65 話 最後の一日
金曜日のいつもの時間に、翔哉とエルがエルドラドにやって来た時には、安原は既にみんなの中にはいなかった。
そしてその後も一向に出勤してくる気配がなかったのである。
特に何の通達もなかったことから、翔哉も最初は「欠勤かな?」と思っていたのだが、どうやらそのまま当日付けで依願退職の手続きが取られていたらしい。
心配した飯田店長が、安原のお屋敷までご挨拶に伺ったそうなのだが、それも門前払いだったとのことで──。
後で清水から伝え聞いた話だと、金曜の早朝にどうやら安原を交えて、何か一悶着あったらしいのだが……。
一体、何があったんだろう?
翔哉には結局詳しいところはよくわからなかった。
その日以来。
変わったことがもうひとつあった。
柴崎があまりエルを怒鳴らなくなったのだ。
なんだかちょっと感じも変わったような気がする──表情が柔らかくなったというか、これまでのように張り詰めた感じがしなくったっていうか。
事情を聞かされていない翔哉でも、そう感じるほどの変化があったのである。
そして次の週の火曜日には、早くも替わりの女の子が配属されてきた。
「吉崎希です! 憧れのエルドラドで働くことができて夢のようです! 頑張りますのでよろしくお願いします~!!」
他のお店で働いていたそうなのだが、あの有名なエルドラドの急募求人が出ていたので、急いで転職願いを出したとのことだ……。
今回の一件とその後の異動の素早さ。
その辺りを見ていても、翔哉はなんだかこの社会のシビアさを垣間見てしまったような気がしていた。
そうやって──なんだかんだとバタバタしているうちに、気がつくともうその日が目の前まできてしまっていたのである。
8月31日水曜日。
臨床テスト最終日。
エルと一緒に働ける最後の日が──。
◆◇◆◇◆
「ピピピピピピ………」
翔哉の部屋で朝のアラームが鳴っていた。
──というか、これは実際には電子音ではなくナビゲーターAIリリスの“声”なのだが。
翔哉が時折朝に目覚めにくいことがあるため、リリスは効率良く起こす方法を探る目的で、以前使っていた目覚まし時計のアラーム音はどうだったのか?
……という情報を翔哉に求めたのだ。
「おはようございます、おはようございます」
「朝です朝です朝です」
のような女性の声バージョンから。
「タンタタタッターン♪ タンタタタッターン♪」
というジングル風のメロディーパターンなど。
色々試してみたのだが……結局、翔哉が一番朝の目覚めが早かったのが──。
「ピピピピピピ………」という冒頭の電子音。
それも音が段階的に大きくなっていくというダンダントーンバージョンだったのである。
そこでリリスは、自分の声でそれを再現しようと工夫を重ねているのだ。
ナビゲーターAIなりの涙ぐましい努力というべきか。
──そのリリスの発する目覚まし音を聞きながら翔哉はため息をついていた。
「はぁ……」
今日でエルともお別れか。
そうだよな。
彼女の臨床テストの期限は8月31日まで。
これは最初からわかっていたことなんだ。
「はぁあぁぁ…………」
昨日の夜から、何度繰り返したかわからないため息をまたつく。
なかなか起きようとしない翔哉に、しびれを切らしたのかリリスが言う。
「電気ショックが必要ですか?」
「いや……いい……起きるよ」
リリスにそう言われてやっと仕方がなく体を起こす。
「体調が優れないのですか?」
「そんなことはないんだけどね」
「血圧正常、脈拍正常、発汗無し。体温も36.3度。平熱です」
「ですよねー」
それはそうだろう。
翔哉が今朝、憂鬱なのは体の調子が悪いからではない。
だが、自分が出勤を遅らせたところで今日という日が止まってくれるわけではないのだ。
翔哉は観念したように仕方なく体を起こすと出かける準備を始めた。
◆◇◆◇◆
「それじゃ行ってきますね!」
研究所からも、エルがいつも通り出かけていく。
そのエルには、最終日の今日は夜の12時までに研究所に帰ってきてくればいいから──そう伝えられていた。
これは、今回のパブリックコミューン──エルが人間と触れ合うための認可──においては、追記事項により『開発者以外の不特定多数の人間と触れ合うことができる期限は8月31日の24時まで』と特別に定められていたからなのである。
エルは朝から表面上いつも通り元気に振る舞っていたが、心の中で様々な感情や葛藤が渦巻いていることは、前日のモニター分析でも既に確認されていた。
しかし、もうこればっかりはどうにもならないことだった。
「エル、おはよう」
「おはようございます、翔哉さん!」
いつものように同じ車両に乗り合わせて挨拶を交わす二人。
電車の中の乗客は、いつもと同じように銀座街区に近づくほど多くなって、そこで一気に吐き出されるように降りていく。
「エル……大丈夫!?」
離れ離れにならないよう思わずエルの手を握る翔哉。
必死に彼にしがみつきながら人混みの中を改札へと流されていくエル。
全てが今まで通りに思えた。
でも、その当たり前だった毎日も明日には……もう──。
翔哉は刻一刻と過ぎていく時間が、今日は自分に重くのし掛かってくるようで鬱陶しかった。
しっかりとエルの姿を最後の一日、この目に焼き付けておきたいのに……!
