60 話 相互干渉多世界
エルドラドの今日のランチは、イタリアンハンバーグが主菜であった。
ハンバーグと言えば、レストランからハンバーガー屋まであちこちで普通に食べられるスタンダードな料理だと言えるのだが、エルドラドのハンバーグはやはり訳が違うようだ。
店内で高級な仔牛の肉を粗挽きにしたものに、刻まれた玉葱が歯ごたえを楽しめるくらいにざっくりと入っている。
それに薫り高い黒胡椒、そして卵黄が絡められ……パン粉を使わず全粒粉の小麦で練った後、最後にふっくらと肉汁を閉じ込めるように焼き上げるのである。
そして今日はイタリアンハンバーグなので、そのベースに少しアレンジが加えられているのだ。
ケチャップの比率が高めになっている特製のイタリアン風デミグラスソースに、最後に落とされたモッツァレラチーズが絶妙にトロけている……更に好みによって最高級のパルメザンチーズを好きなだけトッピングすることもできるという、正に至れり尽くせりのハンバーグであった。
「あの……これでランチ280アリア(1600円)って安すぎません?」
久保田もエルドラドは初めてだったらしく目を白黒させている。
「ランチは基本ワンディッシュ。夜はコースという違いはあるにせよ、最低でもその時間だと900アリア(5000円)くらいはするし、それでも使っている高級食材を考えればかなり安いくらいなんだ。このランチの値段は、まあ、控えめに言っても破格だよ」
これは店を創業する時に、飯田と篠原が話し合ってランチだけでも何とか庶民的な値段に留めて、少しでも幅広い層の人に食べてもらいたい……ということで決められたらしいのだが。
このランチの値段設定が、エルドラドの経営を更に悪化させているのは間違いないだろう。
「愛だよなあ」
その篠原の希望を叶えるために、飯田は毎日金策に走り回っているとも言えるわけだ。
いくら飯田が「僕は店にもいないし実質店長じゃない」とこぼしても、やはりこの店は飯田の営業力がなければ成り立たない。
それは明白なのである。
「早く、くっついちゃえばいいのに……」
「え……何がですか?」
その白瀬の独り言に、ランチを夢中になって食べていた久保田が手を止めて興味を示す。
「ん? ああ、このモッツァレラのトロけぶりがね、うん」
そう言って誤魔化す白瀬。
「美味しいですよねー。噂には聞いていたんですが、ファクトリーエリアからだとちょっとあるでしょう? これまでなかなか食べる機会がなかったんですけど。僕もこれからは時々食べに来ようかなあ……」
どうやらエルドラドのファンをまた一人増やしてしまったようである。
◆◇◆◇◆
ランチを食べて一段落すると、そろそろ本題の話に入ることになる。
「それで翔哉君のことですが、やっぱり身体的には何ら変わるところはありません。至って健康ですし、ごく普通の人間だと言えますね」
「まあ、考えてみればそれはそうか。2019年から来たと言っても、西暦が2016年までしかないこっちからは異常に見えるだけで、3年余分に西暦があっただけだもんなあ」
今までやって来た異世界転移者が、翔哉以外は全て2016年までの世界からやってきていたという事実はあるが、それをもってして彼らがいた世界でも2016年までで西暦が終わっていたと断じることはできないのだ。
そうなると、問題はこれまで何故2016年以降から来た転移者が誰もいなかったか──ということになる。
「その辺りをお話するためには、ちょっと異世界のことについて更に突っ込んだ理解をして頂かなければならないんですが……」
そう久保田は前置きをすると説明を始めた。
「現在までのところ、異世界は多世界論的に論じられてきました」
「いわゆるパラレルワールドって奴かな?」
並行世界、パラレルワールド……それは昔からSFなどで持て囃されて来た、大衆向けのネタ──のはずだった。
「パラレルワールド──そう言い切ってしまえれば説明も楽なんですけど、それがどうもそうでも無いみたいなんですよ。私達が今のところ関わっている、この世界の周囲に存在するらしい多世界は、どうやら相互に干渉し合っているみたいなんです」
「パラレルではない……つまり並行じゃないのか?」
並行ではない、干渉しあっているたくさんの世界?
となると──いったいどのようにだろうか?
