06 話 この世界の労働事情
どうやら僕は気がついたら異世界に来たらしい。
それなのに──。
それからの何もかもがあまりにも事務的!
そして用意周到すぎるというロマンの無い展開に僕は落胆していた。
それこそ『異世界へようこそ』なんて冊子まで渡されちゃっては、もうこれは笑うしかないじゃないですか。
親切なんだか、意地悪なんだか。
◆◇◆◇◆
さて。
僕が次第に落ち着いてきたことを確認すると、目の前にいる『異世界コーディネーター』の伊藤さんは次にこう言ったのだった。
「翔哉クンが希望するなら、すぐにでもこの世界で働き始めることができるようになっています」
なるほどね。
それで前もって適性検査や職歴調査をされたってわけだ。
ますますもって、この施設が職安と呼ばれていることに納得してきた。
これじゃ、誰も何とか分子再配置局とかっていうヘンテコな名前では呼ばないだろうな。
それはそれとしても……だ。
異世界に来て、それも直後のタイミングですぐに働けって言うのは……どうなんだろうか?
そこに少し戸惑う気持ちもあるにはあった。
まあねー。
前の世界から持ってきたお金が使えるかどうかもわからないわけだし。
使えたとしても今後の生活費になるほどのお金は持ってきてはいないわけだし。
働けと言われればそうするしかないんだけど……。
などと考えを巡らせていると、そんな僕の様子を見て目の前にいる伊藤さんが慌てて言葉を挟んできた。
どうやらそういうことではないらしい──。
「誤解しないで欲しいんだけど、こういう手順になってるのはね。翔哉クンに違う世界に来て、すぐにお仕事しろって強制している訳ではないのよ?」
ちょっと心配そうな表情でこう言ってくれたのだ。
それはそれで、今度は逆に意外過ぎて僕は言葉が出なかったんだけれど。
いったい、どういうことなの?
「こちらの事情も先にお話しておくべきだったわね」
伊藤さんはちょっと申し訳なさそうにしながら、またこの世界の新しい事情を説明してくれる。
それはまたこの世界の過去にまつわるややこしい話だった。
「この世界では、地球暦に変わる直前に大きな戦争……世界大戦があってね。その戦後処理で世界中が一度完全に作り変えられることになったらしいの」
導入からしてこんな感じ。
見かけこそ似たような世界と思っていたこの世界だが、まだまだ色々と面倒臭い事情が更にありそうな様子なのである。
細かい事情は後で冊子を見て欲しいんだけど……と、さっきもらった『異世界へようこそ』の小冊子を示すと説明が続いていく。
「それ以来ベーシックインカム制度が導入されているのよ。だから全ての住民には必要最小限のお金は毎月無条件で支給されている。つまり全く働かなくても一応最低限の生活は保証されているというわけなの」
それにしても。
今までいた世界とそっくりに見えていたこの世界。
それに反して、伊藤さんの口から次々と語られていく大きな歴史や社会制度の違い。
その波状攻撃に僕は再び頭がでんぐり返りそうになっていた。
「でもね。それでも社会を動かしていくために人々は自発的に必要な労働力を提供しているの。そしてその労働力や技能に見合った対価を受け取ることで、自分が希望するだけの豊かさを得ることができる仕組みになっているのよ」
飢える人はいない……。
でも労働によって生活水準は自分で選べるってことか。
「だから、翔哉クンも今すぐ働かないと飢える……ってことはないのよ」
僕を安心させるようにそう言った後、少し言い訳をするように伊藤さんはこう付け加えた。
「だけど何ていうのかな……自分の世界をロストして来た転移者の人達は、やっぱり新しい社会に自分のアイデンティティが無いと情緒不安定になる傾向が強いらしくて……」
そういうものなのかな、やっぱり?
