50 話 事件前夜
地球暦24年8月15日月曜日。
エルがエルドラドに来るようになってから3週間目、翔哉が来るようになってから2週間目の週の初日である。
この月曜から、翔哉はランチ時にもフロアでの接客に出るようになった。
そしてエルはというと、今日からはランチの時間は篠原のそばで作業を見ているように……と言われている。
「今日からエルには料理の基礎を教えてあげる」
朝に篠原がエルにそう言ったのだ。
柴崎はこの決定に当然不服だったのだが、そこまではっきりと篠原に言われてしまうと口答えする余地もない。
そうなるともうエルにもしばらく手が出せないのだが……。
それについては「もうすぐ面白いことがあるわよ」と朝のうちに安原から聞いていた。
もし、それが本当のことならここで篠原の心証を悪くしてまで、無理に事を起こす必要もないことになる。
その結果、月曜日の厨房では黙々と作業をする柴崎。
いつも通り正確に素材を捌く篠原。
そしてそれを横で興味深そうに覗き込むエル。
──という今までは見られることがなかった光景が、厨房では展開されることになったのである。
ランチ時はかなり忙しかった月曜日だが、午後3時を過ぎるといつも通りかなり客足がゆっくりになる。
フロア担当の面々と翔哉は、何やら固まってエルドラドの内情について語り合っているようだ。
エルの方はと言うと、いよいよ篠原から料理の手ほどきを受け始めていた。
とは言うものの、それは手取り足取りというやり方ではない。
素材の状態の見方や味付けの意図などを、メインメニューの仕込みや明日のランチの準備などをしながら見せることが主体である。
篠原は、教える側が一方的に手順を決めて、教えられる側が言われた通りにそれを行うというやり方を、良いことだとは思っていない。
「そんな機械的なメソッドで料理の感覚は身につけられないわ」
それが彼女の口癖のひとつなのだ。
どうやら篠原は、エルがそういった自分のやり方によって、意図通り『料理の感覚』を身につけられるのかどうか、それを確かめたい様子だった。
まず何も言わずに作業を見せ、そして自分で考えさせ、その上でまずは一人で考えた自分なりの意見を聞き、そうした後に単に教えるのではなく、より良い方法とは何なのかをお互いに話し合う。
そういうやり方である。
今日のランチのメインは白身魚のムニエルだったのだが、お昼のランチ時に篠原を観察していたエルからは、篠原自身がハッとするほどの鋭い意見と観察が言葉として出てくる。
いつしか二人の対話は、篠原がエルに教えるというよりも、次第に対等に近いディスカッションへと変わっていった。
… … … …。
… … …。
◆◇◆◇◆
翔哉とエルは、その日も当然のように一緒に帰っていた。
それもこれで一週間目になる。
そして今日くらいになると特訓も一段落である。
こうなってくると特訓と言うよりも、一緒にキャベツを刻む作業をしたと言ったところか。
まだ翔哉が切ったものだけで、お客に出せるという状態ではなかったが、それでも千切りの質も切る速さも格段にアップしてきていたのだ。
その結果、今までよりもずっと短い時間で一日のノルマを達成してしまうため、一緒に作業できる時間は確実に少なくなっていた。
それもあって一緒に歩き始めてから会話が始まると、今日はそれぞれが今日みんなと話したり、お互いがいないところでやっていた作業について、自然に教え合うような話題になった。
翔哉は、みんなと話していたエルドラドができたときの苦労話を披露する。
そこで彼は白瀬のことをみんなから聞いたらしい。
「エルは白瀬さんって人に会ったことあるの?」
そうエルに聞いてきた。
「もちろんありますよ。私のお父さんのような人ですから!」
エルは翔哉が白瀬に興味を持ってくれたのが嬉しくて、その質問に満面の笑みで答える。
「どんな人なのかな?」
「お散歩好きで、とっても面白い人ですよー」
「そ、そうなんだ」
自分のイメージしていた人物像と違うのか、少し意外そうな顔をする翔哉。
そんなことを話していると、あっという間にファクトリーエリア駅に着いてしまった。
だが、翔哉はそこで迷うことなくエルと一緒に電車を降りたのだ。
つまり、まだしばらくは一緒に話ができるということである。
土曜日と同じ様に駅のベンチに座ると、エルは翔哉にまずこう切り出した。
「今日から篠原さんにお料理の基礎を教わることになったんです!」
「料理の基礎?」
翔哉は最初そう言われてもよくわからない様子だった。
もう少し細かく説明してみることにする。
「具体的には、用途や具材によっての最適な切り方とか、味付けの意図とか色々ですね」
やっと伝わったようだ。
今度は少し何かに驚いている様子でもあったが。
「これからも少しずつ教えて下さるって言って下さって……」
そうなのである。
篠原の方はというと、今日エルと料理の話をしたことによって、むしろ彼女自身触発されるところが大きかったようで、これからエルに自分の料理技術を教えていくことに対して、更に乗り気になってくれたようなのだ。
最後の方の篠原は、エルがこれまで見たことがないほど、ずいぶんと上機嫌だった。
「あの……」
そこでエルは口ごもった。
心の中に今日篠原に料理を教えてもらいながら湧き上がった想いが膨れ上がってくる。
だが……それは……。
「どうかしたの?エル」
エルが中途半端に言いかけたことで翔哉が興味を示した。
本当は、はっきり口にしたかった。
翔哉に真っ直ぐに言いたかった。
しかし、それはガイノイドである自分が、それもプロトタイプである自分が──抱いてはいけない想いなのかもしれない。
そうも思ったのだ。
作りものの自分……ましてや、プロトタイプという借り物の存在。
8月末までしか一緒に居られない、そんな自分が──。
「…………」
”私のお料理が上手くなったら、翔哉さんは食べて下さいますか?”
