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63 話 近づいていく唇

 今日は、8月25日の木曜日である。


 昨日の水曜日から、翔哉はエルドラドに復帰しているので、今日で2日目ということになる。



 復帰した昨日もそして今日も、朝いつも通り電車に乗るとエルが待っていたように乗り込んできてくれた。

 こうして以前までと同じ様に、エルと一緒にエルドラドまで出勤し始めた翔哉だったのだが──。


 それから二日間で色々気が付くことがあった。



 まずエルが一日中倉庫に入り浸っていることである。

 これが月に一度いつも行われている棚卸しのせいだということは、高野に聞いたことで翔哉もすぐにわかった。


 だがこのいつも定例のはずの棚卸しが、今月の場合かなり様子が違ってしまったらしい。

 事情を聞いてみると、今月はいつも通りの発注をしていたのに、あの事件のせいでお客さんがごっそり減ってしまったことで、在庫が予想以上に膨らんでしまったとのことだ。


 その上、毎日次の品物も次々に届いているのでキリがない状況らしい。



 それから安原の表情がかなり暗いのも目についた。

 これまで看板娘の名の通り「いらっしゃいませー!」と、場の空気をかき回すような笑顔で愛想を振りまいていたのだが、この二日ちょっと見ているだけでもどうも様子がおかしい。


 体調でも悪いんじゃないかと心配になるくらいだ。



 お店の中でも少し浮いているような感じのようで、翔哉も避けられているような気がしてしまったくらいなのだが、何よりこれまで安原とは仲がいいと思っていた柴崎とも気まずそうな感じなのは驚いた。



「どうしたんだろう?」



 安原の明るさには、店に来始めたころから何度も助けられていたこともあって、これは翔哉も少し気になっていた。



 後はエルである。



「ちょっと倉庫で作業をしてるエルを手伝ってきてもいいですか?」



 ランチが一段落ついてきた頃になって翔哉は高野に声をかけた。

 高野は月末が近いこともあり、集計作業などが忙しくレジ周りの端末に向かっていたが、翔哉の言葉を聞くと少し安堵したような表情を見せる。



「うん、そうしてくれると助かるよ」



 そう言って快く了承してくれた。


 実は高野は高野でここ数日思い悩んでいることがあったのだ。

 それについて、できるだけ早めにはっきりさせないといけないだろうと、この時は覚悟を決めつつあったのだが……。


 そんな事情は、その時に見せた笑顔からは伺い知ることはできなかった。



   ◆◇◆◇◆



「エル……大丈夫?」


「あ、翔哉さん!」



 エルは倉庫に入ってきた翔哉に素直に嬉しそうな表情を見せる。


 倉庫の中というと──。

 手伝い始めた昨日からずっと、色々な食材が棚から出して所狭しと床に並べられている状態で、一目見ただけで大変そうな状況であることがわかる。


 ランチ時のラッシュとは違うが、これはこれでまた修羅場という感じである。



「今日も手伝いに来たよ」



 昨日の水曜日もこの状況のエルを見つけて、翔哉は放っておけずに思わず手伝ったのだ。



「それから、今日は高野さんにちゃんと許可を貰ってきたから、心配は要らないと思うよ」


「そうなんですか!」



 パッとエルの顔が明るくなる。

 やはり昨日も自分を手伝う翔哉に嬉しい思いを感じながらも、かなり気を使っていたらしい。

 そんな様子をうすうす感じ取っていた翔哉は、今日は倉庫に行く前にちゃんと話しを通してきたというわけなのだ。



「エルと初めて会った時も、気を使わせちゃったもんね」



 そう言えばエルを始めて意識するようになったのも、この倉庫で偶然鉢合わせしたのがきっかけだった。

 あの時も時間を忘れて話し込んでしまい、厨房に戻って窮地に陥った翔哉はエルの機転で助けられることになったんだっけ。



「でも、あの時本当に助けられたのは私の方なんですよ?」



 微笑みながらも真顔でそう言うエル。

 翔哉はあの時を思い出して赤くなった。



「あれ、ね。うーん、今考えると何にもわかってないのに、ずいぶん生意気なことを言っちゃったような気が……」



 そんな翔哉をエルは珍しく強く否定した。



「そんなことないです!」



 そしてこう告白する。



「私はあの時……自分の中の否定的な気持ちに負けそうになっていました。自分を信じられなくなって、どうしたらいいかわからなくなってしまっていたんです。翔哉さんのお陰であの時の──私は──」



 そこまで言ったエルの頬に不意に涙が伝った。



「あれ……どうしたんでしょう? 私……今、悲しくなんか……無いのに……」



 翔哉は、エルの目の高さに自分の顔の高さを合わせ、指でそっと涙を拭ってあげる。



「僕もあれからずっと心配なんだ。エルがこうして独りで泣いていないか──」



 エルの涙に濡れた瞳の中に翔哉が映っていた。

 見つめ合いながら、少しずつ引き寄せ合うように二人の顔が近づいていく。

 エルの心の中にもなんだか熱いような苦しいような、抗いがたい気持ちが湧き上がってくる。


 そこで──。


 バタン!


