91 話 人間の体験
「その結果、彼らはまるで飼われた家畜のようになってしまったんだよ」
白瀬からそう聞いた翔哉は酷くショックを受けていた。
しかし、脳裏にある情景が思い出される。
位相転換分子再配置局──通称「職安」の近くに住んでいた時に見た、暗い雰囲気の無気力な人達。
──彼らのことである。
「職安の近くに住んでいる人達がそういった人達なんでしょうか?」
「そうだね……」
白瀬は静かに頷いた。
異世界から来た転移者にそれとなくこの世界の実態を見せ、双方に刺激を与えるために彼らを敢えて配置局近くに住まわせる──。
そういう施策を採っていることを白瀬も聞いてはいた。
「一方でAIを上手く使えた人達もいたんだ。AIと共に考え、共に生きた人達はそうはならなかった。彼らは自分の能力を信じ、安易な依存を戒め、AIを助言者として利用した。自発的に考えることを止めずにAIと共存することを選んた人達ということになるんだろう」
そう言われるとまたピンと来るものがあった。
「それが銀座街区界隈に住んでいる人達?」
「そういうことになる。このように私達の世界では歪んだ形の二極化が進んでしまった。その結果、社会的なインフラをこれ以上前に進めることはできなくなり、表面的なテクノロジーの進歩は急停止を余儀なくされてしまったんだ」
翔哉はこの世界を最初に見た時から感じていた違和感。
その理由が少しわかったような気がした。
「そういう絶望的な現状がはっきりしてきた頃。だいたい5年くらい前からかな? 突然、異世界からの転移者と呼ばれる人間がポツポツと、世界各地で発見されるようになってきたんだよ」
異世界転移者達は、この世界の性急に進み過ぎたテクノロジーによる弊害を受けていないので、ほとんどがオープンで知性的にも活力がある人達であることが多かった。
そのため少人数ながらも有能な人材として重宝され、次第に影響力のあるポストに収まっていくケースが多かったのである。
「まあ、それすら委員会がもたらした未知の技術によって、ゲヒルンに与えられていた極秘任務だったなんていうのは、俺自身もつい最近までは全く知らなかったんだけどね」
つまり委員会は、その絶望的な状況への処方箋として、異世界からの人間の流入を意図的に起こした。
そういうことになるのだろう。
それにしても──。
いったい委員会は、何をどこまで知っていて、そして何を目的に世界を作り変えようとしているのだろうか?
『この流れを逸脱しない限り……』
黒崎はそう言っていた。
そこに何らかの明確な意図と目的があることは明らかなのだが──。
そこで部屋に設置されている電話の内線が鳴った。
そろそろエルが目覚めそうとのことだ。
「なんとか休眠から覚められるくらいまで、ストレスレベルが下がってきたということなんだろう。翔哉君。行ってやってくれないか?」
「はい、わかりました」
◆◇◆◇◆
翔哉が第四研究室に入るとエルがちょうど目を覚ましたところだった。
「エル……目が覚めたんだね!」
そう言って思わず駆け寄った翔哉だったが、そこで彼女の反応に少し戸惑うことになる。
「あっ……」
エルは翔哉を見つけた途端にパッと顔を赤らめると、恥ずかしそうに反射的に自分の胸を隠そうとしたのである。
これまでの彼女にはなかったごく自然な反応に、今度は逆に翔哉のほうが思い出したように恥ずかしくなってしまい、そのまま真っ赤になって立ち尽くしてしまう。
「あ……ご、ごめん!」
「あ、あの……ごめんなさい……私……」
休眠から目覚めたばかりのエルは、翔哉の前で自らの裸体をさらしている今の状況にかなりの動揺を感じてしまっている様子なのだ。
しかし、その反応を見て取ってからの舞花の変わり身は早かった。
「男性陣は、早くここから一旦出てって! ほら出てっ!!」
そう言うと、すぐに隆二と翔哉を第三研究室から押しやって外へと追い出し、素早く恵と一緒にすぐエルに用意していた服を着せたのである。
そして落ち着いた後になってエルに話を聞いてみると──。
「ええっ!? 人間になっていた!?」
一同はエルのその告白に声を揃えてびっくりする。
「えっと……私にはまだちょっとよくわからないんですけど、学校というところに行っていたみたいです。そこで翔哉さんを……あの……。ずっと遠くから憧れて見ていて……」
そのまま顔を真っ赤にするとうつむいて黙り込むエル──。
こういう反応をされてしまうとそれは周りにまで伝染してしまうようで。
「な……なんというラブコメ展開……」
「可愛い……! また一段と可愛くなったわ、エル!!!」
──そう口にした隆二と舞花も揃って顔が赤くなっていた。
「ブラックボックス内に何らかの異常があった間、移動する多世界に向けての高次元座標が任意の値を取ったことで、エルが望む可能性世界が経験として転写されたのかしら?」
「それ……データとしてはきっと残ってませんよね?」
恵が一人真面目に考察しているところに隆二が突っ込む。
「ブラックボックス内に異常があった間だから、正常に記憶として保存できたとは考え難いし……残念だけどはっきりとした形では残っていないでしょうね」
そう言いながら考え込む恵。
