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90 話 退化する脳

「突然もたらされたテクノロジーに対する過度の依存から、脳の退化が多くの人間に既に始まっているらしいということなんだ」



 ため息を尽きながら白瀬が言った。



「まさか……!?」



 確かにリリスや伊藤さんから、ナビゲーションAIが取り上げられた経緯や一部の人間に起こった弊害などは既に聞いていたけど、そんな──。

 知能が低下するとかならともかく……脳自体が退化するだなんて!?


 唖然とする翔哉に、白瀬が資料を見せながら説明していく。



「まず大前提から説明しようか。翔哉君。生命というものはひとつの大きな法則によって動かされている」



 白瀬はそこでまず息を吸った。



「それは、使えば使うほどその部分が進化し、使わないものは退化していく……ということだ。それは人間だって例外じゃない。いや人間こそ、それを突き詰めたお陰で大脳皮質が異常に増大して霊長類へと登りつめた。ある意味ではその典型的な例だと言えるんだ」



 確かに身体を動かせば次第に運動能力が上がるし、体つきが変わっていくことで筋肉が増えたからだとそれを実感できるわけだ。

 そして運動不足になると筋肉が落ちていって運動性能が落ちる。


 それはわかる。


 しかし……だ。

 頭を使えば同じように賢くなっていく──というのはまあ良いとして。

 使わないと脳が次第に退化していくと言われても、翔哉にはイマイチ実感がわかなかった。



「筋肉とかならわかるんですが……」


「脳や神経だって同じなんだ。神経細胞であるニューロンやその結節点であるシナプスを筋肉と同じものだと考えればいいんだよ。だから頭をたくさん使えばそれは発達するし、使わなければ縮小していくことになる──」



 模式図のようなものをモニターに示しながら白瀬は説明していく。



「このニューロンとシナプスが増え、様々な形に組み合わさっていくことで、生きていく中で学習して知能が上がっていくんだ。そして、その構築されたネットワークの数や形によって、それぞれの個体独特の思考回路とも言うべき思考や判断のパターンが作られていく」



 それが引いては個人の個性や性格にまで影響を与えていくことになる……そう付け加える白瀬。


 そして次に、モニターには古代からのテクノロジーの進歩の図が示された。

 古代の道具、そして産業革命、そこからの近代化とスライドが変わっていく。



「これまでの人類の進化では、テクノロジーの進歩によって人間は自分の物質的な運動手段を代替してきた。車などの移動手段を作り、作業を代替する工作機械をつくり、重たい物を機械などに運ばせる。それによって人間は運動能力については緩やかに退化したが、逆にそれによってシナプスやニューロンが発達する余地が増えたとも言えるんだよ」



 人間の脳のデータがモニターに表示される。



「人間の脳が扱えるシナプス──信号の結節点の数には限りがあるからね。しかしその結果として人間は今度は知的労働階級を生み出し、知性を更に進化させて来た訳なんだが……」



 そこまで説明してきた白瀬は、一旦モニターの資料を消した。

 薄暗い室内で翔哉に正対する。



「では翔哉君。その後、人類のテクノロジーの進歩が人工の知能にまで行き着き、それが大衆レベルに行き渡るようになったら……どうなったと思うかな?」



   ◆◇◆◇◆




「もっと知能が発達しました……っていう答えじゃなさそうですね……」



 翔哉は、恐る恐る答えた。



「そうだね。もっと知能が発達する……人間の進化を後押しして欲しい。昔は俺もそう思っていた。いや、そう信じていたんだ。だからAIの研究に没頭した。一時的に戦争に利用されることになったとしても、最終的にはそのテクノロジーは人間を助けてくれるはずだ、とね」



 その彼の口調で翔哉はわかってしまった。

 少なくとも、この世界では“そうはならなかった”のだ──と。



「この民衆の動向は、2000年代に起こったIT革命に酷似している。いや、実際に似ていたんだ。あの時、ネットワークや情報産業の急激な発達によって、より多くの層に今までは考えられなかったほどの情報が溢れかえった。そしてどうなったか?」



 白瀬はまずこの世界でIT革命が起こった時の動向を説明する。



「やってきた情報を上手く扱えた層もいたし、その変化を拒絶して殻に閉じこもった層もいた。しかし一番多かったのは、テクノロジーの恩恵によるものを自分の力と錯覚した結果“目立つ情報に無意識に流されてしまうようになってしまった階層”だったんだ」



 その話は、前の世界で翔哉も少し聞いたことがあった。


 IT革命は翔哉が前にいた世界でも起こっていたし、それによって逆に風評被害やデマの拡散による弊害が囁かれていたことくらいは知っていたからだ。



「そして、第三時世界大戦後に急激にAIによるパラダイムシフトを推進したこの世界でも、またそのIT革命の時と同じことが起こってしまった。今度はAIという知性の分野でだ。AIを上手く使って“共に考えた者達”もいたし、不自由な生活をしてでもそれを頑なに拒絶した者達もいた。しかし……」



 白瀬はそこで大きくため息をついた。



「残念なことに一番多かったのは、この時もやはり“テクノロジーの恩恵によるものを自分の力と錯覚してしまい、AIの判断に従っているだけにも関わらず、自分の頭が良くなったのだと信じ込んでしまった人々”だったんだよ」



