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51 話 人間には聞こえない音

 8月16日火曜日。


 その日は、夜のうちに降った雪が積もって、うっすらと街中が白くなった朝だった。

 積雪は5センチだそうだ。



 幸い交通機関が麻痺をするほどではなく、生活にさほど混乱はみられなかったのだが、中途半端に降った雪が解けたり凍結したりしていることで、むしろ危なくなっているような様相である。


 またあちこちの窓にも氷柱つららのようなものが張り付いており、窓やドアを開けるために凍った氷を住民たちがコツコツと、ナイフで取ったり削ったりする姿があちこちで見られていた。


 銀座街区にあるエルドラドの店の近くも、朝は積もった雪で真っ白であった。


 ひとつ奥に入った路地に、相変わらずあの車が一台停まっていたままだったが、その車は今では置物のように静かな上に、白く雪化粧していることもあって、周りの景色に溶け込んだ目立たない形で鎮座していた。


 周りを歩く住民たちも自分達のことで手一杯で、ずっと前からそこに停まっているように見えるその車には、もはや誰も注意を向けることがないようだ。


 そうして、火曜日の朝の時間は何事も無くゆっくりと過ぎていく。



   ◆◇◆◇◆



 エルはいつも通り出かけていった。

 研究所からモニターしていると、駅につくまでに既に何度か早速派手に転んで雪に突っ込んでいる。



「あちゃー……雪とか流石に初めてですもんねー」



 隆二が頭を抱えた。



「後、やっぱり頭部が人間に比べて重たいんだと思うわ。だから二足歩行した場合にはどうしても重心が高くなってしまう。慣れるまではこれは結構手こずるかもしれないわね」



 恵もそう言いながら心配そうに見守っている。


 心配と言えば、白瀬から聞いた「ランチ時」の件も心配ではあったのだが──恵と隆二については今日は例え何があったとしても、もうここで見守るしかないのだ。



「宗一郎さんもエルちゃんも危険な目に遭わないといいんだけど……」



 恵がそっとため息をついた。



 エルがやっとの思いで時間ギリギリに電車まで辿り着く。



「おはようございます。翔哉さん……!」



 すると翔哉はちゃんと昨日と同じ時間の同じ車両に乗っていた。



「転んだの?」



 エルがその電車に危うく乗り遅れそうになりながら、なんとか間に合ったのを見届けてから翔哉は笑顔を向けて来る。



「重心が高いので雪の日は苦手なんです……」



 思わず愚痴ってしまうエル。


 銀座街区に着いてからもエルの歩様はヨロヨロと危なかった。

 足元が滑るというのはこれほど面倒なものなのか。

 各部のジョイントの調整値がいつもと全然違うのである。


 その上、重心が高いのでバランスを取ろうとしても、ヤジロベエのように円を描いて上体が揺れてしまう。


 すると背中側に重心が掛かった途端に結局……。



「キャッ!」



 ズテーン……!

