80 話 翔哉の決心
昨晩はあの後──。
いわゆる“新婚三択”の説明をするのに、ずいぶんと苦労させられてしまった翔哉であった。
「それにしても、最後の“私”ってなんでしょうね、翔哉さん?」
エルの抱いた素朴な疑問。
これを上手く誤魔化さなくてはならないっ!
「いや……何っていうか、我思う故に我ありって……言うじゃない?」
「デカルトの有名な言葉ですね」
「だからーそのー……私をもっと知ってくれというかー……」
出来上がった夕飯を食べながら謎の問答が続く。
ハンバーグは最後にエルが焼いてくれて、こんがりと程良くふっくら焼けており、絶対に美味しいはずなのだが!
──はずなのだが!!
「私も、もっと翔哉さんに私を知って欲しいです!」
ブッ……。
吹きそうになってグッと堪える翔哉。
「ゲホゲホ──」
「大丈夫ですか? お茶お入れしますね」
や、ヤブヘビだった。
でもこれでこの話は何とか誤魔化せた……?
「それでさっきの話なんですけど」
忘れてない!?
そうなのだ。
可愛らしく無垢に見えても彼女は高性能AIの頭脳を持っている。
それ故に彼女との会話には、いかなるギミックも印象操作も手練手管も通用しなかったのである。
ただの浪人生だった翔哉のかなう相手ではなかったのだ!
──そういう訳で。
食事自体は滑らかに喉を通ったはずなのだが、肝心の味が全然わからなかった翔哉なのであった。
◆◇◆◇◆
「エルを相手にそれは無理ってもんだよ~」
明くる日のこと。
昼前になってから、研究所に顔を出した翔哉に対して、隆二が手を横に振りながらそう言った。
「エルを理屈で誤魔化したり、騙したりすることなんて僕らだってできないし。それができる人間はほとんどいないんじゃないかな?」
そう言うのである。
そこまで言い切るのにはどうやら訳があるようで……。
「ガイノイドってさ。感情を持っていることで、より人間の悪意ある強制のコントロールに動かされやすいわけ。つまり意志の保全に脆弱さを抱えていると言える訳だろ?」
隆二はそれを、ガイノイドは感情のコントロールに弱いと表現した。
つまりは──感情的な脅迫や押しみたいなものに取り込まれやすいってことだろうか?
気の弱いエルのような性格なら尚更だろう。
「だから、せめてもの自衛のために理論理屈からのコントロールには、めっぽう強くなるよう最新のアルゴリズムが採用されているんだよ」
「口喧嘩に強いってことですか?」
それも何だか、エルのいつもイメージからはとても想像できない感じがするんだけどな……。
「いや、口喧嘩に発展させるかどうかはエル次第だからね。正確には口喧嘩に強いとかそういうことじゃないんだ。エモーショナルフォースを搭載することで、ガイノイドは物事を理屈だけじゃなくて、イメージという実態に近いところでも捉えることができるようなった。それによって──」
ここは隆二が一番こだわって開発した部分らしく、話しているうちに力が入っていくのが翔哉にもわかる。
「──手に入れた新しい認知力なんだ。エモーショナルフォースを持つガイノイドだからこそ導入が可能になった最新の論理アルゴリズムなんだよ!」
そう得意げに隆二は宣言した。
──しかし、翔哉はいまいちその凄さがまだわからない。
舞花とおバカなやり取りをしている隆二を見ていると、その若さもあってついその辺にいる”気のいいお兄さん”に見えてしまうのだが、こう見えても彼はこの年で“言語学の権威”なのである。
そのためこういう話を始めると、夢中で話す隆二の話に翔哉も時々ついて行けなくなってしまうことがあった。
そんな時に、やっぱりこの人も凄い人だったんだと痛感してしまう。
同年代であっても、僕とは違うのだ──と。
「うーん、アンドロイドにこれを応用したアルゴリズムについては、まだ全く新しい領域で名前が付いていないんだけど……」
そう言葉を探しながら、隆二は何とか翔哉にもわかるように説明しようとしてくれる──。
人間はつい論理や理屈が上手く構築されていると、その内実を確かめることなく直感的に「正しい」と感じてしまうものだ。
しかし、実際には論理や理屈などというものは「双方向から有効に作用する」ものらしい。
つまり「正しい」ことも「間違っている」ことも、理論や理屈を使えば「どちらも正しいかのように説明ができてしまう」という代物なのである。
