82 話 和食の手ほどき
特別なゲストが来る。
そう聞いていた翔哉とエルは、日曜日の昼頃に研究所に顔を出したのだが、そこで待っていたのは──。
「久しぶりね。翔哉君、エルちゃん!」
「篠原さん!?」
そこに居たのは、料理オリンピックの日本代表コックとして、お茶の間にも超有名な女性カリスマ料理人!
篠原和美その人であった。
もちろんエルと翔哉はついこの間まで彼女が腕を振るう料理店エルドラドにいたわけで──その顔だけでなく、超絶な包丁さばきやストイックな仕事ぶりまで忘れているはずはなかった。
特に翔哉は、挨拶もなくエルドラドを去ることになってしまっていたため、その辺がやはり少し気になっていたのである。
「篠原さん、急にいなくなっちゃってすみませんでした……」
「そんなの気にしなくていいのよ。確かにちょっとびっくりはしたけど、ちゃんと白瀬さんから事情は聞いたから。色々と大変だったんでしょ?」
「ええ……まあ……。でもこうして助けて頂いて何とか生きてます」
「それが一番よ!」
代わりの人材がすぐに手配されるのは翔哉も安原の時に見ているし、心配は無いとは思ってはいたのだが、やはりこうしてちゃんと挨拶できるとやっとちゃんと物事が終わった感じがする。
それに対して、研究所のスタッフ達は白瀬以外は初めて会うらしい。
「うわー本物ですよ~!」
「サイン頂いていいですか!!」
ちょっと遅れてやってきた隆二や舞花も、篠原を見るとすっかり舞い上がってしまいミーハーぶりを発揮している。
──白瀬と恵も今回はしっかりとそこに便乗してサインを貰っていた。
それはともかくとして。
最初の騒ぎが一段落してから一同は所内カフェまで移動する。
そこで白瀬が今回のサプライズについて説明してくれた。
「あー実はな。今日からしばらくの間、篠原コックには毎週日曜日に来てもらうことになったんだ。ウチの研究所の食事情の向上のためにな。肩書はフードアドバイザーってとこだ」
普段から篠原はお店が休みの土日を中心に、フードコーディネーターやフードアドバイザーの肩書で料理番組に出たり講習会を開いたり、多忙な日々を送っているそうなのだが……。
「それが9月はテレビとかも番組改変の時期でしょ? 今年はちょうどスケジュールが空いちゃったのよね」
まずはみんなにそう説明した篠原だが、それはやはり表向きの理由に過ぎないらしく……。
声を潜めるとこう付け加える──。
「実はね。エルちゃんに料理を教えたくて白瀬さんに売り込んじゃったの」
どうやら篠原は、エルドラドにいる時にしていたエルとの料理談義が忘れられなかったらしいのである。
「私って料理人としては方法論がちょっと特殊なの。感覚優先で技術から入らないでしょ? だから他の料理人の皆さんとは全然話が合わなくて……。だからエルちゃんとのお料理談義は私も本当に楽しかったのよ」
そう言うことらしいのだ。
とは言うものの──。
彼女は今や泣く子も黙る天下の日本代表コック。
料理オリンピックで活躍した超有名人である。
──周囲の目や世間からの注目度を考えると、私用でほいほい料理を教えに出かける訳にはいかない。
そこで……。
エルに料理を教えてもらうことについては願ってもない申し出だった白瀬は、篠原を臨時のフードアドバイザーとして契約することで綾雅研究所に来てもらうことにしたのだ。
こういう形でなら、企業のアドバイザーとして対外的にも篠原の実績になる上に、研究所と業務契約を結んだ“関係者”に彼女がなることでパブリックコミューンが規定する不特定多数条項にも引っかからない。
つまり、エルと触れ合う際の問題も解消されるというわけである。
「世界でも有名な綾雅関連の実績ですから私としても大歓迎ですわ!」
「そう言って頂けると、ウチとしても助かります」
つまりこれがお互いWINWINの解決策だったと──そういうことなのだ。
◆◇◆◇◆
30分ほどカフェで働いている職員を含めて、栄養学や衛生関連の当たり障りのないレクチャーを行ってから料理関連のTIPSを絡めた雑談を挟む……。
そうやって体裁を整えると、それからはエルを中心に恵や舞花も参加して、篠原流お料理教室が開始されることになった。
教える料理のジャンルとしては、当面エルが苦手としている和風の煮付けなどが中心となるらしい。
その為、一部エルドラドからも食材を持ち込んではいるものの、ほとんどは篠原が自分の家で使っているものや、自然食ショップで買っているものなどを持ち込んで進められる。
今日のカリキュラムは『肉じゃが』である。
たかが肉じゃがだが、そこは篠原流なので化学調味料などは一切使わず、使うジャガイモや人参玉葱なども全て有機野菜ということになる。
「有機野菜って言ってもその内実はピンきりでね。悪いものは有機認証で許可された数少ない農薬をリミットまで使ってるようなものもあるのよ。そう言う意味では無農薬がいいんだけど、それはそれで今度は鮮度や質に問題があったりするし、なかなか選ぶのが難しいのよね」
そう言ってため息をつく篠原。
翔哉達は、野菜などにそこまで気を配る必要は実際にはないのだが、味付けなどについてのレクチャーは非常に興味深かった。
地球暦の現在においては、家でたまたま肉じゃがなどを手作りすることがあったとしても、ほとんどは合成ダレのようなものを入れるだけで、味付けを済ませてしまう。
だが篠原は和食の方でも作り方は徹底しており、きちんと合成ではない鰹節で出汁を取った上で、本みりんと醤油と砂糖で味付けをするのだ。
そして、隠し味に日本酒。
砂糖にも三温糖を使うという周到さである。
「和食はちゃんと勉強した訳じゃないから、公の場で作ることはほとんどないんだけどね。もちろん家では和食も作って食べてるし、家庭料理的なものは昔から普通に作ってるから」
そう言う篠原。
「するとこれって、篠原コック門外不出の家庭の味なんですね!?」
舞花が憧れの先輩を見るように目をキラキラさせる。
「そうは言っても、こんなのは西暦時代まではお家のキッチンで作られていた普通の家庭料理なんだけどね」
いつものトレードマークとも言えるコックコートを脱ぎ、私服にエプロン姿で気さくにそんなことを語る篠原は、一見世話好きのする普通の優しいお姉さんのようだった。
しかし、当然のことながら出来上がった肉じゃがの味は絶品!