 翔哉に手を引いてもらっていたのだが、それを喜んでいる余裕もなくまた転んでしまった。



「ご、ごめんなさい! 翔哉さん……!!」



 手を繋いだままで、尻もちをついてしまう。



「大丈夫? ……ほら掴まって」



 翔哉はそのまま力を込めて引っ張り上げようとしてくれる。

 それに掴まって起き上がろうとするエルだが。



「はい……あっ!」



 今度は足に力を入れたところでまた滑ってしまった。


 しかし、くるっと滑って地面に激突しそうになるところに、すんでのところで後ろから力がかかる。

 仰向けのエルを翔哉が抱き抱えるような体勢で支えてくれたのだ。



「まあ、お姫様抱っこね。可愛いわ!」



 モニター室でニッコリする恵。

 今日の舞花は夜当番で、現在は仮眠中である。

 この後戻ってきたら、これをライブで見れなかったことをさぞ悔しがることだろう。



「あ、ありがとうございます……」



 抱きすくめられた格好のエルは顔が赤い。

 心の中もカッと熱っぽくなっているようだ。

 視界はフォーカスが甘くなったように薄っすらぼやけてフワフワする。



「ご、ごめん。これ以上雪で汚れちゃいけないと思って……!」



 翔哉はそう言い訳をしながら、エルをゆっくりと立ち上がらせる。


 居ても立ってもいられないというのだろうか。

 二人共恥ずかしくてお互い顔を合わせられない。

 相手を見てしまうと余計に意識してしまい、自分の挙動がおかしくなってしまいそうで怖いのだ。


 不意に手と手が触れ合っても、お互いを意識しすぎているせいか、体が跳ねるほどにびっくりしてしまう。

 ──それを警戒して、二人は逆に手をしっかりと繋ぐことになった。


 そのシチュエーションを夢のように嬉しく感じながら、エルはエルドラドまでの道を翔哉と急いだ。


 今日も楽しい一日になればいいな……そう願いながら。



   ◆◇◆◇◆



「今日はこれ、ランチは数が出ないでしょうね」



 篠原がため息混じりに愚痴っていた。

 朝から明らかに客足が鈍かったのだ。

 それはランチの時間が近づいてきても同じで、今日は一日こういうゆっくりとした流れが続きそうな気配だった。


 この天候では仕方がないのかもしれない。


 その為、ランチの時間が始まるかなり前に仕込みは終わってしまい、そこからはエルも片付けをするために倉庫に籠もっていた。


 倉庫には、毎朝色々な食材が在庫として届いており、それを既定の場所に補充するのが最近のエルの仕事になっていたからだ。


 この後はランチの時間が終わったら、また篠原に料理を教えてもらうことになっている。

 それまでに、少しでも早くここでの仕事を済ませておきたかった。



 その時──。

 エルのセンサーに突然聞いたことがない音が飛び込んできた。


 ────!


 それはよく感じてみると、正確には“音”ではないようだった。

 可聴域の周波数ではなかったのだ。


 ────────!


 だが、エルの耳にはそれがはっきりと聞こえていた。


 作業をする手を止めてこれは何だろう?

 そう思って動きを静止させて集中する。

 センサーの精度を高めて、耳を澄ましていると店の方から乱暴な物音が飛び込んできた。


 きっとお店の方で何かあったのだ!

 そう気が付いて、倉庫の入口方向に向かおうとしたところで、息を切らせながら安原がやってきた。



「エル! レゾナンス症状の患者がお店で暴れてるわ! 分かってるでしょ? あなた達レイバノイドがこういう時に何をすべきか!!」



 そして、そう叫んだのだ。


 植え付けられた知識として、レゾナンス症状患者対応マニュアルはエルのメモリーにも入っていた。



  第一項 レゾナンス症状の人間は、周りの敵意に反応する。腫れ物に触るように慎重に対応すること。

  第二項 近くに稼働中のレイバノイドがいる場合、レイバノイドを盾にすること。

  第三項 店に備え付けの緊急ボタンを押して治安維持局に通報すること。



 しかし、安原の叫びを聞いた途端にまずエルが考えたのは、何より「翔哉さんが危ない!」であった。


 エルは正確にはレイバノイドではなかったし、こういう扱いを受けないためにガイノイドと名付けられたという事情はあったものの、彼女自身もうそんなことは“どうでもよかった”のだ。


 一目散に倉庫を飛び出すと、エルは安原を追って真っ直ぐにフロアの方へと向かう。



「無事でいて下さい。翔哉さん!」



 走りながら心の中でエルは祈った。



   ◆◇◆◇◆



 白瀬は、今日は早めにエルドラドに入店していた。


 店の中は火曜ではあるが、あちこちに空席がある。

 いつものように目立たないよう注意しながら、入口から入って左側の端の小さいテーブルに座った。



「今日はやっぱり暇そうなのかな?」



 この天気だ。

 自然の成り行きなんだろうが、もし何か事件が起こるのだとすれば人は少ないほうが良いことになる。


 さて何があるのか?

 ──それともないのか?