流石の白瀬も専門外なので一瞬混乱する。
「ですから、その筋の学者達はこれを“相互干渉多世界”と呼んでいるみたいですね。つまりたくさん存在している世界は、実は平行に存在しているのではなく重なり合って存在していて、観察者の認識によって結果を変化させている──そういうことみたいなんです」
「それは量子論の考え方と似ているな。量子もつれ、いわゆる状態の重ね合わせという奴だったか? 量子論で言うところの観察者の認識……ある研究者が『見る』という行為を行うことによって、量子のふるまい──つまり結果が決定もしくは変化するってのと同じようなものなのかな?」
白瀬もそれなら聞いたことがあった。
量子の世界ではこのマクロな世界では通常起こらない特別なことが起こると。
だが、それは建前上とは言え、量子の世界だけの事象のはずだった。
「ただ、その実験という事象と観察結果というリザルトを、物事の因果とその系統樹に置き換えれば、多世界論的にも応用できるのではないかという考え方は、実は昔から根強くあったんですよ」
久保田は脳科学の中でも認知神経科学の専門家であり、知能情報システムについて認知学の方面から解き明かそうとしていた白瀬とは、その辺りの共通項からこれまでも何かと話が合ったのだ。
その為こういう話は、会う度に時々することはあったのだが、今日はちょっといつもと勝手が違うようである。
「実はですね。それがひとつひとつの世界というマクロな領域においても、成り立っていることが最近では次第に立証されつつあるんですよ」
その確信めいた物言いから白瀬もあることに思い至る。
「ふむ、それは異世界転移者の存在によってかい?」
「そうです。実際にこうして、似たようでいて少し違う世界が周りに存在していることは、彼ら異世界転移者が実際に私達の世界にやってきたこと自体が証明しています。更に言うとですね……」
久保田は声を潜めて顔を近づけてきた。
「ここだけの話ですが、実は異世界転移者は向こうから勝手にやって来る訳ではないんですよ」
「え……それじゃまさか!」
突然久保田からそう言われ、白瀬も動揺を隠すのに努力が必要だった。
「そう“呼び出している”んですよ。彼らを」
異世界人の召喚!?
それこそまさかである。
それを同じ科学者であるはずの久保田から聞くことになるとは……!!
「僕もまだ現場で直接見たことがあるわけじゃないんですが。しかしそう聞いています。ゲヒルンが握っている情報の中でも、特にトップシークレットに属するとびきりの秘密ですけどね。白瀬さんだから話したんです。いずれにせよ翔哉君のことを話していくには必要な情報ですから」
久保田も緊張気味のようだ。
話し方からいつものような余裕がなくなってきている。
「それに、白瀬さんからも前にも似たようなことを聞いたことがあるから話したんですよ? この異世界転移者を連れてくる技術は実はまだブラックボックスに近い。そう言えばわかってもらえますか?」
そう聞いて白瀬もピンと来た。
「委員会の智慧か!」
「そうです。こうしてみろと教えられて、言われた通りにやったら上手く行ってしまった。ただそれだけのことなんですよ。こんなの科学者としては恥ずかしい限りなんですけどね」
久保田がため息を吐く。
白瀬も気持ちはわかる。
ガイノイドのエモーショナルフォース制御機構の構造で行き詰まっている時に、彼のところにもある日突然、委員会のメンバーがやってきたのだ。
まるで何もかも見通した神の使いのように──である。
「そう言うわけで、こうやって委員会からもたらされた未知のテクノロジーと、それによって異世界転移者が実際やってくるようになってきたことで、ここ数年だけで多世界論的事象科学は長足の進歩を遂げました。これまでの仮説が一気に立証できるようになり、相互干渉多世界という量子力学的な法則によって、たくさんの世界が同時に動いているという世界モデルが、一気に現実のものになってきてしまったというわけなんです」
そこまで一息に説明すると、久保田はもう冷めてしまったコーヒーを一度口にする。
◆◇◆◇◆
「これが実際に立証されてきたことで、ご存知のように一般大衆に対して平易に説明すべき時でも平行世界という呼称は止めて、異世界などと言っておくべきだって話にもなったんですけど」
これはわからない話ではない。
異世界という言葉は、この世界でも小説や漫画などで一般的に知られる言葉になっていたからだ。
確かに、あまり科学的な印象を与える呼称ではなかったが、それはそれで機密を守るには丁度いい──学者達はそう考えたようだった。
「平行じゃないことが立証されてしまったんじゃ、それも致し方ないわけだ」
顎の無精髭を撫でながら白瀬がそう言う。
「ここで話を少し戻します。異世界転移者達がどうやってこの世界に引き寄せられるのかって話を思い出して下さい。ここで今話した相互干渉多世界の話に戻るわけですが──」
「さっきの量子論で言うところの観察者の認識、つまりある研究者が『見る』という行為を行うことによって、量子のふるまい──つまり結果が変化するっていう奴か。これを多世界論に当てはめるってことになる訳だな」
