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62 話 ランチを食べに行こう

 8月23日の火曜日。

 その日の午前11時が翔哉の退院時間だった。


 そこで、今日はその足でエルドラドにランチを食べに行こう!

 そう翔哉は思い立ったのだ。


 考えてみれば、エルドラドでずっと働いているうちは、賄いはともかくなかなかメニュー通りの料理を食べる機会はないわけで。


 今日のような日を逃したら、次ランチを食べに行けるチャンスはいつになるかわからないのである。



 カランカラン♪


 開けるとアナログな音がするドア。

 働いている時にもいつも聞いていた音なのだが、今日はその音も何だか感慨深い感じがする。

 一週間入院していただけのはずなのに、エルドラドの入口をくぐるのはずいぶんと久しぶりのような気分だった。


 翔哉が店内に入るとすぐに驚きの声が挙がる。



「翔哉君! 今日退院だったね。来てくれたんだ」



 高野がすぐにやって来てくれる。

 翔哉が店内に入ってすぐに感じたのは、ちょっとお客さんは減ってるのかな? ──そういういう空気だった。

 ランチ時なのにあちこちに空席があるのだ。


 まあ、あんな事件があった後だし、やっぱりしばらくはしょうがないのかな?

 そう思いながらも、高野にすぐに言葉を返す。



「今日は実はエルドラドのランチを食べに来たんですよ。ほら、いつも働いていると食べられないじゃないですか」



 そう言うと高野は「なるほど」という顔になった。



「そっか。じゃあ、今日は翔哉君はお客様だね! こっちに座るかい?」



 そう言って適当に空いている席を勧めてくれた。

 それは高野は気づいていなかったが、白瀬の座っているところの近くだった。

 勿論、翔哉は白瀬とは面識すらないので全く気がついていない。



「おっと、王子様を間近で見るチャンス到来……か」



 一方の白瀬は──。

 帽子を深く被り直し、持っていたハードカバーの本を上方にスライドさせながら、その端の方から観察しようと興味津々である。


 翔哉は一週間目はランチ時にはフロア接客に出てこなかったし、2週間目は2日目で刺されてしまった……というわけで。

 白瀬が彼を間近で見る機会はなかなかやって来てくれなかったのだ。



「ふむふむ……なかなかハンサムじゃないかね、うん」



 などと口のなかでモゴモゴ言いながら、まるで花婿を品定めしているみたいだなどと考えて、白瀬は一人でニンマリする。


 それにしても、だ。

 昨日の久保田との話を思い出す。


 彼が持っている特異な因果……ねぇ?

 会って話す機会があれば聞いてみたいことは──たくさんあるんだけどなぁ。

 うーん、どうしたものか。


 分厚い本を読んでいるフリをして顔を隠し、その後ろで髭をいじりながらそんなことを考えている白瀬。



 翔哉のほうはというと──。

 そんな白瀬の視線になど気がつく兆しもなかった。

 それは今しがた運ばれてきた豪勢な料理にホクホク顔だったからである。


 今日のランチの主菜はちょうど折よくビーフステーキだったのだ。



挿絵(By みてみん)



 その超美味しそうなお肉の塊!

 そして並べられた品の良い副菜に視覚も嗅覚も釘付けだった。

 味覚はというと──その時が来るのを今や遅しと待機中。


 そんなわけで。

 翔哉の五感は完全に目の前の料理に集中していたのだ。



 エルドラドのランチはABCとセットが3つあるのだが、これは主菜はそのままで付け合せや味付けなどが変わることになっている。

 そしてパンかご飯か、そしてサラダかスープかをそれぞれ選べるのである。


 例えば今日なら──。

 Aランチは、主菜に加えて付け合せはポテトと人参。洋風ソース。

 Bランチは、主菜に加えて付け合せはオニオンの炒めたものとブロッコリー。和風たれ。

 そしてCランチは、主菜に加えて付け合せはポテトとブロッコリー。味は塩とわさびということになる。


 塩とわさびでステーキを食べるのも乙なものだが、今日は王道の味をしっかり味わいたかったので、翔哉はAランチを注文した。


 Aランチの洋風ソースとは──肉汁とワインで香りを付けた重厚なソースが添え付けられている非常に上品そうなもの。

 翔哉も大満足だった。



「快気祝いとしては丁度よかったんじゃないか? これを食べて早く傷を直さないとな!」



 出来上がったランチを持ってきてくれた清水がそう言ってくれた。

 ジュウジュウ音がしている鉄板に、切れ込みを入れられ格子状に焼き色が付いた分厚いステーキが鎮座している。


 焼き方はミディアムである。


 相当に高級な肉らしく、ナイフで切るとハンバーグかと思うほどの肉汁が滲み出るし、分厚く切ってあるのでレアでなくとも赤身の柔らかさと香りが存分に楽しめるようになっている。


 そこに洋風ソースをかけると──。

 鉄板の熱でソースが更に甲高い音を鳴らす。

 それを聞きながら、翔哉は待ちきれない思いで肉をナイフで一口大に切り、口の中へ放り込んだ。



「んんー……! 美味しい!!」



 そこには、賄いでも味わうことのできない、究極とも言える贅沢があった。

 これが280アリア……1600円だなんて!


