69 話 勝負手
所長室に戻ってきた白瀬はデスクの前に座ると腕を組んで考え込んでいた。
本部長のところから出てきて以来、何か頭の中に引っかかりを感じていることがあったのだ。
それを独りになって一度静かに考えてみたかったのである。
まずは現在の状況に散らばる各ファクターを整理してみることにする。
製品化の凍結……本部長の大川さんから貰った本社からの指令書にはそう書いてあった。
こうなると、今後すぐの製品化手続きはまず無理だろう。
社会的状況が大きく変化したことを確認した上で、そこから上申して認められない限りは当分この判断は覆りそうにないのだ。
このように製品化に関しては、取り敢えず諦めるしか無い状況だと言える。
しかし──だ。
もう一度頭の中から先入観を取り外して考え直してみる。
今現在の状況において、火急の問題になっているのは実は当面のところ製品化の実現ではないのだ。
むしろエルの人格の延命の方なのである。
そう考えてみると──。
これについては、逆に考えれば第三者機関の諮問を普通に通過した後、製品化の是非が決定された上で、プロトタイプの“処遇”を直接命じられてしまったケースの方が拘束力は大きくなっていたかもしれない。
つまりその場合だと、最悪エルを救える余地が全く無くなってしまった可能性もあるわけだ。
それに対して今回は、本社からの指令という身内からのもの。
しかもその内実はというと“製品化の凍結”である。
それならば……。
考えようによっては、研究の継続に関してはむしろ本社から暗黙の了承が得られたという解釈も成り立ってくるのだ。
逆にそう仮定すれば、製品化がこの先決定するまでの間は、エルというプロトタイプの存在を正当化できる。
──現場側からその必要性を主張する余地が生まれてくるわけである。
「よし……!」
そこまで一旦気が付くと、白瀬もずっと引っかかっていた心の支えが取れたような気がした。
エルを延命するという観点から言うと、今回のこの本社からの決定によって事実上は助けられたに等しい──。
これはむしろ時間を与えられたとすら考えることができるのだ。
しかしだ。
その流れをしっかり掴んで確実なものにするためには、もう少し状況を整える必要がある。
エルを今後も継続的に稼働運用することによって得られるメリット。
ガイノイド研究のロードマップ上における彼女の重要性を明確にアピールできるテーマ──それを創出しなければならない。
そして、その研究における“必須要因”の確保だ。
「そうなると次の一手は……」
こうして考えをまとめると、白瀬はカレンダーの9月3日土曜日のところに赤いペンで勢いよく丸を付けた。
この一手こそが、この絶体絶命の状況からエルを救うための勝負手ということになる。
──それを推し進めるためには、どうあってもここで“彼”の存在を欠くわけにはいかないのだ。
◆◇◆◇◆
その夜、安原龍蔵の屋敷に黒塗りの車が乗り付けられていた。
どうやら来客中らしい。
いつもの暖炉がある応接室で、龍蔵は数人の男から何かの報告を受けているようだ。
暖炉の前にある大きめのソファーにいつも通り龍蔵が座っており、その隣で退屈そうに行儀悪く絵里が同席している。
そして彼らの前にある高級そうなテーブルを挟んで、その周りのソファーに座った男たちはみんな黒服を着ており、頭は短く刈り揃えられサングラスをかけていた。
龍蔵の座ったソファーの後ろにある暖炉には今日は火が入っており、パチパチと音を立てながら火の粉が爆ぜる。
──その時代錯誤にも見えるような空気の中で、龍蔵が不機嫌そうに男の報告を遮って声を荒げた。
「なんだと? あの人形計画の処遇を、綾雅のほうで勝手に決めおっただと?」
「はい。第三者機関の諮問の前に自ら製品化を取り下げたとのこと。どうやら製品化を凍結する方向に、突如経営方針を転換した模様です」
老人の目の前に座った体格の良い男が、話を遮られたことを意にも介さずに、頭を下げながらそう申し添える。
しかしそれすらも目にも入らない様子で、その報告を聞いた龍蔵の口元が怒りを我慢できないようにブルブルと震えていた。
「ふざけるなっ! ここまで自社が大金を投じて開発してきたものを、製品化直前になって株主総会も通さずに自ら取り下げるなど……。ありえんことよ!! 裏で何かあったんじゃろう! そうではないのか!?」
かなりご立腹のようである。
立場が違う者らしい別の細身の男が斜め前から口を挟む。
「それが事の詳細につきましては綾雅からは全く漏れ出て来ないのです……」
焦っているのか、ハンカチで顔を拭きながら更に言い訳がましい口調で説明を続けるようだ。