 そして、その弊害はIT革命の時よりも深刻だった。


 人間は、上手く行かなくなったり困ったりすることによって、自分を疑ったり立ち止まって見つめ直したりする。


 しかし彼らの生活は、AIが全ての判断を本人に代わって最適に代替していることによって、“困ること”自体が無くなってしまっていたのだ。



「だから、彼らは自分自身でそれに気が付くことができなかった……」



 これは予想以上に面倒な問題だった。

 人間は自分が正しいと信じている限り、他者からの意見を取り入れない生き物だからである。



「この頃辺りから警告を発する学者達はいた。だが何より問題だったのは、現実に困ることがないことで、当事者達に危機感が欠如していたことなんだ。だから外野から何を言っても馬耳東風で、それからはずるずると悪化していく一方になってしまったんだよ」



 それからしばらくして──。

 AIに生活全てを依存してしまったこのような人間達の知能が、実際に退化を始めているとデータによって裏付けられた時になって、政府はやっと重い腰を上げた。


 そのデータを元に慌てて警告を発し、啓蒙情報を流して彼らの生き方を変えようとしたのだ。


 しかし、それもやはり上手くいったとは言い難かった。

 結局その情報を正しく受け取ったのは、既にAIを上手く活用していた層──つまり知能が落ちていない人達ばかりだったのだから。


 肝心の“知能が落ちている階層の人達”にとっては、彼らの中にある“自分は頭が良く十分に知識がある”という都合のいい自己イメージが、既にエゴ的に強固なアイデンティティーとして定着してしまっていたために、彼らは決してそれを手放そうとはしなかったのである。


 つまり頑なに自身を省みることを拒んだのだ。



「筋肉は落ちたらまた付ければいい。それはそうなんだけど、その筋肉が知能──つまりシナプスということになった場合には、それほど簡単ではないことを我々は思い知らされることになってしまった」



 なぜなら彼らが無意識に従っているその生活習慣そのものが、既に性格や価値観として定着したその人のシナプスネットワークによって支配されてしまっているからなのだ。


 つまり知らず知らずのうちに考えることを避けるその習慣自体が、今や彼らの自発的で自然な行動パターンに成り代わってしまったのである。


 人間は弱い生き物だ。

 こうなってはもう当事者たちの中では、自分達にとって都合の悪い情報は捻じ曲げて解釈されてしまい、自己正当化が働いて楽な方へと流されてしまう。


 強度の依存症とも言えるような状態になってしまったその生活習慣を、彼らに自主的に捨てさせるよう仕向けることはその時にはもはや不可能に近かった。

 一度薬物に依存してしまった体が、もうそれ無しには生きられなくなってしまうように──である。



   ◆◇◆◇◆



「それによって、戦争と大災害を生き残った三分の一の人間の更に半数近くが、ある意味で知性的には緩慢に自殺していくようなプロセスに陥ってしまったことになる」



 翔哉が白瀬から聞かされたその実態は危機的どころか、もはや壊滅的とさえ言えるものだった。



「政府は、彼らの無気力さが活力ある人材に悪影響を与えないように、繁華街からできるだけ遠くに住まわせるようにした上で、なんとか再教育しようとカリキュラムも組んだんだが……」


「上手くいかなかったんですね?」



 白瀬は静かに頷いた。



「何かを今まで通りのパターンでこなしているだけでは、シナプスやニューロンのネットワークが再び発達し始めることは無い。“自発的に自分が知らないことを知ろうとしない限り”知能レベルは取り戻せないからね。初めから答えを与えられて──それを反芻反復しているだけでは駄目なんだよ」



 その自発的にという部分が、そうやって「一度折れてしまった」人達にはどうしても問題になってしまうらしい。


 こうして、AIへの依存に対して抑制が効かない状態がそれからも続き……。

 判断や知的処理を極端に外部へと依存し続けた結果──。

 彼らの脳は有史以来かつて無かったほど、低負荷な状態にさらされ続けることになった。


 そして──どうなったのか?



「まるでアルツハイマーの末期のように脳が収縮し始めたんだよ」



挿絵(By みてみん)



 ここに至って、やっと事態が一刻の猶予もない終末的状況カタストロフだと認識した政府は、とうとう彼らの人権を尊重することを諦め、強制的にAIを一般大衆から取り上げることにした。


 ──しかし時は既に遅かったのである。



「翔哉君も知っての通り、その時に暴動が起こったりとか、そういうことは実際あったんだけど。実は一番の問題はそこではないんだ」



 モニターに映し出された映像が、暴動が起こった時のものから、次第に虚無的なものへと切り替わっていく。


 部屋の中で動かずに、ただ変わっていくテレビ画面を無表情に見続ける人々。

 機械的に食事を摂り、また寝転び、そして面倒そうに用を足すためだけによろよろと動き出す……そんな人の群れ。


 そこからは、一切の感情や情熱のようなものが欠如してしまっているように見えた。



「これはもう……ただの引きこもりとかオタクなんかじゃない。なんですか、これは!?」



 翔哉から悲鳴のような声が漏れる。

 そしてその中には無意識のうちに嫌悪や恐怖も混じっていた。


 それはきっと、その様子がもう人間ではない何か別の生き物のように、翔哉には見えてしまったからだろう。



「そうなんだ。この世界はベーシックインカムがあることで基本的には飢えない構造になっている。AIを取り上げられた彼らは、それだけを頼りに自分達の頭脳に負荷がかかる知的活動を、その後も極力避けるようになっていってしまった。その結果が見ての通りの状態だ……」



 白瀬の声が資料室の中に不気味に響いた。



「彼らはまるで──飼われた家畜のようになってしまったんだよ」

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