 ──こうして。

 料理番組のタレントさながらに、満面の笑みを浮かべながら翔哉は究極のランチを存分に堪能したのである。



   ◆◇◆◇◆



 その様子を遠くから眺めながら、安原絵里はため息をついていた。



「………」



 翔哉が刺された後、柴崎と交わした会話を思い出す。



「なあ、もうやめようぜ」


「…………」



 いつもなら「何よ、アンタ今更臆病風を吹かすわけ?」くらいは言うのだが、この時は絵里も勢いの良い言葉を返せなかったのだ。


 あの事件の標的はエルだったはずなのである。

 少なくとも絵里にとっては。


 龍蔵がどういうつもりで何を画策しようと関係ない。

 絵里にとっては、あそこで暴れたレゾナンス男によって、あの人形が再起不能にでもなってくれればそれでよかったのだ。


 それなのに翔哉は、よりにもよって身を挺してまでエルを助けてしまった。

 しかも彼を逃がそうとした絵里を振り払って……である。

 それが彼女のプライドを痛く傷つけていた。



「これ以上はマジでヤバイって! こんなのがバレたら、俺達のほうがこの店にいられなくなっちまう」


「……じゃ、アンタだけ止めればいいでしょ」



 やっとそれだけを返したものの、それが自分の強がりでしかないことは絵里にもわかっていた。

 しかし彼女はもう後には引けなかったのだ。

 プライドにかけても──。



「あの人形……私が絶対にぶっ潰してやるんだから!」



   ◆◇◆◇◆



 翔哉は幸せなランチの後、更にデザートを特別に付けてもらって、大満足で帰ろうとしていた。

 自分のカードを出して精算しようとすると高野が言う。



「いや今日はお代は要らないよ。今回のことは後できちんと労災も降りると思うし、会社からも見舞金が出ると思うけど、その前払いだと思ってくれればいい。快気祝いだしご馳走させてもらうよ」



 ……というのである。

 翔哉は恐縮しながらもお言葉に甘えることにした。


 それからエルの顔も少し見て帰りたい……と思ったのだが、エルは朝からずっと倉庫に籠もっているらしく、翔哉がいる間は結局表へ出てくることはなかったのである。


 今日はお客として来ている以上、バックヤードにずけずけ入っていくのは躊躇われたし、明日出勤すれば遠慮なく会えるのだ。

 少し寂しいが仕方がない。


 こうして翔哉はエルドラドから帰っていった。



 その頃、開発課のモニタールームでは、舞花が文句を垂れていた。



「何よー、何で誰も手伝わないのよ!」



 モニターには、ひたすら倉庫で作業を続けるエルの視覚が映し出されていた。



「翔哉君もいない訳だし、人手が足りてないのは確かにあるんでしょうけどね……」



 恵も少し心配そうだ。


 今日の昼のモニター当番は恵と舞花の二人だった。

 二人はエルの視覚と聴覚だけしか情報が得られないので、客席側で翔哉がやってきているなど全く考えにも及ばない。


 ──エルは朝からひたすら倉庫作業に没頭していた。

 これには訳がある。


 8月の第4週にあたる今週はエルドラドでは棚卸しの週にあたる。

 全ての倉庫にある品物の在庫数をチェックするのである。


 普段は商品タグで在庫状況がチェックされているため、発注業務は自動的に行われているのだが、月に一回この時だけは手動で全ての在庫の確認作業をしなければならない。

 それを自動でチェックされていた数字と照合するのが棚卸し作業なのだ。


 ここのところ、いつも倉庫の片付けを一手に担っていたエルは、今月はこの棚卸し作業を任されていた。



 流石に手書きで帳簿につけるようなことまではする必要がなかったのだが、それでもPOS端末のようなものでひとつひとつ地道にチェックしていかなければならない。

 この作業にエルは昨日からずっと掛かりっきりだったである。


 その上に……だ。



「あ──また!」



 舞花が声を挙げた。

 エルの背後から“また”物が落ちてきたらしい。


 原因がわからないので、エルはそれがまた自分の失敗だと思っている様子だったが、客観的な視点でずっとモニターしている開発課のメンバーの間では、それが本当に偶然によるものなのか次第に疑念が噴出してきていた。



「また何かされてるんじゃないかしら!」


「毎回モニターに映らない背後から──というのもちょっと気にかかるわね」


「この間なんて大きなソースの缶が落ちてきたのよ? 人間だったら大怪我だってしかねない!」


「ここまで頻発するとなると……偶然ではないのかも……?」



 普段は慎重な恵もそう言い始めていた。

 だが自分達は黒子であり、表に出ていくことはできない。

 まして、モニターに映らないとなると……証拠も残らないのである。



「陰険なやり方よね。JCのイジメかっちゅうの!」



 イライラしつつモニターを続ける舞花。


 その結果、エルはあちこちに打撲の損傷が見られることが多くなってきており、研究所に帰ってきても休眠の前にまず手当を必要とすることが増えていた。


 またこうして、エルがひたすら倉庫作業を毎日強いられているというのに、夕方になっても誰一人助けに来ないこと。


 それも舞花は気に入らないのだった。

 結局、エルは今日も倉庫で一人、黙々と作業を続けている。


 こうした状況の中、翔哉は職場に復帰してくることになったのである。

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