僕にはまだいまいちよくわからないような。
「だから、まず自分が社会から必要とされているというのを実感してもらってから、新しい世界に適応してもらう──そういうシステムになってるのよ」
つまりこういうことだ。
すぐに働かなきゃいけない訳じゃないけど働きたい人にはすぐに働く場所は用意される。
そう独り言のように言った僕に伊藤さんが頷く。
「でもまだ具体的にどんな仕事があるのかもわからないままですからね。これで今すぐ働くかどうかを決めるっていうのは……ちょっと怖い、かな?」
取り敢えずそう僕が言うと、伊藤さんはどうやらその僕の返答を半ば予想していたらしい。
「そうだよね。これも翔哉クンがもし希望すればなんだけど、さっき書いてくれた適性判断情報から現在どういう職業に就くことが可能か、すぐにでも確認することができるわ」
そう言ってくれた。
もうその回答は伊藤さんの端末までやってきているらしい。
その辺りは流石というべきだろうか。
加えて言うと。
もしその回答をいますぐ聞いても、いつから働くのかについては今後ゆっくり決めてもいいとのことである。
なるほど。
それなら僕がこの世界で就くことができる職業を、一度見せてもらってもいいかもしれないな。
僕はそう思い始めていた。
ショッキングなことが多かったせいで、この世界についてはもう色々と聞いてきたような気がしていたけど。
考えてみれば、それらはどれも世界全体や社会構造のような、マクロ的な情報ばかり。
つまり、実生活に密着した具体的な情報に関しては、まだあまり聞いていないことに気付いたのだ。
コンビニはあるのか?とか。
ネットやスマホはある?
ゲームやアニメなんかの娯楽はどうなっているの?
そういった日常における生活事情についての情報の方が、これからこの世界で生活していくために、差し当たって一番必要になって来るはずなのだ。
そういった意味でも。
まずは、この世界の職業について具体的に聞いてみることで、そこから色々わかってくるんじゃないだろうか?
そう考えた僕は、伊藤さんの言う通り自分がこの世界で今すぐどのような職業に就けるものなのか、説明を一通り聞いてみることにしたのである。
◆◇◆◇◆
伊藤さんが僕の目の前で端末らしきものを操作している。
さっき僕が提出した職歴情報と適性検査、そして今のこの世界の求人状況などから既に職業の割り当て指示が端末まで来ているとのことだ。
AIによって最適化されたそのデータは、最終的にパソコンと思しき伊藤さんの目の前にある端末に表示される仕組みになっているとのことなのだが……。
「あ……来た来た」
伊藤さんはあまり待つことも無くそう口にすると、その結果をすぐにプリントアウトして僕に渡してくれる。
そこに整理された情報と共に書かれていたのは……。
◯ コンビニエンスストアの店員《小売業》
◯ フランチャイズのレストラン勤務《外食産業》
◯ マンションの管理人《不動産業》
(順不同)
という3つの職業だった。
最初は、なんか訳のわからない想像もできないような職業名が、ずらずら並んでいたらどうしよう……って内心ビクビクしていた僕なんだけど。
しかし、実際にもらったものを見てみると──。
すごーくわかりやすい感じだったので逆にびっくりしてしまう。
って言うか。
コンビニとかファミレスって、やっぱりこの世界にもあるんだ。
ちょっとほっとした……というか。
更に拍子抜けしてしまったというか。
その辺りは、やっぱり前の世界とはあまり大きく違う文化形態ではないみたいだった。
そのプリントアウトした紙を見ながらコーディネーターの伊藤さんが説明する。
「それぞれそのセクターの代表的な職種が頭に具体的に3つ示されていると思うけど、基本的にはその後ろに書いてあるセクター自体を選択するものと考えて下さい」
「つまり小売業、外食産業、不動産業……ってことですか?」
「そうね。そこで不動産業っていっても色々幅広いわけだけど、結局はその中からマンションの管理人に近い業種が選択されることになるの。ビルの管理人になったりね。コンビニの店員がスーパーの店員になったり、レストラン勤務が居酒屋勤務になったりはするわけ。でも、不動産の3番目を選んだからって不動産売買が選ばれたりはしない……そんな感じかしらね」
なるほど。
最初に書いてある業種は具体的な一例というわけだ。
それにしても……。
さすがというか何というか。
いかにもフリーターが普通に働いているような職種が並んだって感じ?
まあ、そこは僕の職歴──というかバイト歴が某ハンバーガー屋さんのバイトくらいしかなかったから当然と言えば当然なのかしれないけど。
上から1つずつ頭の中で検討してみることにする。
コンビニの店員か──コンビニ。非常にイメージがしやすいと言えばしやすい響きなんだけど。この世界って表面上は僕の前の世界に似ていても中身が全然違っていたりってことがままあるようだ。そう考えるとちょっと疑心暗鬼にもなってくるよな。この世界のコンビニってどんな感じなんだろう?