「ですが、あのガイノイド計画につきましては、以前より色々な方面からの不安が囁かれておりましたゆえ……。今回もどこかの省庁からクレームが入ったのではとの情報もございます」
「その情報の裏は取れているのか!?」
「い、いえ……」
あっさり引き下がる細身の男。
最初に話していた男が龍蔵に不思議そうに尋ねる。
「ですが旦那様。綾雅が自ら製品化を諦めたというのです。だとしたら、我々の目的も労せずして達成されたと見ていいのではないでしょうか?」
龍蔵はそう口にした男を見下すように更に大きな声で怒鳴りつけた。
「貴様は莫迦か、水島! ワシが何のために第三者機関にあれほど投資してまで、準備を万端に整えたと思うとる!!」
この短気な老人は、自分にはわかりきったことをすんなり理解しない人間が大嫌いだった。
「いいか。AIの価値は経験と記憶よ。社会的な基盤が成り立っていない今のうちに、あの人形の稼働データ……つまりその痕跡までを完全に抹消せねば、将来に禍根が残るからに決まっとろうが! 製品化の是非など正直どうでも良い! そんなこともわからんか、この能無しが!!」
その為に事前に第三者機関の委員を懐柔して、まずは製品化をはっきりと否決した上で、研究の凍結とこれまでの研究データの破棄までを行政処分クラスの圧力で綾雅側に申し渡すこと。
その手はずが純然たる形で整っていたはずだったのである。
だがこれでは目論見が外れたどころでは済まない。
製品化を先延ばしにするだけに留まれば、あの人形の延命にむしろ手を貸してやったようなものではないか!
まったく忌々しい!!
龍蔵は心の中で毒づく。
それにしても。
そのワシの意図を見事にかい潜るような今回の動き……。
──こういう形で邪魔をされたことはこれまでも何度かあった。
「まさかとは思うが……今回もまたあの妖怪どもが動いたのではあるまいな……?」
それまで退屈そうだった絵里が、その話になってやっと興味が出てきたとばかりに口を挟んだ。
「妖怪……それって委員会ってこと?」
「よもやとは思うがな。だが、こういう物事の先を見通すような不可解なことが起こった時には、過去にも何度かアヤツらが噛んでおったことがあるのじゃ。まったく胸糞が悪いヤツらよ!」
委員会のメンバー達は、時折まるで事態の推移を事前に知っていたかのような動きを見せることがあるのだ。
それに思い至って龍蔵は悪寒を感じる。
「まったく、お爺さまが妖怪呼ばわりする訳よね~!」
絵里が空気を読むことなく、面白そうにケラケラと笑う。
そうなると……じゃ……。
龍蔵の思考が巡った。
「次は綾雅の白瀬の動きに注意しておくことじゃ。何らかの意図があるとしたら、ここからはアヤツが出張って来るはずよ。その時は場合によっては──」
そう。
場合によっては……何としても!
◆◇◆◇◆
翔哉は落ち込んでいた。
あれ以来、世界が真っ暗になってしまったように感じていたのだ。
エルと別れた次の日、9月1日木曜日の記憶はあまりなかった。
なんだか流されるままにエルドラドに行き、そして一日一応仕事をしていたような気がするのだが……。
あまりにもおぼろげで記憶があいまいなのである。
まるで前の世界にいた時に逆戻りしてしまったような錯覚を覚える。
また何にも興味が湧かなくなってしまったような気がする。
しかしこのままではいけない……そう思ってはいたのだ。
今日の仕事が終わればやっと休みになる。
その間にちょっと頭を冷やさないと……。
──そう思いながら出勤した次の日の金曜日。
翔哉は高野から声を掛けられた。
「翔哉君ちょっと……」
あれ……?
僕はここのところぼーっとし過ぎていて、とうとう何かマズイことでもしてしまったかな?
そう思いながらオフィスまでついて行くと。
そこで高野がこう告げた。
「エルの開発の白瀬さん。一応君も聞いたことはあるだろう? あの人から翔哉君に伝言があるんだ」
そしてこう続けたのである。
「明日土曜日の午後2時。ファクトリーエリア駅のいつものベンチで待っている……だそうだよ。そう言えばわかるってさ」
「ええ!? あの……その白瀬さんって人が僕にいったいどういう……」
翔哉は面食らった。
白瀬さんと言えば、会社の上のほうまで顔が利く凄い人だったはずだ。
そんな偉い人が僕なんかに何の用だと言うだろう?
「その辺は僕も知らないんだ。会って直接聞けば良いんじゃないのかな?」
高野はそう言ってにっこり笑うと、話は済んだとばかりにそのままフロアの方へと行ってしまった。
翔哉には何がどうなっているのか皆目見当もつかない。
取り敢えず行ってみるしかないようだった。
9月3日の土曜日に。
ファクトリーエリア駅へと……。




