86 話 霊魂のありか
ゲヒルンの研究者達がやってきた次の日。
白瀬と久保田は、ランチ時にエルドラドに来ていた。
この日は、昨日の夜から降り出した雨が一日中降り続けていたが、どうやらそれも夜半には止む予報らしい。
明日は差し当たって天気の心配はなさそうだった。
「あれから時々来るようになったんですよ。エルドラドのランチを食べに」
「それはよかった。俺は出不精だから何か用事が無いとなかなかここまでは出てこれないんだよな」
そんな感じの軽い挨拶を済ますと、すぐに本題に入ることにする。
翔哉とエルが、異世界転移の現場に同行するのはもう明日なのだ。
「すいません、白瀬さん。結局、恵さんが同行する件は却下されてしまいました」
白瀬としてはエルの近くにできればもう一人くらいは、いざという時に備えてガイノイドに詳しい人間を置いておきたかったのである。
それを久保田に頼んでおいたのだが──。
やはりそれは無理だったらしい。
「まあ、それはそうか。翔哉君がエルと一緒に行けるようになっただけでも良しとしないとな」
「その代りと言ってはなんですが、なんとか僕が一緒に行けることになりまして……」
そう言う久保田。
「久保田君がかい?」
「僕も転移の現場に同行するのは、実はこれが初めてなんですけどね」
久保田は、そこで急に済まなそうな表情になり小声で耳打ちする。
「上層部からしたら部外者をこれ以上入れるくらいなら、ゲヒルン内のヤツを使った方がマシだっていう結論だったみたいです」
「使うって言うとやっぱり?」
「そうです。翔哉君達の監視だそうですよ。そんなものは必要無いと本当は言いたかったんですけどね。でも一応名目上だけでもそう言うことにしておけば、道中ずっと翔哉君とエルちゃんのそばにはいられるわけでしょう? だから敢えて何も言わなかったんですよ」
それを聞いて、白瀬に安堵の色が浮かぶ。
「そいつはありがたい機転だな。助かるよ、久保田君」
久保田はゲヒルンの人間とは言っても、白瀬とはこうしてかなり頻繁にやりとりをしている仲だし、翔哉とも親密な関係を築いている。
そしてある程度ガイノイドの事情も知っている数少ない人間なのだ。
同行してくれるゲヒルン内の人間としては、久保田は一番のキャスティングと言えるだろう。
◆◇◆◇◆
「霊魂?」
その話の後──。
二人は今回の研究テーマについての意見交換を続けていた。
しかしそこで久保田から突然およそ研究者らしくない言葉が飛び出てきたことで、白瀬も思わず声が裏返りそうになったのである。
「恵さんが言ってたでしょう。“人間の霊魂は睡眠中には、アストラル体をともなって肉体とエーテル体から抜け出る”ってシュタイナーの言葉。この解釈を巡ってですね、あれからゲヒルン内では議論が紛糾しているんですよ」
「まあ、それはそうだろうな」
エルのエモーショナルフォース制御機構は、元々そのシュタイナーの人智学を基調にして設計されたテクノロジーだ。
だが当の白瀬達だって、始めからはっきりとした自信と勝算があって研究を進めた訳ではない。
ある意味、取り敢えずは“それが正しかったとしたら”の仮定を元に組み上げたに過ぎないのである。
ましてや学会全体で見た場合では、今に至ってもまだ学者たちの間ではシュタイナーなど宗教だ、ペテンだ──いや疑似科学だ、なんて声が後を立たないくらいなのだ。
きっとゲヒルン内でも、これまでガイノイドを巡っては色々な立場の人間が混在していたことだろう。
しかし、それが実際に組み上げて動かしてみたところ、こうして人間に近い形で有効に働いていることが、データを伴った形ではっきりと実証されつつあるということになると──話は違ってくる。
今後これが白瀬達だけでなく、立場の違う多数の研究者によって立証されるようなことにもなってくれば大騒ぎになるに違いない。
「ゲヒルン内では、今までガイノイドに対して懐疑的だった派閥まで、過去からを含めた白瀬さん達との共有データのアクセス権を欲しがってきている状況なんです。みんな真剣に“シュタイナーの理論がもし本当だったとしたら”を考え始めているんですよ!」
もしこれが今後本当に立証されてしまったとしたら──。
人類は量子力学や事象学の分野だけでなく、一気に大脳生理学から認知学と言った世界認識の分野、そして最終的には宇宙論と言ったマクロの分野に至るまで、物質だけではない“何か”を考慮に入れた新しい領域に踏み込まざるを得なくなってくることだろう。
「そうなってくるとですね。そこでシュタイナーが言っていた“霊魂”っていうのは、現実的にはいったい何を意味していたのかって話に、最終的には行き着いてしまうんです」
そして今のところゲヒルン内では──。
“自我”というものが自分が今位置する目の前の物質世界の状況を知覚し、そこにフォーカスするためのポインターだとしたら……。
“霊魂”というのは、自分の意志や判断による因果の変化から多世界における自分の位置を動的に変化させるために、その存在自体が備えている機能そのものなのではないか?