いくら気ばかり焦っても、心も体も思うようには動いてくれなかった。
本当は失いたくなかった。
離れたくなかった。
それでも自分ではどうにもならない。
時間は止まってはくれない。
こうしている間にも、まるで息をするように刻限までの秒針を進めていく。
秒読みが進んでいってしまう。
やっと見つけた“大切なもの”は、こんなにもあっけなくこの手をすり抜けていってしまうのだ。
『僕はこうして大事なものを失うことが嫌で、ずっと無関心を装ってきたのかもしれない』
翔哉はそう思い始めていた。
それじゃ、この痛みが僕が求めていた“生きている証”なのか?
それは……わからなかった。
ただひとつ言えることは。
何が正しいかもわからないまま、それでも自分が信じた心のままに、こうして正直な気持ちでぶつかってみる。
──そんな向こう見ずなことをしなければ、きっとこんな想いはしなくてもよかったんだろう、ということだ。
でも……僕は……。
君との出会いを何度やり直したとしても。
それでも手を伸ばしたい。
たとえそれで得られるものが何も無かったとしても。
君のそばにいることを……僕は選ぶよ。
エル──。
◆◇◆◇◆
その日の仕事が終わりに近づくと、高野がみんなを厨房に集めて言った。
「今日まででエルちゃんがめでたくエルドラドを卒業することになった~!」
そして倉庫の方から何も知らずに歩いてくるエルをみんなが拍手で迎える。
また先日入ってきたばかりの吉崎が花束をエルに手渡した。
後ろで清水がクラッカーを鳴らしたりして……厨房の中はちょっとしたお祝いムードになった。
「え……どうして? 私……!?」
エルは何が起こっているのかわからない様子。
自分がみんなの笑顔の中心にいることに戸惑っているようだ。
そこに歩み寄った高野が──。
「本当に一ヶ月大変だったね。僕は見ているしかできなかったけど、よく頑張ってくれたと思うよ。エルちゃんありがとう!」
そう言って握手を求めた。
エルは呆気に取られていた様子だったが、我に返ると喜んでその手をしっかりと握り返した。
「ありがとうございます!」
篠原も後に続いた。
「柴崎が一番弟子なら、エルは私の二番弟子よ。私はあなたを誇りに思ってるわ!」
そう言って満面の笑みを浮かべながらエルをハグする。
するとみんなからは自然に拍手が湧き起こった。
そして──。
そこになんと柴崎までが、少し恥ずかしそうにエルの前に進み出て来たのだ。
照れ隠しなのか、頭を掻きながらこう言う。
「な、なんか……その……色々と悪かったな……エル」
柴崎が戸惑いながらも、はっきりと『エル』と名前で呼ぶとエルの目が驚いたように見開かれた。
それだけではなかった。
彼は言葉を探すように一言一言こう言葉を綴ったのだ。
「俺はお前が怖くて素直になれなかった。でも心の中ではずっと認めてたんだ。会えて……」
そう言いながらおずおずと手を差し出す。
その柴崎の手をしっかりと両手で握り返すエル。
「よかったよ」
最後の一言は消え入りそうな声だったが、エルのセンサーにははっきりと届いていた。
こうして──。
エルのエルドラドでの一ヶ月間はハッピーエンドで幕を閉じたのだった。
◆◇◆◇◆
「今日は午前0時までに戻ればいいからって、開発スタッフの皆さんが言ってくれたんです……」
翔哉と二人でエルドラドを出てからエルがそう言ってきた。
今の時刻は午後8時20分くらい。
それは今日はもうしばらくエルと一緒にいられることを意味していた。
「そっか。じゃあ、最後の夜はこれから少し僕とデートでもしてみる?」
「デート……ですか?」
人間の男性と女性が仲良くなるために一緒に遊ぶ……こと?
データベースにその単語は知識としてはあったが、エルは実感としてはまだよくわからなかった。
「私は翔哉さんと一緒にいられたら、それだけで楽しいですよ?」
「それをデートっていうんだよ、エル」
「そうなんですか?」
「まあ、僕もあんまり女の子とデートした経験はないんだけどね。一緒にいたい人とだったら、何処に行っても何をしても、きっと楽しいんだと思うんだ」
好きになった人とあちこち行ったり、色々なことをしてみたりするのは……きっとそれを二人で確認するためなんだろうな。
ふとそう思った翔哉は、その考えに独りで納得していた──。