一見無難そうには思えるけど、コンビニというのも実は大変な仕事だと思うんだ。品出しやレジ打ちだけじゃない。宅配便の受付やチケットの発券、公共料金の支払いなんかはもちろんのこと、最近ではお弁当を調理して「できたて弁当」なんてことまでやらされることがあるらしいし。
まあ、僕の元いた世界では……だけどね。
ある意味社会通念が変わっていくごとに、それに適応していかなきゃならない仕事……ということになるのかもしれない。そういうのは、もうちょっとこの新しい世界に適応してからのほうがいいのかもしれないとは思う……。
次がフランチャイズレストラン──ファミレスって感じ? さっき所内レストランみたいなところで一応食事はしたけど、それを見る限りではこの世界の食生活もあまり前の世界と変わらない感じだった。きっと調理方法にしてもそんなに大きく違うところはないんだと思う。
そういった意味では、そういう職場で自分が既に知っている知識を利用しながら、新しい社会との違いを少しずつ学んでいく……というのはいいかもしれない。今まで知らなかった新しい料理や味に出会えるかもっていう期待もあるしね。
でも……そこに不安が無いわけじゃない。レストランというからには、一緒に働く人間側にしてもお客さんの側にしても、たくさんの不特定多数の他人に関わらなくっちゃいけないってことだ。それはマニュアル的に限定されたコンビニの接客よりもある意味大変かもしれない訳で。そして、この人間関係っていう代物が僕にとってはただひたすらに苦手で面倒臭いもの……なのである。
その点、マンションとかビルの管理人っていうのは、ある意味非常に楽な仕事だって話は聞いたことがある。ただ逆に暇過ぎて死にそうになるって話だけど。
あ、全部前いた世界の話ね。
だからゲームなんかを持ち込めないと暇を潰すのに苦労する……って言うんだけど、この世界ってスマホや据え置きなんかのゲームはあるのかな?
◆◇◆◇◆
──などと。
そこまで沈黙思考していたところで。
あれ!?
急に目眩がした。
そして突然堰を切ったように物凄い疲労感とストレスが襲ってくる。
こ、これは……もう限界ってこと?
はあぁぁ……。
大きくため息をつく。
あ、切れた。
今、僕の中で何かが切れてしまった。
もう……駄目だ……って体が言ってるみたいだ。
でもしょうがないよね。
何しろ今朝?
僕はなんだか自分でもよくわからない間に急に異世界なんかに飛ばされてきたばかりなわけで……。
それからもうここまでなんだか……色々ありすぎてちゃって……。
おっと──またふらついてしまう。
どうやら体も心も悲鳴をあげているようだった。
突然限界が来たように思考がブラックアウトする。
頭がいきなりスポンジになってしまったような感じである。
もう何にも考えられないや……。
「あの……伊藤さん、ちょっと……」
僕は、片手を伊藤さんの方に挙げながら、やっとのことでそう呼びかけると、取り敢えずこれからどうするかについては先に伸ばしてもらうことにした。
まずは一度ゆっくりと休みたい──。
僕がそう伝えると、伊藤さんは快く了承してくれた。
実はここからはもうあまり記憶がはっきりとしていないんだけど。
伊藤さんはすぐに僕がここで暮らせる手続きを進めてくれたらしかった。
そして僕が住むためのワンルームがこの近くのアパートにすぐ割り当てられることになったのだ。
そこにはパソコンやネットも常備されており、またスマホも僕用のものがその場ですぐ支給され……。
この時は朦朧としていて何とも思わなかったけど、これって何もかもすぐに用意されて至れり尽くせりって感じの扱いだよね?
なんか受け入れ体制がすごいな──という。
伊藤さんは部屋の鍵やら日用品やらの支給品を受け取る窓口まではついて来てくれたんだけど、僕はそこで彼女と別れることにした。
彼女としては、一緒に割り当てられた部屋まで案内してくれるつもりだったようなのだが、僕がそれを断ったのだ。
部屋まではもらった地図があったし何より早く独りになりたかった。
心がもう限界だと叫んでいた。
これ以上他人といて、気を使うことはできそうになかったのである。
もらった地図を見ながら、部屋までの道を独りで歩く。
町並みは一見すると普通だったし、道のりも特に難しくなかった。
よかった。
これなら迷うことはないだろう。
もらった鍵もホテルのような感じでカード式のもの。
部屋が開かないとかでトラブルが起こることは恐らく無いだろう。
そう考えて。
またちょっとほっとする。
ほっとした途端。
次は強烈な睡魔が襲ってきた。
なんだかこのまま行き倒れてしまいそうな……そんな感じ。
なんとか足を意識的に動かして先を急ぐ。
とりあえず……とりあえず……だ。
部屋に着いたら一旦眠ろう。
そして……起きてから……これが夢じゃなかったら……。
──それからこれからのことを考えることにする。
そうだ……それがいい……そうしよう……。
────最後にそこまで考えるのが
やっと──だった────。