05 話 カルチャーショック!
「日本っていう国は、実はもう存在していないんだよね……」
異世界コーディネーターの伊藤さんは僕にそう言った。
「えええっ?!」
それを聞いた僕は、座っていたパイプ椅子から思わず腰を浮かせてしまう。
いやいやいやいや。
まてまてまてまて。
いつも何があっても「ふーん、そうなんだ」と軽く流して、空気を読まずにぼーっと生きてきた僕も、今回ばかりは流石に激しく動揺してしまった。
そして目の前の伊藤さんに直接聞けばいいのに色々と頭の中で考えてしまう。
「日本がない」とは彼女は言わなかった。
「日本がもうない」と言ったんだ。
ということは前はあったってことか。
だいたい日本という国が初めからなければ「日本って何?」となって通じないはずだし。
そうすると、だから、えっと。
うーんうーん……。
きっとはっきりすぐに聞いてしまうのが怖かったんだと思う。
ある意味で。
僕はここでやっと「自分が異世界に来た」という事実に直面したと言えるのかもしれない。
「今のこの世界はね」
伊藤さんは、僕の顔色を確かめるように、ゆっくり話し出した。
「国家は全部ひとつにまとめられて、地球という星でひとつの国家のようになっているのよ」
「それって……いわゆる地球連邦……みたいな感じですか?」
そ、そういうことだったんだ。
「そうだよ。正式名称はアースユニオンと言うの」
なるほど。
ちょっと納得した、けど。
「西暦や年号も廃止されて、今は全地域的にアンノ・テラという新しい紀年法になっているわ」
「アンノ……テラ……ですか?」
なんだかよくわからない。
アルファベッドでATと略すと聞いて、西暦のADとあんまり変わらないなと思ったりもしたけど。
「日本語にすると地球暦ね」
「地球暦……」
こうなふうに聞くと異世界って言うより、やっぱりSFの世界のような感じがするな。
「あの……それじゃ、ここは未来にあたるんですか?」
そんなことを考えていた僕は、思わず伊藤さんにそう聞いてしまう。
「あなたの前いた世界からするとってことかな?」
しかし、すぐに伊藤さんからそう聞き返されて、自分が言葉足らずだったことに気が付いた。
こくりと頷きながら言葉を続ける。
「僕が前いた世界は、僕が最後にこの世界に転移……ですか……した時点では西暦2019年の12月24日。クリスマスイブでした」
それを聞いた伊藤さんは、こくりと頷いて返事をしてくれた。
「そっか。だとしたら、直線的な時間だけを考えると、未来……ということにはなると思う」
彼女はそこでちょっと言葉を濁す。
その態度を見ながら、ふと僕は気になった。
そうだ。
ここの「いま」はいったい何年なんだろう。
それを聞くのが一番話が早いはずなんだ。
そして季節は?
そう、今日は何月何日なのか。
僕はまだこの世界のそういう基本的なことについて、ここまで何にも聞かされていなかったことにそこで気がついた。
すると突然。
今までいた世界とは全く違う世界に来たという実感がそこで襲って来て──。
僕はますます混乱してしまった。
「あの……そもそもですね」
正直それを聞くのは怖かった。
それで一度口ごもったのだが、ここで思い留まったところで何も変わってはくれないのだ。
そう思い返し勇気を奮い起こして続けた。
「この世界、つまり今は、いったい『いつ』なんですか?」
直接的にそう尋ねる。
聞き方を工夫するなんていう余裕は、もうすっかり無くなっていた。
怖くて先延ばしにしたい気持ちもあったのだが、ここに至って僕は直接そう聞かざるを得ないところまで、追い詰められていたのだ。
「今のこの世界はね」
伊藤さんは、その空気を察しているのか。
ゆっくりと噛んで含めるように話し始める。
それが僕には逆に不気味に思えた。
「地球暦24年。今日は7月24日だよ」
「地球暦……24年……」
皆目見当もつかない。
カンさえも働かない。
さっぱり「いつ」なのか、僕には感覚的にわからなかった。
それでも……だ。
今聞いたことに対して僕は不意に。
でも猛烈に違和感を覚えたんだ。
何かがおかしい。
そう感じてしまう自分がいる。
何がおかしいのか……いったい……いったい……!
そう必死で答えを探して。
とうとう思い至った。
そうだエアコンだ!
僕は確かめるように、天井にある“それ”
何の変哲もない、前の世界と同じような、エアコンの通風孔を見上げた。
その静かに音を立てて、風を送り出している通風孔から出ている風。
直接触って感じることはできなかったけど。
外との気温差からなのか、そこからははっきりと暖かい風が出て、この部屋を温めていることを感じ取ることができた。
そう、「暖かい」風だ。
暖かい風?
暖かい風だって!?
──ということは。
今、この部屋で掛かっているのは7月なのに冷房ではないことになる。
つまりは「暖房」……なんじゃ……?
また頭の中が混乱しそうになる。
フリーフォールのように意識が奈落の底へと落ちそうになる感覚。
それをお腹の辺りに力を入れて繋ぎ止める。
そして再び勇気を振り絞って伊藤さんに更に踏み込んで聞いてみた。
「あの……伊藤さん」
「なにかな?」
「変なことを聞いちゃってすみません。今の季節って……どうなって……ますか?」
伊藤さんは、その僕の問いに対して一呼吸おいてからはっきりと答えてくれた。
「冬だよ」
ぐあん!
それを聞いた途端、ストレスのようなものに頭を殴られたような錯覚に襲われる。
冬!
7月なのに冬だって……!?
何を莫迦な!!
