたヴェルンリードに対し、俺はその背後へと回り込み、左の拳を押し当てる。
打法――寸哮。
「が……!?」
内部へと直接衝撃を与える打撃。
その破壊力を全て受け、ヴェルンリードの体が揺れる。
人間ならば内臓がいくつか砕けている威力なのだが――どうやら、ただのダメージにしかなっていないようだ。
だが隙ができたことは事実。更に密着し、俺は強く足を踏みしめる。
打法――破山。
迸る衝撃が、ヴェルンリードの体を大きく吹き飛ばす。
そのまま崩壊しかかった家屋へと激突した悪魔は、崩れ落ちた瓦礫に押し潰され、下敷きとなる。
さて、人間ならば間違いなく死んでいるはずだが……感じ取れる殺気には僅かな陰りすらない。
否、それどころか――
「やってくれましたね……人間風情が!」
巻き上がる雷と旋風が、瓦礫を纏めて吹き飛ばす。
どうやら、怒り心頭といった雰囲気だ。
「あの人のお気に入りだと言うから加減をしていましたが……最早関係ありませんわね。消し飛ぶが――何をっ!?」
――その様を確認した俺は、すぐさま瓦礫の山と化しつつある街並み、その路地へと向けて身を躍らせていた。