俯きながらそう口の中で囁く。
でも……それはきっと願ってはいけないことなのだ。
エルの責任感がそれをはっきり音にすることを拒む。
私は本来このテストのためだけに生まれた存在なのだから──。
「今、何か言った?」
翔哉が気になってもう一度聞いてくる。
「い、いえ……! 何でもない、何でもないんです!」
エルは、ともすると溢れてきそうになる感情の波をグッと堪えてやり過ごすと……やっとそう答えた。
「そうなの?」
少し心配そうな翔哉だったが。
「大丈夫です! 私、明日からもお料理の勉強頑張りますね!」
そう言ってエルは少し強引に話を終わらせる。
ごめんなさい……翔哉さん。
心のなかでそう謝るエル。
その彼女の雰囲気から何かを察したのか、彼もそれ以上はしつこく聞いてこなかった。
「うん。頑張って」
「はい!」
翔哉を心配させないように、そう笑って元気よく返事をしたエルだったが、心の中には安堵と痛みが同居したような二律背反なエネルギーが、しばらく留まっていた。
その後もしばらく話していると頃合いを見た翔哉が──。
「じゃ、エル」
そう声を掛けてくる。
「そうですね……翔哉さん」
明日も仕事があるのだ。
翔哉の負担になってはいけない。
お互い名残惜しい気持ちはあったが、そこはしょうがないことでもあった。
次に来た電車に乗ると、翔哉はドア越しに手を振ってくれる。
エルは、そんな彼にできるだけの気持ちを込め、また笑顔を作った。
目の前でドアが締まり、離れていく彼の顔をエルは一抹の寂しさと共にいつまでも見送る。
──その寂しさが何から来るものなのか、やはりエルにははっきりとはわからなかった。
◆◇◆◇◆
ちょうどその頃。
一台の自動車が誰も居なくなったエルドラドの近くに停車していた。
長方形の箱のような黒色のライトバン。
その車はフロントガラスも含めて窓が全て黒く塗られている。
「ここか」
「そうだ。そこの路地が待機場所らしい」
「今夜はこれから雪だそうだ」
「そりゃいい。雪が轍わだちを消してくれる」
車の中からヒソヒソと声が聞こえる。
エルドラドから一本オフィス街に入った路地にその車は停車した。
そしてそのまま動かなくなる。
夜の寝静まった街に溶け込むように。
◆◇◆◇◆
白瀬は迷っていた。
「火曜日のランチ時に気をつけろ」という警告については、取り敢えず篠原や高野の耳には入れておいたが、何が起こるのかは勿論のこと、どれくらい信頼のおける情報なのかもわからない以上、それ以上の対策を取りようがないのだ。
一応開発課のメンバーには話しておくことにするが、それで何か予防策や自衛策が取れる訳でもない。
「明日はエルを店に行かせないというのは無理なんですか?」
恵が聞いてくる。
「まあ、無理だろうな。逆にそれで、もし何も起こらなかったら、それはそれで困ったことになる。なぜ店を休んだのかで、後から色々詮索やあら捜しをされることになる。思わしい事態ではない」
裏で安原龍蔵が糸を引いている可能性も高いのだ。
揚げ足を取られるファクターはできるだけ減らしたほうがいいだろう。
隆二と舞花も頭を捻っている。
「ランチ時に一体何をしてくるというんでしょうかね……」
「料理に毒を入れるとか?」
「それだと厨房内の犯行ってことで、すぐアシがつくんじゃないの?」
「お店を閉めて貰うってわけにも……」
そう言う舞花だが。
「そうもいかんだろう。だいたいが、どれくらい信用のおける情報なのかすら、はっきりしないんだから」
篠原達と話し合った時も、その辺りが問題となって結局そこまではできないという結論になったのだ。
そもそも情報の主が味方であるという保証すらどこにもないのである。
一旦所長室に戻ると、白瀬は今日も持っていった護身用のスタンガンを、コートのポケットから取り出して一度状態を確かめる。
「結局、備えとしてはコイツくらいか……」
バッテリーは切れていない。
スイッチを入れるとバチバチと音がして火花が散った。
正常に作動もするようだ。
「まあ、こんなものが必要にならんのが一番ありがたいんだけどな」
一体明日に何があるのか。
それとも結局何もないのか──。
考えてもしょうがないことだったが、一度ああいう思わせぶりなイベントが起こると、どうしても色々と考えてしまう。
白瀬がそう色々と思い悩んでいるうちに月曜の夜は更けていったのである。




