42 話 届けたい想い
その後──。
火曜日のランチ時になった。
いつもならこの辺りでエルは仕込み仕事を終えて、手持ち無沙汰になってしまう時間なのだが、この日はどうやら違うようである。
篠原がエルに説明する。
「今日はジャガイモの仕込みが大量に必要なのよ。ランチの付け合せに使う上に、キッシュを作るためにも結構入り用なのよね。あ、それからポテトサラダも仕込んどかなくちゃいけないの!」
正にジャガイモデーである。
エルドラドでは仕込みの関係上こういう日がたまにあるにはあるのだが、今日に関しては翔哉の包丁扱いの程度を見るというもうひとつの目的もあったのだ。
エルがジャガイモの最初の山を剥いていると、そこにフロアから翔哉がやってくる、その時──。
「ちょっと谷山君。いいかしら?」
「なんでしょうか」
篠原が翔哉を呼んだ。
「ちょっと今日はジャガイモの仕込みがたくさん必要なの。あなた野菜の皮とか剥いたことある?」
「い……いえ……」
「じゃあ、エルのサポートに入って、皮を向く前の芋の水洗いをお願い」
「はい」
包丁を使っているので、できるだけ目が翔哉を追わないように努力するエルだったが、その代わりに聴覚は全開でそちらにフォーカスされていた。
それに加えて──。
谷山さんと一緒に仕事ができる……。
そう思っただけで心の中が息苦しくなるようだった。
だがエルは実際には呼吸をしていないし心臓もないのだ。
これはなんなのだろう……?
エルにはこの感覚もまたやっぱり理解できないでいた。
翔哉が、流しで篠原に教えられたようにジャガイモを洗って、エルのところまで持ってきてくれる。
「ありがとうございます。谷山さん!」
思わず勢いよく声が出てしまう。
──そうやって何度か洗ったジャガイモを持ってきてくれた翔哉は、今度はエルの近くに座って一緒にジャガイモの皮を剥くようだ。
しかしその手付きは、正直言ってエルが初めて包丁を持ったときよりも、ずっと危なっかしかった。
それを見ていると手を切るんじゃないかとエルは「あっ」「あっ」と声が出そうなほど心配してしまい、その度に手が止まってしまいそうになる。
「こりゃ特訓が必要だな!」
柴崎が面白がるように翔哉をイジっている。
みんなが話しているのを聞いていると、この特訓の教官はどうやらいつも篠原シェフということらしい。
エルは、事前に多少のリハビリを行なっていたこともあって、包丁扱いに関しては特訓というほどのレクチャーは受けなかった。
だが、他の店のスタッフ達はだいたい苦労して身につけたようなのだ。
明日から谷山さんも「特訓」か……。
何かお力になれたらいいんですけど。
楽しそうなみんなの苦労話を聞きながら、エルは他人事のようにそんなことを考えていた。
◆◇◆◇◆
店が終わる時間になって片付けが進んでいく。
エルはいつものように倉庫係である。
厨房から倉庫やその中にある保冷庫に食材を返しに行くのだ。
生鮮食品関係や明日も継続して使えるソースや調味料、厨房でその日使った脚立や調理台などを運んでいると、すぐ閉店時間を過ぎてしまう。
この日もエルが片付けを終えると、店のスタッフは私服に着替えてパラパラと帰り始めているところだった。
エルもコートを羽織って帰り支度をする。
そして──。
「それではお先に失礼します!」
残っているメンバーに声を掛けて店を出る。
今日はそれほど失敗はしなかったし、怖い思いもしなかった。
谷山さんのお陰かな……?
そんなことを思いながら駅に向かって歩いていると、前の方にその翔哉の姿が見えたのだ。
エルは思わず駆け出してしまっていた。
「谷山さん!」
そう声を掛けると翔哉はちょっとびっくりしたようなそぶりを見せた。
「そっか。エルも帰宅部だったよな」
そして、そんなことを言う。
「帰宅……部……ですか?」
エルのデータベースにそういう言葉は見当たらなかった。
一体どういう意味なんだろうと思っていると──。
「ああ、家にまっすぐ帰る人達ってことなんだけどね」
すぐにそう教えてくれた。
「ええ。それじゃ私も帰宅部ですね。そしたら今日は目の前に谷山さんが見えたので、思わず声をかけてしまいました」
帰宅部──異世界での独特の言い回しなんだろうか。
ただ、そういう独自の言葉などをこうして教えてもらえると、なんだか谷山さんと秘密を共有したみたいでちょっと嬉しい──今のエルにはそう思えた。
だが、彼はどうだろうか。
急に声を掛けられて嫌ではなかっただろうか?
