44 話 教えてエル先生!
エルと篠原が話をしているところに柴崎そして高野、少し遅れて清水が入ってくる。
安原も眠い目を擦ってやってきた。
そして翔哉である。
出勤したみんなが着替えて集まって来るまでの間は、いつもはみんなコーヒーなどを飲みながら厨房の大きな調理台の周りで寛いでいるのだが。
更衣室で制服に着替えた翔哉が厨房に入ってくると、篠原がすっくと立ち上がると彼を調理台の近くに呼び寄せた。
「今日から特訓を始めます」
そして、まずそう宣告する。
「何の特訓かはわかっていますよね?」
「包丁扱いの……?」
昨日の自分の無様な包丁扱いから翔哉も覚悟を決めてきたようだ。
「はい。よくできました」
そのやり取りを聞いて、朝の準備前でまだ周りでダベっていたみんなも「きたきた……!」という感じで事態を興味深く見守り始める。
その間、エルは事前に篠原の後ろのほうで待機するよう言われていた。
翔哉はダメ元で、何とか特訓の無意味さについて反論しようと頑張ったみたいだったが、篠原の信念の前にすぐさま敗北してしまう。
外野はみんな篠原に同じ様にやり込められて来たらしく、結果がわかっている予定調和の戦いを眺める様相で、最後には拍手までしてヤンヤの喝采。
──他人事ほど気楽で面白い娯楽はないということか。
こうしていよいよ特訓が開始されることになった。
特訓……それはキャベツの千切りである。
そこまで話が進んだところで、篠原が打ち合わせ通りおもむろにこう言いながらエルを自分の元に呼び寄せたのだ。
「それじゃ、これから翔哉君にはキャベツの千切りをしてもらうけど、教官役として彼女についていてもらいます!」
そう言うとエルを自分の前に押し出す。
これには当事者の翔哉も──。
「え、エル!?」
と、驚いた顔である。
それはそうだろう。
この人選には誰よりエル本人が一番びっくりしているのだから。
そして当然外野……とりわけその中にいる柴崎が黙っている訳がない。
「えー、なんっすかそれー!」
そう猛抗議してくる。
「おっかしいじゃないっすか。さっきシノさんは料理人の心だって言ったクセに。なんだってこんな人形が教官なんっすか!!」
そう言われるのはエルも覚悟していた。
何よりまず第一に彼女自身がなぜ自分が指名されたのかわからないのだ。
「問題ないと判断したわ」
それに対してきっぱりとそう言い切る篠原。
「なんでっすか。コイツの包丁使いが上手いからっすか? それだったら今回はそれこそお門違いでしょ? スライサー使うのと結局、一緒じゃないっすか!」
そう文句を言っている柴崎には目もくれず、篠原はエルに『これからなぜあなたなのかを説明してあげるから、ちゃんと聞いているのよ』と目配せする。
「私の目は節穴じゃないのよ!」
そう威嚇するようにまず一喝して柴崎を黙らせると、そこから篠原の演説が始まった。
「私はエルが来てからずっと彼女の仕事ぶりを見てきたわ。確かに人と接する部分では上手くいかないことも多かったけれど、包丁を扱って食材を仕込む作業には卓越したものがあった。彼女の切ったキャベツの千切りは、葉の硬い部分は細く、柔らかい部分は荒く、そして芯の大きさによっても食べやすい歯ごたえになるよう調整されている。ジャガイモや他の食材についてもそう。ただ機械的に正確に切っているだけじゃないの。状況に応じた最適解。つまりそこには『思いやり』があるのよ」
確かに篠原が言った通りではあった。
だが、それはエル自身が独自に工夫して得たものではない。
エルは役に立ちたい一心で、必死に『篠原の意図』を見ながら盗んだのだ。
なぜ、ここでこう切るのか。
どうして、ここではこの形なのか。
彼女ほどの腕を持った人の切った状態が、その時によって細かく変化するのはどんな理由が考えられるのか。
ここ数日ずっとそうやって考えてやってきたのだ。
だから──エルは考えていた──私のやったことはただ盗んだだけ。
模倣しただけに過ぎなくて……。
それをこんなに評価してもらうのは少し申し訳ない気がした。
「あの……それは私が篠原さんのやり方を参考にさせて頂いたからで……」
その罪悪感からエルは篠原にそう正直に告げた。
──しかし、それを聞いた篠原はむしろ「やはり!」と、人知れず喜びに打ち震えていた。
正にその「意図を盗むこと」こそが、篠原が実は一番望んでいたことだったからだ。
形を模倣するにも観察眼が必要だ。
そして分析力も確かでなければならない。
しかし何より『達人の意図を見て盗む』ことこそ、奥義中の奥義だと言えるのである。
柴崎は確かに表面的な形を正確に模倣することができる。
だが、この『意図を盗む』ことがまだできていない。
その形にどんな意味が込められているのか……それを洞察するという部分に欠けている。
篠原はこれまでも柴崎の腕をとても買ってはいたのだが、ただひとつ──そして致命的なその部分だけがこれまで残念でならなかったのだ。