「これは理論や理屈など論理自体が、元々“言語を使って物事をわかりやすく説明する”為に発達したものだからなんだよね」
つまり、本質的には「理論や理屈で上手くされていてわかりやすい」ことは必ずしも「正しい」ことを意味しないはずなのだ。
「それは、ずっと真逆の方向から双方の結論を正しいと主張するために、延々と議論をやっている議会の中継や、裁判での検察側と弁護人のやり取りを聞いていても明らかだろう? でもまだ世の中全体で見ると、それをわかっている人達は少ない。だからスラスラとわかりやすく説明されてしまうだけで、それを人間は反射的に正しいと思い込んでしまう」
確かに。
僕自身も、立て板に水のようになめらかに説明されると、きっとそれは正しいことを言ってるんだろうなと、つい自分で考えることを止めて納得してしまっているような気がする……。
「これを悪用することで、詐欺師を始め論理的なコントロールが得意な人達は、相手に自分の都合がいいことだけを正しいと思わせるわけさ」
◆◇◆◇◆
そこまで説明してから隆二は一旦話を戻す。
「人間は、認知学的に言うと元々は概念やイメージをいわゆる絵で捉えた上で、それを他人に伝達するために言語や理屈に二次的に翻訳してやり取りしている訳なんだけど──」
その言語化という“翻訳”を、テレパシーとかみたいに迂回できたら、楽なんだけどねーと笑う隆二……。
「それと同じことをガイノイドができるようになった。これはそういうことなんだよ。エモーショナルフォースを持ったことによってね! 認知学的な情報入力の分野においても、エルは人間に追いついたと言えるんだ。これがどれくらい凄いことかわかるかい、翔哉君!!」
翔哉は、隆二の言うことがちょっとわかったような気もしたのだが、正直に言うとやっぱりイマイチ良くわからない気もしてしまう。
──正直に言うと、話が複雑過ぎて最後まで把握きれないのである。
これが天才の思考というものなのだろうか?
それとも、そういう選ばれた人たち独特の考え方なのかな……?
話していると、そういう自分では超えることができない高い壁のようなものを感じてしまうのだ。
普段は同年代の男同士、隆二とはかなり仲良くなってきていた翔哉なのだが、そんな時にやはり“違い”を実感することになる。
やっぱりこの人もエルを作る為に、選ばれた才能の一人なんだなあ、と。
「でもさ。例えこういう論理や理屈が働く仕組みをはっきりと理解していた人間がいたとしても、それを普段から完全に意識して生きていける人間なんて、実際にはほとんどいないだろ? でも、ガイノイドであるエルにはそれができてしまうんだ!」
隆二の声が誇らしそうに高ぶる。
それがまたエルの理解力や咀嚼力、相手の意図を正確に汲み取る部分などにフィードバックされており、言語を使ったコミュニケーションをより円滑にさせているらしいのだ。
その基本システムを組み上げたのが、目の前にいるこの気さくな青年ということになる。
「これこそが彼女の持っている知性の特質ってことなんだ。それは口喧嘩に強いって方向にいつも働く訳じゃないんだけど、論理の指している概念をイメージで確実に捉えながら理解しているから、相手の意図や解釈される対象物の流れを取り違えることが極端に少なくなる。その結果、判断もより正確になるということなんだよ」
人間は議論をしているうちに、どうしても自分の「考え」を言葉に翻訳しているだけの「言葉」や「理屈」自体にこだわってしまい、相手を論破することで正しさを証明しようとしてしまうものなのだが、エルはそういう「判断ミス」自体を犯すことがないという。
──そういうことらしい。
「だから、理屈を使ってエルを論破したり誤魔化して彼女に勝ったりすることなんて、人格プログラムを作った僕にだってできないし、彼女の知性を煙に巻いて騙すなんていうことは、それ以上にもっとできないよ。エルに対しては、いつもできるだけ正直に接するのが身のためってことだよね!」
そう言って隆二は笑った。
何だかこうして頭の良い人達ばかりが近くにいると、自分がちっぽけなミノムシでもなったような気がしてくる……。
翔哉は自分の情けなさに心の中でため息をついていた。
それにしても、エル……ガイノイドには、いったいどれほどのテクノロジーが詰め込まれているのだろうか?