 周りの様子をいつも以上に気にしながら、これまでは12時過ぎくらいにゆっくり店に来てお昼を食べていたのを、今日は11時半のランチの時間が始まるとすぐにAランチを注文する。


 その結果11時50分頃には出来上がった料理が運ばれて来ていたのだが、白瀬はそれからも周りが気になってなかなか食事に手が付けられなかった。



 今日の主菜はビーフシチュー。

 トロトロに煮込まれた中にしっかりとした具が入っているやつだ。

 これが立ち上る香りから、見栄えから非常に美味そうだったのだが……。



「こういうのはゆっくり落ち着いて食べたかったなあ」



 そう愚痴りながら、やがてゆっくりとそのシチューのジャガイモを、白瀬が口に運ぼうとしていると──。


 突然、店内の丁度真ん中辺りに座っていた小太りの中年男が、頭を押さえて苦しみ始めたのが目に入ってきた。



 これは!

 白瀬は直感した──これはレゾナンス発作の初期症状!!



 レゾナンス症状というのは、人間の松果体にあたる部分に強力な電磁波によってピンポイントにダメージを受けた人間が、ある刺激を受けることで凶暴化する現象である。


 「ある刺激」というのは研究機関のゲヒルン内では既に特定されているそうなのだが、悪用されることを避けるために公表されてはいないのだそうだ。


 この刺激がA10神経系をネガティブに刺激し脳全体に共振することによって、その人間の目には周りの人間や全ての動きが、自分に対して悪意や憎悪を持っているように感じられる……らしい。


 ──その圧倒的な恐怖感によって、それに耐えられない彼らは周りに攻撃性を示すことになる。

 その為「レゾナンス」(共鳴/共振)症状と名付けられたんです──。


 ゲヒルンの研究者、久保田真が言っていたことを白瀬は思い出す。



 苦しんでいた中年男は、やがて何かを振り払うようにテーブル上の物を腕で横に薙ぎ払う。

 乗っていたグラスや皿がガチャーンと大きな音を立てて飛び散った。


 それによって、皿ごと料理を投げつけられる格好になった周りのお客を始めとして、店内の全員が異変に気が付く。


 中年男は、上に乗っていたものを払い除けた後のテーブルを、店の奥に戻ろうとしている店員──あれは翔哉君じゃないか?──に向かって蹴り飛ばす。



「翔哉君危ない!!」



 しかしそれは、危機を察して翔哉を横に突き飛ばした清水の機転によって、テーブルが直撃するという最悪の事態は免れたようだ。



「うおあぁああぁ~~っ!」



 暴れている男が獣のような吠え声を挙げた。


 男は何か凶器のようなものを振り回しているようだ。

 迂闊に近づくのは危険だろう。



「レゾナンス症状です! 皆さん気を付けて!!」



 清水がそう叫ぶと店内は入口を目指す人で大混乱となった。

 白瀬は壁に寄って気配を隠すと、そのままその場に踏み留まろうとする。


 そこに厨房から「エルを呼んでこい!」という怒鳴り声が聞こえた。

 ここで奥にあるはずの旧式レイバノイドではなくエルを出せ……か。


 これもまた白瀬達が心配していた事態ではあった。


 エルは普通のレイバノイドと違って、内面はその辺りにいるの女の子と変わらないのだ。

 そういう扱い方をされると、大きな後遺症が残りかねないのだが──。



「いざとなったら……」



 白瀬は懐のスタンガンを確かめた。

 護身用なので気絶させることまではできないだろうが、急所に当てれば動きを止めることぐらいはできる。


 正直言って白瀬は運動神経には自信がなかったが、この状況でこのまま座して見ているわけにもいくまい。


 出てきた安原が、翔哉を引っ張って奥に避難させようとしている。


 その二人へと、髪の毛を逆立たせながらいよいよはっきりとレゾナンス症状の特徴をあらわにした小太りの中年男が、凶器のようなものを威嚇するように掲げながらゆっくりと向き直る。


 そこに──奥からエルが駆け込んできた!

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