しかし、この子はどうだ。
このエルは自分の意図をいとも簡単に見抜いてみせた。
エル自身が気づいていないだけで、それこそが類稀な才能だと篠原は考えていた──そこに人間もガイノイドも関係ない。
「私の切り方をただ機械的に真似ただけではあれはできないわ。その時その時の私の意図。つまり感性を真似ることができなければ、状況に応じた最適解は出せないんじゃない?」
篠原はいたわるような優しい声でエルにそう応えた。
それでもなお、その声を掻き消すように柴崎が横槍を入れる。
「何が感性っすか。こいつのは本当の心や感性じゃないでしょ? そんなのただの電気信号じゃないっすか!」
『この莫迦!』
篠原の心の中のその叫びは、気に食わないことを言う部下に対しての罵倒というよりも、いつまでも肝心なことに気が付けない愛弟子に対する叱咤に近いものだっただろう。
声が自然に厳しくなる。
「料理は結果よ柴崎。その心と感性が本物なのかどうかを証明する必要はないの。心を理解しそれに共感し、それを再現する能力があるのならば、レイバノイドだって一流の料理人になれるのよ!」
篠原は、柴崎がエルを本能的に恐れているのに気が付いていた。
でもだからこそ。
ここでそう冷たく言い放ったのだ。
エルの持っている才能の中にこそ……柴崎、あなたの欠けている部分があるのだと。
「くっ……」
そう悔しげに言って押し黙った柴崎を見ながら、篠原はこれまでもずっとそうであったように、またしても心の中でため息をつくことになった。
やっぱり……まだわからないか……。
静かにそれを横目で確認すると、すぐに気持ちを切り替えて指示を飛ばす。
「だから問題ないわ、エル。あなたが翔哉君の特訓についていて、必要があったらあなたが思う助言をしてあげて。それから──」
そこでいきなり篠原の目が光った。
「サボらないように監視すること!」
その迫力に身を竦ませる翔哉。
一方のエルはというと──。
ここまでの篠原の言葉に勇気百倍だった。
ちゃんと篠原さんは見ていてくれる。
そして私を認めてくれている。
それならば──私は精一杯の力でお応えするだけだ。
「はい、お任せ下さい!」
そのエルの声に、もう迷いはなかった。
◆◇◆◇◆
迷いなく返事はしたものの、エルも人に何かを教えるのは初めてだ。
研究所でもエルドラドに来てからも、これまではずっと色々教えられる側だったのだから。
──エルは、自分が初めて包丁を持った時のことを思い出しながら、どうしたらいいか考えてみた。
まずはお手本を示す……だろうか?
キャベツをザッと半分に、そして4分の1にする。
エルは今ではもう半分に切ったところで直接芯だけをくり抜き、まとめて千切りを始めることができるのだが、その辺りは慣れるまでは最初に自分が練習した方法を採用したほうがいいと思ったのだ。
これが『教える』ということなのだろうか?
そして4分の1にしたキャベツを、実際翔哉の目の前で千切りにしてみせる。
サクサクサクサク……!
「こんな感じです。翔哉さんやってみて頂けますか?」
自分がやってみせてから顔を上げると──。
そこには口をあんぐりと開けた翔哉がいた。
もう少しゆっくりやった方がわかりやすかったのかな?
ここしばらく「自分はこれくらいできるようになった」というのを、アピールするためにいつも全力で作業をこなしてきたこともあって、ついお手本を示すために何が大切かを考えずに精一杯の速度で切ってしまったようだ。
私は相手の立場を考える思いやりがなかったかもしれない。
エルは人知れずそう反省していた。
翔哉が実際にキャベツの千切りを始める。
AIの目から見た場合、「できるようになる」とは「問題点を把握し整理できている」ことであり、その情報をそこから「身体的に再現できる」状態に移行するということだ。
そう言った意味では、一度キャベツの千切りを「できるようになった」エルの視点から見ると、翔哉の始めた千切りの問題点は一目で明らかだった。
「エルはやっぱり力があるんだなあ……」
しかし翔哉がボヤいているのを聞いていると、正しい分析ができずに包丁の刃が通らないのが力加減の差だと思っているらしい。
そこでエルは今見ていて思ったことを正直に話してみた。
「そんなことないですよ? 私は切る時に特に力は使っていません。包丁の刃をしっかり直角にするんです。あ……それから切ろうとする時には少し手前に引くような感じで……」
そうエルが言うと、翔哉は素直に言われたことを取り入れようとする。
すると──。
「お……スムーズに包丁が通った! こんな感じ……かな……」
少しずつ包丁の動きがスムーズになってきた。
刃の角度が素材と直角になることによって素材へ力が無理なく伝わると同時に、切る時に水平に動かすことによってその力を切る力に変換する効率を動摩擦係数の最大近くまで引き出せるのである。
「だいたい、そんな感じだと思います」
これで少しはお役に立てたのだろうか?