──という説が有力視されているのだそうだ。
そこまでの話を聞いて白瀬にもようやく事態が飲み込めてきた。
「なるほどねぇ。つまりゲヒルンのお偉方は、エルに装着されている“あれ”……つまりエモーショナルフォース制御機構内に埋め込まれているブラックボックスに目をつけたってことなんだな?」
この世界に重なり合っている無数の多世界。
どの世界に今の自分が位置しているのかを、自我が知覚できない潜在意識下において掌握し、ラジオの周波数を合わせるようにある世界から別の世界へと移動する。
それを司っているのが霊魂の役割というわけなのだが──そうすると。
「その通りです。相互干渉多世界の考え方からすれば、そういう解釈が可能になってくる。そして、その“ブラックボックス”が我々人間でいうところの“霊魂”の代わりなのではないかと、ゲヒルン内では囁かれ始めているんですよ」
◆◇◆◇◆
確かに……!
白瀬はその考えに深く頷いていた。
そう考えれば、白瀬達がガイノイド開発で行き詰まっていた部分……。
エモーショナルフォースによる自由意志を発動させようとしても、そのブラックボックス無しでは、なぜ自我というスイッチが入らずに継続的な意識がそこに宿らなかったのか。
その説明が付くかもしれない。
そして、自由意志を持たずに一定のプログラムパターンでしか動かない存在が、例えデータの蓄積によって一定の曲線で成長することができたとしても、なぜ自分の持っている固有の周期パターンまでは決して逸脱することができなかったのかということも……これによってはっきりするように思われるのだ。
その足りなかったミッシングリンクを、委員会がもたらしたあのブラックボックスが埋めたことになる。
久保田の考察は続く。
「人間の霊魂は同じ様に考えれば、それと同じ機能が脳内の松果体の辺りにあると目されているんですが、それは今のところ電気的にモニタリング出来るものではありません」
更に言うと解剖学的観点から見た場合、その機能が物質的な器官として脳内に存在する保証もない。
もしあればもうはっきりした形で見つかっているはずなのだから。
そしてそう仮定すれば、エルの頭部内にあるブラックボックスの価値は、計り知れないほど高いものということになる。
「それに人間の場合は、物質的な日常に直接関係のないそういった情報は、脳内でも優先して忘却するようにできているみたいですからね。もし、エルちゃんがその機能によって他の多世界の情報をキャッチできたとしたら、それをデジタル的に保存した上で映像化したり、異世界の情報を収集したりできるかもしれないと“上”は考えたようなんです」
「で、その仮説に興奮した草壁教授が暴走した……と」
白瀬がそう言ってニヤリと笑う。
「もしかしたら、それによって異世界からの転移の仕組みも紐解けるかもしれないわけですから。私だって気持ちとしてはわからなくはないです。まあ、あの人はちょっとイザという時の押しが強すぎますけどね!」
久保田も苦笑する。
「今回はそれで委員会からお灸をすえられちゃったってことか」
「相手が悪すぎますよ……」
「お気の毒だな!」
それにしても。
久保田がついて行ってくれるとは言え、今度の極秘任務同行はエルにとっては苦手な初めてづくしなのだ。
それもガイノイドのブラックボックスをアテにした、何が起こるか分からない辺りが目的とくる。
春が近づきつつある温かい雨のなか研究所へと戻りながら──白瀬はどうにも嫌な予感が頭から離れなかった。
◆◇◆◇◆
次の日。
9月14日水曜日の朝。
天候は晴れである。
昨日の雨は止んで空はすっかり晴れ渡っており、朝焼けが春めいた雲にきれいな色を添えている。
富士の樹海が目的地だけに帰りは急ぎたいらしく、朝の8時にはヘリが研究所に迎えに来てそのまま出発という手筈になっていた。
場所が住宅街ではないものの、ヘリは様々な事情で長く滞在してはくれない。
やってくるやいなや翔哉達だけを拾ってすぐに再離陸する強行軍である。
翔哉とエルは、前日に渡された作業用のツナギと保安帽をかぶって、緊張気味にヘリに乗り込んでいった。
「気を付けてね」
「じゃあ久保田君。頼んだよ」
「わかりました!」
そう短く声を掛け合って離れると、すぐにヘリが離陸する。
まだ少し肌寒い中、白瀬達はあっと言う間に遠ざかっていくヘリの姿を見送っていた。
異世界転移の現場……。
いったいそこでは何が待っているのだろうか?