白瀬もこの辺りは専門ではないので少し理解に手間取る。
「量子論で言う『観察結果』が多世界論的に言う『世界』だとすれば、観察者っていうのは何にあたると思いますか?」
久保田が聞いてくる。
「世界に属する一人一人の認識ってことになるのかな?」
「そうです。認識というのはその個人がこれまで歩んできた経験を踏まえた上での、ベクトルを伴った視点ということになります。そうすると無数に世界が分岐する原因は──」
「個人の経験の連なり。つまり因果律ということになる」
「ご明察です! 流石白瀬さん。正確には世界という場合には、個人個人の認識が集合意識的にひとつになった、その世界自体の方向性というベクトル──つまりその世界が持っている集合的な因果律が世界を分岐させていくことになるんですけどね」
そう考えると興味深い話だ。
ある意味、俺達は因果律という自分が本質的に必要としている情報を、周りの世界として認識し、間接的に紐解いていっていることになる。
まるで自分にとってぴったりの本を、その時その時必要に応じてそこからの未来として与えられているかのように──だ。
「世界とは個々の意識の中の認識に過ぎなくて、実際に存在してはいないんじゃないかと言い出している学者もいますよ。刷り込まれたビジョンって奴ですね。まあ、僕はそこまで極端には考えていませんけど」
この世界に自分が“存在している”という現実感すら、VRのような電気信号による認識だと捉えるわけか──確かに極論ではあるが、間違っているとも断言できそうにない。
久保田はここまで一通り説明してくれた後、委員会から伝えられたという異世界転移者を“釣り上げる”方法の基本理念を説明してくれた。
それぞれの世界には集合的な因果律が存在することになる訳だが、世界の事象つまり時間が進んで因果律に偏りが生まれてくると、個々の人間の中に“世界の因果律”から大きく逸脱した“個人の因果律”をもつ個性が存在するようになる。
そうした「属する世界からの必要性が低下した」人間は、自分がどうしていいかわからなくなり、生きることに対して無力感を抱くようになる。
──自分の居場所が無いと感じるようになるらしいのだ。
しかし、自分の世界以外の他の無数の世界の中には「そんな彼らを必要とする世界」も存在するというわけである。
その両者の間には因果律による強い引力が働くため、そこにある刺激を与えてやると自分にとってよりニーズがある世界への「量子テレポーテーション」が起こり、それによって転移が起こる──と久保田は説明してくれた。
「この場合、本人の自己認識によって形が再構成され物質変換されますので、転移先においては基本同じ服装であったり、転移した時持っていたバッグなどの小道具すら再現されることがあります」
それがまた他の異世界を研究するための良い資料になるんです──久保田がそう付け加える。
「裸だったりはしないんだな?」
「まあ、本人の自己認識次第ですから、それもあり得ないこととは言い切れませんけどね!」
少し久保田の答えに茶目っ気が混じっている。
それはともかくとして、そういうケースは今のところ彼は聞いたことがないそうだ。
──それはある意味、双方にとって幸せなことかもしれない。
「さて、これでやっと説明ができますかね」
そしていよいよ翔哉のケースの特殊性について、久保田が説明を始めるようである。
「それで今回の翔哉君の場合なんですが……」
白瀬は、ごくりと喉を鳴らして次の言葉を待った。
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【用語辞典】
相互干渉多世界(Many Interacting Worlds)
実際に存在する多世界論の一理論。
パラレルワールドの概念は1957年、当時プリンストン大学の大学院生であったヒュー・エヴェレットが提唱した「多世界解釈(Many Worlds Interpretation)」が起源だといわれている。
しかしながら、これはあくまでも“解釈”という概念的なものに留まっており、パラレルワールドがあると考えたほうが、この世の森羅万象を説明しやすいという仮説に過ぎなかった。その為、この現実にいる限りパラレルワールドの存在を証明することもできなければ、たとえパラレルワールドが存在するにせよ、そもそもこの世とは一切関係のない“完全なる別世界”と見られていたのだ。
しかし2014年、豪・グリフィス大学と米・カリフォルニア大学の合同研究チームが学術誌「Physical Review X」で発表した研究では「パラレルワールドは存在し、しかも相互に影響し合っている」という主張がなされている。わずかではあるにせよ、この世とパラレルワールドのどこかに接点があり、相互に交流があるのだという。
これが相互干渉多世界(Many Interacting Worlds)理論なのである。