 突然、遠くで大きな音が響き二人は跳び上がった。

 どうやら向こう側にあるトイレのドアを誰かが勢いよく閉めたみたいだ。



「あ……」


「あ……!」



 エルと翔哉は二人共同時に我に返ると揃って真っ赤になる──。



「そこよー、いけー、いっちゃえーーー!!」


「だから……お前は何処を目指してるんだっつーの」



 今日の昼のモニター当番は舞花と隆二。

 当然、このシーンでもそのうち約一名が大盛り上がりだった。

 隆二はいつものようにツッコミ担当である。


 そして、突然の物音でせっかくのいい雰囲気が未遂に終わると、舞花の怨嗟の叫びがモニター室中に響いた。



「ゴルァ! 誰か知らないけどコロスわよー! いつも月夜じゃないんだからねっ!!」


「いい加減突っ込むのにも疲れたけど──いったい誰と戦ってるんだっての」


「月に代わってお仕置きだからねっっ!!」


「勝手にしろ」



 この二人は今日も平常運転であった。



   ◆◇◆◇◆



「そ、そうだった。作業を急がないとね!」


「そ……そうですね!」



 急に時間が動き出したように、エルと翔哉が同時にごそごそと動き出す。


 棚卸し自体は単純な作業の繰り返しなので、昨日一度手伝っている翔哉はそれだけでもう勝手知ったるものである。


 倉庫には相応の広さがあるので、一人で作業をしているとあちこち走り回って結構大変なのだが、二人で協力するだけでこれがかなり楽になった。


 片方が食材を確認しながら、もう一人がPOS端末で数を入力していくだけでいいのだ。

 そして床に広げた食材が一通り終わるとそれを片付けて次の棚に移る──後はそれを繰り返していくだけである。


 またエルは人間の女性──舞花の体からサンプリングされている──から身体が作られており背は少し低めなので、一人の時はこの棚の上から物を取る作業も一苦労だったのだが……。

 これに関しても、二人ならエルがPOS端末担当をやれば一発解決というわけだ。


 厨房での篠原と柴崎とまではいかないが、昨日から一緒に作業をしている翔哉とエルはだんだん息も合ってきていた。



「334番 シグマ/ドレッシング・白」


「うん、あった。12本」


「335番 シグマ/ドレッシング・レインボー」


「よし、7本」


「336番 シーガル/バルサミコ」


「えーと……ちょっと待ってよ……あ、あった!──」



 こうして作業を続けていると……。



「あ、翔哉さん。そこ危な──」


「え?」



 バシャーン!


 昨日から数えてこれで3度目である。



「またそこ──翔哉さんの後ろの棚ギリギリのところに瓶が……」


「また?」



 こうして作業をしていると、あちこちに瓶や重たいものや壊れ物が不安定に置かれており、近くに行くといきなり落ちてくるのである。



「ごめんなさい。見つけるのがちょっと遅くなってしまって」



 エルが謝ってくる。



「いや、こんなのエルの責任じゃないよ。それより大丈夫だった?」


「はい!」



 どうやら落ちて来たのは今度は洋酒の瓶のようで、中身の液体と一緒にガラスの破片が散乱してしまっていた。

 これがどれもわかりにくいところにあることが多く、翔哉が棚に登ると気がつく前に急に落っこちてくるのだ。


 エルに聞いてみると翔哉が入院している時からずっとそうだったらしい。


 一人で倉庫内を駆けずり回って作業をしていた上に、こうしてまるで妨害されているかのように物まで落ちて来て掃除までしていたら──。

 ただでさえ今月は作業量が多いのに、更に作業効率がダダ下がりになるのは当たり前である。



 ──これがエルがあちこち怪我をしていた原因だった?


 きっとそうなのだろう。

 一人だけで作業をしていたら、どこから落ちて来たかもはっきりとはわからなかったはずだ。

 エルはまたそれをずっと誰にも言えず一人で耐えていたんだ。


 一度そう思ってしまうと、翔哉もこれが偶然なのか気になり始めてしまう。



「ちょっと一度、棚とかその周りを調べてみたほうがいいかもしれない」



 棚卸し作業を一旦中断して、他に危ないところが無いかどうか調べて見ることにした。


 …………。


 そう決めて怪しいものが無いかを先に探してみることにすると──。

 あちこちに出てくること出てくること!


 棚にある瓶詰めの瓶の1本が、ところどころもう少しで落ちるような感じにまで、端っこのギリギリまで寄せられていたり……。

 中段の棚の更に上の方に落ちそうになっている大きなダンボールがあったり……。

 棚と棚の繋ぎ目の所に、カッターの刃のようなものが挟まれているのも数箇所あった。



「そう言えば、これまでも制服の裾や二の腕のところが知らない間に切れていたことが何度かありました……」


「このダンボールとか、落ちてきたら大怪我なんじゃ……?」



 まるで張り巡らされた罠のようである。

 なんだかそう疑い始めるとちょっと怖くなってくる。

 そんなこといったい誰が!?



 作業がその分遅くなってしまったこともあり、気になった翔哉は高野にも一応その件を報告することにした。


 すると彼は──。



「そうか……ありがとう、翔哉君エルちゃん。よく報告してくれた」



 そう言って二人に頷く高野。

 その顔は普段の高野からすると珍しく思い詰めた顔のように見えた。

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