「でも今、7月だって言ったじゃないですか!」
異世界ということを冷静に考えれば、ある意味「何でもあり」の可能性もあったはずなんだけど──。
7月24日なのに。
冬であるという伊藤さんの言葉に。
僕はすっかり冷静さを失ってしまっていた。
その衝撃は、目を覚ましてからここまでのこの世界の印象。
それを一見今まで自分がいた世界とよく似ていると、感じてしまっていたことも影響していたのかもしれない。
いわゆる認知的不調和という奴である。
あまりにも最初の印象と違いすぎて心の準備が逆にできなかったのだ。
過呼吸になりそうなのをなんとか抑えることはできたものの。
半分食って掛かるように彼女に激しい口調でそう言い返してしまった。
それでも──。
そういうことには慣れているのか、伊藤さんは終始落ち着いていた。
これまでと同じように、ゆっくりと説明を続けてくれる。
「それはね。私も4年ほど前にこの世界に来たばかりだから、実際に経験したわけじゃないんだけど……」
ごくり。
僕は思わず喉を鳴らしてしまう。
「ポールシフトがあったらしいのよね。この世界では」
ポールシフト──。
そうか……ゲームか何かでそんな言葉を知って、ネットでちょこっと調べたことがある。
確か北極とか南極とかが逆転したり、地球の自転軸が移動したり……そういう現象だっけ?
こんなことになるなら、もうちょっと地学を勉強しておくんだった。
「ポールシフト……ですか……」
僕はそんなことを考えながら、呆然と上の空に近い状態で言葉を返す。
「わかるかな? 地球の自転軸がね、あることが原因で突然大きく変動してしまったことで、地球全土の季節が逆転してしまったのよ。だから今のこの世界では、7月8月が北半球では冬、そして南半球では夏ということになるの」
そして、12月1月はその逆……か。
ああっ。
──また頭が混乱しそうだ!
一度そのまま『うーん』と考え込んでしまった僕。
そこから、ふと気がつくと──。
「大丈夫?」
目の前の伊藤さんに、顔を覗き込まれていることに気がついた。
彼女は心配そうにこちらを伺ってくれていたのだ。
「す、すいません。ちょっとなんか……びっくりしちゃって……」
気がつくと、手のひらにベッタリと汗をかいていた。
意識できてくると、過呼吸気味の呼吸も次第に落ち着いてくる。
そして、落ち着いてくると今度は罪悪感が襲ってきた。
こんなに終始落ち着いて親切に教えてくれている伊藤さんに、僕はさっきあんなに食って掛かるような感じで言葉を乱暴に返しちゃって……。
随分と悪いことをしてしまった感じがして、僕はがっくりと肩を落とした。
素直に謝ることにする。
「なんだか食って掛かるような言い方しちゃって……申し訳なかったです……」
そうやって落ち込んだ僕に対して、伊藤さんはむしろ安心したように優しい言葉をかけてくれた。
「大丈夫だよ翔哉君。私が今まで見てきた転移者──これまでいた世界から急に何もかもが違う世界に放り込まれた人達はね。気が動転して大声を出してしまったり、突然叫び出してしまったりする人も多かったんだ……」
そう言うと伊藤さんは逆に安堵したように少し笑顔を見せた。
その様子を見ると、彼女もかなり緊張していたらしい。
「それほど怖いんだと思うな。これまで生きてきた世界が突然全く変わってしまうっていうのは。自分がこれまでいた世界を失ってしまうっていうのはね。それだけ……大変なことなんだと思うのよ」
そう言うと、伊藤さんは昔を思い出すように少し遠い目をした──。
「私だって、初めてこの世界に辿り着いた時は怖くて怖くてね。大泣きしちゃって大変だったの。お父さんやお母さん、そして仲の良かった友達にも。みんなにもう二度と会えないんだって思うと……やっぱり、ね」
そして寂しそうに目を瞑ったんだ。
そっか……こうして自分だけが別の世界に来ちゃうってことは、結局死別することとあんまり変わらないってことなんだもんな。
そんなことを思う。
「翔哉クンは他のみんなよりずっと落ち着いている方だと思うわ」
すごいよ、そう言って伊藤さんは笑いかけてくれた。
そんなふうに言われても、僕は素直に喜ぶ気にはなれなかったんだけど……。
──心の中でため息をつく。
『僕はただ……薄情なだけなのかもしれない』
しかし、外に出かかったその心の声を意識的に飲み込むと──やっと。
この新しい世界を、少しは受け入れられるような気がしてきた。
「ありがとうございます。褒められたと思っておくことにしますよ」
僕はようやく落ち着いて彼女に言葉を返した。
張り詰めていた空気がいくらか和らいでいくのを感じる。
さて次は……そう僕が思っていると。
伊藤さんは、ごそごそと何かを用意しているようだ。
そして、落ち着いてきた僕の様子をもう一度確認してから。
「それじゃ、この世界についての情報を簡単にまとめた冊子を、先に渡しておくわね」
そう言いながら、一冊の小冊子と何冊かの資料を僕に渡してくれたのである。
それは──。
まるで新しい街に引っ越してきた時に、役所なんかで最初にもらうような。
その都市の資料の冊子みたいな感じの本の束だった。
………。
あまりにも自然に、そういった資料が次々すんなりと出てくると、なんだかまたモヤモヤしてくる。
おまけに、その本の表紙にはこれ見よがしに「異世界へようこそ」なんて書いてあったりするもんだから尚更だ。
なんですか、これは。
これじゃ、まるで『異世界生活のしおり』みたいじゃないですか。
何かの冗談のつもり……なんだろうか?
いや、むしろ冗談であって欲しいくらいなのだが。
ドッキリ──でもないみたいだし。
結局いつまで待っても、誰からもカットの声はかからず。
「ドッキリでした~」なんて笑いながら取りなしてくれそうにもない。
しかし、その時感じた「違和感」の正体がなんだったのか。
それが理解できたのはずっと後のことだった。