それほど頭が良いとは言えない翔哉には、とてもその全てを理解することはできそうになかったが、エルがあれだけ当然のように人間に近い挙動を見せる陰には、気が遠くなるほどの知識や技術の積み重ねがあるのだろう。
エルの振る舞いがあまりに自然なので、ついつい忘れてしまいそうになるのだが、それはきっと凄いことなのだ。
翔哉は、そう考えて何だか不思議な気持ちになるのと同時に、その神秘的なまでの仕組みに驚嘆せざるを得なかったのである。
◆◇◆◇◆
こうして──。
エルを論破するのが如何に困難かという隆二による説明が終わった。
翔哉にとっては、どちらかというと鏡野隆二先生による講義やっと終了──みたいな感じである。
そんなわけで、ほっと一息ついている時のこと。
翔哉はもうひとつ気になっていたことについても、ついでに隆二に聞いてみることにした。
「後ですね……。何だか舞花さんがエルに色々吹き込んでるみたいなんですけど……隆二さん知りませんか?」
そう言うと隆二はすぐに思い当たったようだ。
「ああ、言ってた言ってた! 様々な刺激を与えてあげることで、翔哉君とエルの関係を深めてあげなくっちゃとか舞花が叫んでたわ」
「うぇ……」
やっぱりである。
「このままじゃ、僕の神経が持たないですよ……」
そうこぼす翔哉だったが、隆二の返事は案の定だった。
「まあ、口から先に生まれたような奴だからなあ。恋愛は戦争だとか。吊り橋効果は恋愛関係を深めるための必須条件なの──とか、言われちゃうだろうなあ」
「そんなこと言ってたんですか?」
「うん、言ってた。ああなった舞花は、もう誰も止められない」
ため息をついて見せる隆二なのだが。
その態度とは裏腹に、それはある程度エルにとっては必要なことなのかもしれないと、実は隆二も内心考え始めていたのである。
許してくれ翔哉君。
科学に犠牲はつきものなのだ。
心の中で隆二はそっと手を合わせ──眼の前の翔哉に対して懺悔していた。
◆◇◆◇◆
その後は昨日と同じ様に、翔哉とエルは買い物をして帰ってきて、夕食を食べていた。
今日は豚肉のソテーとキャベツの千切りである。
それとフリーズドライのお味噌汁に加えて、真空パックの付け合せもエルが小皿で付けてくれる。
「本当は全部手作りしたいんですけど、まだ私は煮付けのような微妙な味付けが苦手なんです……」
エルはすまなそうにそう言う。
それもあって和食のおかずは少し作りずらいようだった。
とは言うものの、そのご飯は翔哉にとっては十二分に美味しいものである。
「あ……ご飯粒ついてます!」
嬉しそうにそう言いながら、翔哉の頬に付いているご飯粒を取ってくれるエルなのだが──。
翔哉はつい『これも舞花に教えられたのだろうか』そう考えてしまうようになってきていた。
「あ……ありがと」
そう応えながらも、ふとそんな不純な気持ちが混じってしまうことに少し罪悪感を覚える。
こんなことでいいんだろうか……?