エルとしてはまだ不安ではあったのだが、それでも篠原が『あなたなりにね。谷山君がどうやったら少しでも上手くできるようになるか……考えるの。それを彼がわかりやすいように伝えてあげれば──それでいいのよ』
そう言っていたことが、少しわかってきたような気がした。
教えるというのは、きっとその物事を進めるにあたって経験の少ない相手が、限定されたモノの見方によって情報不足に陥っている時に、自分の観点で見た相手に足りないものを伝えてあげること──きっとそういうことなのだろう。
上手くいかない時ほど、当事者は目の前の問題にこだわる余り、どうしても視野が狭くなりがちだ。
きっと、それを広げるために手を貸してあげるだけでいいのだ。
そう考えるとエルは少し気が楽になってきた。
私が見た私なりの解決策を、翔哉さんに伝えてあげればいいのかもしれない。
午前10時になって開店すると、翔哉がフロア接客に出るために一度特訓は中断する。
その時にランチの仕込みを手伝っていると、また篠原が話しかけてきた。
どうやら特訓のことのようだ。
「どうやら特訓は順調のようね」
「だと良いんですが……」
「大丈夫。あんな感じでいいのよ。よくやってるわ。あなたも谷山君も!」
篠原のその言葉で少し心が軽くなる。
そこで篠原は少し声を潜めてこう言ってきた。
「エル……これはあらかじめ言っておくわね」
「はい」
「特訓ってね。初日が一番キツイのよ。最初は無駄な動きが多いし筋肉もできていない。だから恐らく夕方になる前に谷山君は音を上げてくると思うわ」
「そうなんですか?」
今の翔哉はやる気満々で、そんなそぶりは微塵も見られない。
そのためエルは半信半疑である。
無理もない。
ガイノイドである彼女には筋肉疲労は全く理解出来ないのだから。
「たぶんね。でもそのキツイ時を乗り切ることで、逆に正しい体の動きを効率良く、習慣として定着させることができるのよ。これってただの根性論じゃないのよね」
エルの頭の中に自分と人間との違いがインプットされていく。
自分はガイノイドだから、単調な動作を繰り返すことによる『面倒臭い』『しんどい』という頭脳的精神的な消耗はない。
むしろ繰り返せば繰り返すほど、ディープラーニングエンジンによって効率的な回路が構築され楽になっていくだけなのだ。
また筋肉が新たに付くこともない代わりに、筋肉疲労や筋肉痛で苦しむこともないのである。
しかし、人間の場合はその苦痛に耐えながら継続することで、より意識的な反復が行われ効率的な学習と習慣化が行われるということなのだろう。
篠原は、きっとそういうことを言っているのだ。
そうエルは理解する。
やがてランチ時になると、翔哉はフロアから退却してきた。
そうすると今度は、修羅場が展開されている厨房の邪魔にならないようにオフィス側の端に移動して、また二人でキャベツの千切りが特訓再開される。
エルも、翔哉の切ったそのままでは使えない粗いキャベツの破片に混ぜることで、それを付け合せに使えるように横でキャベツの千切りを手伝っていた。
そうすると──いつも独りで切っている時よりも、少し刻みを粗目にするほうが混ぜた時に自然かもしれない──そう思って実行するエル。
そうやって自分なりに考えながら作業を行うエルを、篠原がラッシュ時の合間にチラチラとこちらを見ながら満足そうに見守っていた。
◆◇◆◇◆
そしてその時はやってきた。
──篠原の予言通り、朝から頑張って励んでいた翔哉が、お昼を過ぎて午後3時頃になってくるとダレてきたようなのだ。
「エル……少し休憩……」
そう言って左手を挙げて降参のポーズをする。
エルは、少し向こうから自分たちを観察している篠原の方をそっとうかがう。
篠原は静かに首を横に振っていた。
「15分前に休憩しましたよ、翔哉さん。少しずつ切ったキャベツもまた荒くなって来ています。もうちょっと頑張りましょう!」
そう言って翔哉を励ますエル。
「あの……これくらいやったら少しくらいは……」
よほど苦しいのか多少反抗するそぶりを見せる翔哉だが。
「駄目ですよ、翔哉さん。私は今日は5時までしっかり続けるよう篠原さんから頼まれています。その信頼を裏切ることはできないんです」
エルが内心祈るような気持ちでそう言うと、なんとか納得してまた作業を続けてくれた。
この辺りはエルとしても、翔哉さんにこれ以上は嫌だって言われたらどうしよう……と心の中ではビクビクしながら見守っていたのだが。
結局彼はそれ以上ゴネることはなく、午後5時の特訓時間の終了を無事迎えることができたのである──。