「うお!」
「うまいねー!!」
「これが肉じゃがだったら今まで私がつくってきたのって!?」
「普通なんかもっとすき焼きっぽいような大衆的な味になるよな?」
出来上がって、少しずつ小皿でみんなに配られた篠原コック手作りの特製肉じゃがを食べたひとりひとりが驚きの声を挙げる。
「これはすごい! 美味しいねーエル!」
「はい!!」
翔哉も少し取り分けてもらったものを食べさせてもらう。
隣にいるエルにも味見をさせてあげると、途端に彼女の目の色が変わった。
超高速で彼女の中で分析が始まっているのだろうか。
エルの顔は、真剣そのものである。
「篠原さん。この調味料なんですか?」
エルが質問タイムに入る。
「みりんっていうのよ。エルは初めてよね。洋食では使わないから」
「ちょっと味を確かめさせてもらってもいいですか?」
「もちろんよ!」
むしろ、篠原はこうなることを予期していたようだ。
喜んでエルが興味を示すのを見つめている。
「醤油も私はエルドラドでは洋食の隠し味に使っていたけど、元々はこういう風に和食で味付けのベースとして使うものなの」
篠原の説明を、一言も聞き漏らすまいとするように、真剣に聞き入るエル。
「これはお砂糖なんですか?」
次にエルは、篠原が砂糖の代わりに使っていた褐色の調味料に興味を示す。
「三温糖っていうの。白いお砂糖を精白した時に最後に残ったものを結晶化したもので、あまり高級なものではないって言う人もいるけど、私はこの砂糖の風味が好きなのよね」
その三温糖も味見させてもらうと、エルはまた集中しているような顔になる。
「この三温糖の成分が、出汁の旨味と混じって凄く複雑な味を作ってる感じがします……」
エルは、自分の頭の中では具体的な分析ができているのだろう。
だが、それを上手く言葉に翻訳できないのか、もどかしいような表情を見せている。
「そうなの。だからね。使う日本酒も昔で言うところの二級酒の方がいいのよ。今で言うと吟醸や純米は避けて本醸造って感じかしらね。和風の味付けの場合には醤油を頂点に、どれだけ多種多様な雑味をバランス良くブレンドできるかだから──」
「本醸造のお酒の方が個性が強いんですねっ」
「そう。高い等級ほど成分に関する規定が厳しいわけ。だから無個性になるって昔から二級酒を好んで飲む通がいたらしいわ」
エルと篠原がまた自然にディスカッションを始める。
エルドラドに一緒にいた翔哉などは、昼下がりに良く見かけた風景だった。
しかし、逆に研究スタッフ達はモニターでは見ていたものの、そばから見ているのは初めてなので新鮮だったようだ。
「す、すごい。一応モニターしている時に対話は聞いてたけど……」
「こんなに料理に興味あったのね。エル」
実際に、エルが食い入るように話しているのを、外から見るのはかなり印象が違うらしい。
隆二と舞花はかなり驚いているようだ。
「エルが料理にかなりの興味を示しているのは勿論だけど、エルの感性的な分析に対して篠原コックがどこまでも正確についていける凄い人って言うのも見逃せないわね」
「まあ、どっちも凄いっていうかねぇ」
恵と白瀬も驚きを通り越して半分呆れ顔だ。
しかし、どうやらこういう機会を作ったのは正解だったようだな。
白瀬は心の中で頷いていた。
篠原からは既に聞いてはいたのだが、この二人のやり取りを実際に目の当たりにして、篠原がずっと料理人としてもエルを高評価し、興味を示し続けていたのがなぜだったのか。
改めて実感した白瀬だったのである──。