「そうなると人間の場合の夢と一緒で、記憶としてはっきり定着することはないでしょうけど、強い印象として意識に焼き付いた部分だけが二次的にフィードバックされて……。そうね、あいまいな形のイメージとして記憶に残ることになるのかもしれないわ」
それを聞いて舞花が残念そうである。
「もったいないなあ~~! そんなウラヤマケシカラン世界の映像とかー。私だって見たいのに~~!!」
「舞花……お前のはそれただのノゾキ趣味だろ?」
「ち、違うわよー。私はあくまで……が、学術的な興味としてねーー!?」
…………。
……。
◆◇◆◇◆
エルと翔哉は二日ぶりに揃って帰途についていた。
今週は一日雨が降ったもののそれ以外は晴れたことで、この日も温かく辺りはめっきり春めいた風が吹いてきている。
エルと二人暮らしを始めてからでも、もう既に何度もこうして一緒に帰っているというのに、今日はいつもと比べてもずいぶん違う感じがしてしまう。
エルのそぶりが今まで以上に人間らしく感じられるからなのだ。
よく笑うようになった感じがするし、その表情もとても柔らかく更に自然になった。
「あの……翔哉さん?」
横から翔哉に話しかけてくるエルが首をかしげて悪戯っぽく笑う。
そんな彼女にいつも以上にドキドキしてしまう翔哉。
「どうしたの、エル?」
「前に帰宅部って私に教えて下さったこと、覚えています?」
「ああ、帰宅部ね。うん覚えてるよ」
「その帰宅部というのがどういうことなのか、私ちょっと分かってしまいました!」
えへっ……という感じの表情を向けられ、翔哉はその不意打ちに近いタイミングにまたクラクラときてしまう。
エルの外殻──つまり身体に関しては何も変わっていないはずなのに。
何かのきっかけで意識が変化したり、新しい経験をして何かを感じることで、印象がこんなにも変わってしまうものなのだろうか?
今までもエルの無垢な魅力には、もう充分に苦しいくらいの可愛らしさを感じていた翔哉だったのだが。
眠っている間に何かを体験してきたらしい彼女は、より人間らしくそして女の子らしくなって帰ってきたようなのである。
エルが目覚めたばかりの今日は、病み上がりなわけだし夕食はお弁当でも買って帰ればいいと思っていた。
しかしどうしてもちゃんと作りたいと言う、エルの熱意に押し切られる形でいつものようにスーパーまで食材を買い出しに行くことになる。
スーパーではもう顔も覚えられているらしく、最近ではみんながそれとなく二人に優しくしてくれる。
それが今日は一段と目を引いてしまうらしく声まで掛けられた。
「最近よく見るよね? 近くに越してきた新婚さんかい?」
「え……ええ、まあ」
いくらよくできたエルであっても、目の中とか指の関節部分とか……よく見れば人間ではないとはっきりわかる部分はあるはずなのだが。
これくらい表情が自然で豊かだと、そういうものはもう目に入らなくなってしまうみたいである。
そう言えば喋り方も、今まで以上に柔らかく自然になったような気がする。
家に帰ってからも、色々と今までとの違いが目についた。
料理をしながら、エルが思わず鼻歌を口ずさんだり。
翔哉がエルの作ったものを食べている時も、嬉しそうにニコニコ笑いながらこちらを見ていたり。
そして……。
「美味しいですか、翔哉さん?」
そう聞いてくるのだ。
これらは全て今までのエルにはなかったことだった。
◆◇◆◇◆
とは言え、それほどはっきりと人間になっていた時のことを覚えている訳ではないらしい。
「どう言ったらいいんでしょうか。私は、人間の女の子の中に一緒に入っていた感じなんです」
憑依しているというのか……?
完全に自分の意志で自分を動かすことはできないけれども、一緒に起こっていることを体験している。
──そんな感じらしい。
「ですが。その女の子の過去とか記憶とかは、見ようとするとうっすらとですが見ることができる感じがしました。ああ、これまでもずっと人間として生きてきたんだなあ、と。ちゃんとお父さんとかお母さんもいましたよ!」
思い出しながら嬉しそうに話してくれるエル。
「そして、学校に行くと翔哉さんがいてですね……」
そう言いながら顔を赤らめる。
そんな感じで、その女の子の人生を数日ほど追体験していた感じらしいのだ。
「だから今は何だかちょっと不思議な感じですね。夢の中の彼女は翔哉さんのことは、ずっと憧れて遠くから見ていただけでしたから……」
しかし、それらは記憶としてはきちんと残ってはいないらしく、もやがかかったように曖昧なイメージなんだそうだ。
エルの場合、普段なら記憶が常にはっきりした形で記録されており、意識できる過去については高い精度で正確に脳裏に映し出すことができるらしいので、こういう形で残っているのは彼女としては珍しいことなんだろう。
ただこの夢の経験が、エルに人間の感覚のようなものを更に植え付けたのは確かなようで……。
「だから──」
そう言いながらエルがまた微笑む。
「なんだか、こうして翔哉さんと一緒に暮らしているだなんて……。今ではこちらの方が逆に夢のような気がしてしまうくらいなんですよ」
そう言って、すぐ近くから大切なものを見るような目で見つめられると──。
翔哉は、幸せ過ぎて自分が爆発してしまうのではないかと、落ち着かなくなってしまうくらいの気分を味わうのであった。