食事の後、お風呂に入って湯船に浸かりながら翔哉は考えていた。
僕はこれからエルとどう付き合っていけばいいんだろう。
そして──。
「エル。今日からは一緒にベッドで寝ようか?」
やがてお風呂から上がってきた翔哉は、昨日と同じようにパジャマに着替えて待っていたエルに思い切ってそう声をかけていた。
「え……いいんですか?」
嬉しそうに顔を輝かせるエル。
その反応からもエルが嫌がっていないことは明白だった。
「うん。君さえ嫌じゃなければ」
「嫌じゃないです! じゃ今日から翔哉さん一緒に眠ってもいいんですね?」
それに対して翔哉は決心するようにしっかりと頷く。
すると感情が抑え切れないように、エルは翔哉の胸に飛び込んできた。
「ありがとうございます。翔哉さん!」
これには翔哉もかなりびっくりしたのだが、それもできるだけ冷静に受け止めてエルをしっかり抱き締める。
そうだ。
いくら知能が超絶に高くても、エルの精神はまだ子供と同じなんだ。
僕が勝手に意識して遠ざけてどうする。
そう自分にカツを入れる。
最初はエルを助けるためだったとはいえ、こうして一緒に暮らすようになった以上、もっと彼女を理解しようと僕自身も踏み込んでいかなきゃいけないんじゃないのか?
──そう翔哉は心の中で決心を固めていた。
………………。
…………。
……。
ベッドに二人で入るとエルは温かかった。
子供のように無邪気にはしゃぎながら、エルが翔哉の隣で掛け布団からひょっこりと顔を出す。
よっぽど嬉しかったらしい。
そして最近はいつも付けている、翔哉からもらった星のバレッタを大切そうに外して、枕元にあるナイトテーブルに静かに置いた。
それから今度は少し恥ずかしそうにモジモジするような仕草を見せる。
「どうしたの? やっぱり僕と一緒に寝るのは恥ずかしい?」
翔哉がそう聞くとエルは首を勢いよく横に振った後……。
「あの……翔哉さん」
──しばらく沈黙がある。
「……キス、してもいいですか?」
「え!?」
勇気を振り絞って──という感じでエルがそう言ってきた。
今日は一緒に寝るだけだと思っていた翔哉にとっては、いきなりハードルが上がってしまう。
心臓が爆発しそうだ。
「キスって言うのは愛情表現なんだって舞花さんが教えてくれました。本当にそうだと思うんです。だってあの最後の日に翔哉さんがキスをして下さって、私はこれまで感じたことが無いくらい幸せだったんですから……」
そう言うエル。
「だからもし翔哉さんが嫌じゃなかったら、今度は私からもキスがしたいんです。翔哉さんを好きだって気持ちを私も表現したいから……」
そこまでもう心臓が破裂しそうなくらいなのに、最後にエルは首を傾げながらこう囁いたのだ。
「駄目ですか……?」
──翔哉を見つめているエルの目が潤んでいた。
そんなエルを見ているとまた湧き出してくる強い気持ちが抑えられなくなりそうだった。
もう誰に見られいたってかまうものか。
翔哉はそう腹をくくる。
目の前のエルは僕だけを見てくれているんだ。
僕だってそれに真摯に向き合う義務があるんじゃないのか?
翔哉はそう覚悟を決めると──エルに答える。
「いいよ……エル……」
そう言うと自分からエルが、翔哉の方にゆっくりと身体を合わせてきて、そして二人の唇が合わさった。
二度目のキスである。
エルが目を閉じて幸せそうに涙を流す。
翔哉はエルをいたわるように抱きしめ、そしてエルも必死で翔哉にすがりついてきた。
強い感情と快感が二人を襲い、時間の感覚が消えてしまう……。
────。
──。
どれくらい時間が経っただろう。
翔哉がふと気が付くと、エルがまるで寝息を立てるように、彼の腕の中で脱力してゆっくりと脈動していた。
どうやらあのまま休眠状態に入ってしまったらしい。
翔哉は、緊張が解けたものなのか、それとも安堵ものなのか、自分でもわからないため息をひとつ──つくと。
エルを起こさないように気を付けながらゆっくりと寝返りを打つ。
……今夜は眠れそうになかった。