急に我に返ると少し怖くなる。
「迷惑でしたか?」
しかし、不安になったエルがそう言うと。
「いや、そんなことないよ」
事もなげに翔哉はそう答えてくれた。
少しほっとする。
「それより今日はありがとう。僕は全然戦力にならなったけど……」
そう率直に語ってくる翔哉。
それに嬉しい気持ちを感じながらも、エルは不思議な気持ちを味わっていた。
翔哉の態度からは、エルがアンドロイドだという認識がこれっぽっちも感じられないのだ。
まるで、知り合ったばかりの友人と互いに気を使い合いながら、仲良くなろうとしているかのような──。
こんな風に扱われたことは全く初めてと言ってよかった。
開発課のスタッフ達でさえ、自分達の創造物であることで大きな愛を注いではくれているものの、逆にそれがエルをアンドロイドを意識せずに人間同様に扱うことを難しくしてしまっている……そう思える部分もあったのだ。
それなのに──彼は──。
そんなことを思いつつ、ほんの他愛のない話をしながら翔哉と歩いていると、すぐに駅に着いてしまった。
ここでお別れするのかな……?
そう少し寂しく思っていると、自動改札を抜けた翔哉は自分と同じ方向のホームへ向かうようだ。
それを確認すると、エルはもう一度翔哉に走り寄る。
「谷山さんもこっちなんですね!」
思わず顔がほころんでしまう。
ふと盗み見ると翔哉も決して嫌ではないように見える。
大丈夫ですよね?
一緒に行っても迷惑じゃないですよね?
そう思いながらもはっきりと聞くことができず、エルはひょこひょこと彼の少し後ろをついていった。
「エル……君のようなガイノイドはこの世界にはそんなにいないの?」
ホームで電車を待っていると翔哉がそう聞いてくる。
どうやらガイノイドというものに興味を持ってくれたようだ。
エルは分かりやすく説明できるようにと思考を巡らせる。
まずは相手と自分の立場の違いを認識し、そこからくる持っている情報の齟齬を平坦化すること。
それが、相手に込み入った話をスムーズに伝えるための前提条件だろう。
「谷山さんはこことは違う世界──つまり、異世界からやって来た人なんですよね?」
まずそう確認すると翔哉は頷いてくれる。
それから、彼を置いてけぼりにしないように慎重に言葉を選びながら、エルは話し始めた。
「私は擬似的な感情を持つように作られた、この世界で最初のアンドロイドなんです。正確にはその試作機ですが」
そう言うと彼は頷きながら、
「つまり本当にこの世界にはエルのようなアンドロイドはまだ君一人しかいないんだね」
こう返してくれる。
咀嚼するための知識レベルの選定もだいたい問題が無いようだ。
伝わっていることに安心して更に話を先に進めるエル。
「はい。私は今後生まれてくる妹達のために生み出されました。そして、今回初めて開発者の皆さん以外の人間と触れ合うために、一週間前にレストラン・エルドラドに配属されたんです」
「いつまでいられるの?」
「今回の臨床テストは1ヶ月の予定なので8月末までですね」
「そっか」
少し沈黙があった。
そこで電車がやってきて二人は乗り込む。
車内に入ると混んでいたこともあって、エルと翔哉はそのまま出入り口付近で立ったまま向かい合う格好になる。
翔哉は吊り革を持つと、エルを人混みから守るように立ってくれた。
そして何事も無く電車が走り出す。
◆◇◆◇◆
そうなのだ。
いずれにせよ翔哉とは8月末までしか一緒にはいられないのである。
恐らくエルのプロトタイプとしての任務はそこまでなのだろう。
ガイノイドシリーズが製品化されることに正式に決まった場合には、そのまま違う外殻に載せ替えられることになるのかもしれないが。
やがて翔哉が言う。
「それまでよろしくね、エル」
「はい。谷山さん!」
ただ今はその翔哉の言葉だけで充分だった。
微笑みを返すエル。
「それから僕のことは翔哉でいいから」
エルが降りるファクトリーエリア駅は2駅先ですぐそこだ。
このまま目的の駅に着くまで、話が途切れるかと思っていたのだが、翔哉は急にそんなことを口にした。
「翔哉……さん?」
最初はその申し出の意味がよくわからなかったエルだが、すぐにそれが親密になった証なのではないかと気がつく。
そう考えただけで心の中全体に幸せな気持ちが広がった。
「うん。あんまり谷山って上の名前は好きじゃないんだよね」
照れているのか、そう言って誤魔化す翔哉だったが、それすらも好意から来ているのは見て取れた。
二人の間に嬉しいような恥ずかしいような、そんなポジティブな気まずさが充満する。
その柔らかな空気を味わっている間に、すぐ電車はファクトリーエリア駅に着いてしまった。
「ここで?」
エルが目的の駅に着いて降りるための体勢を整えていると、翔哉がその様子に気が付いて言った。
「そうなんです。また明日ですね!」
エルも何か言い知れない寂しさのようなものを感じながら答える。
「うん」
それはどうやら彼も同じような感じだった。
──思わずしっかりと翔哉を見つめてしまうエル。
メモリーにはもう彼の姿は焼き付けられている。
今日も何度も何度も様々な角度から目で追っている。
それなのに……。
なんだろう。
今……目の前にいる翔哉さんが……。
そう──その今のこの一瞬の彼が。
何よりも貴重なもののように感じられたのだ。
やがて駅に着きドアが開く。
「明日またお会いするのを楽しみにしています!」
エルはここで結局今日の最後に、彼に一体何を伝えたらいいのかわからなくなり──でも時間の無い状況に後押しされる格好で。
そう叫んだ。
今の自分がちゃんと言葉にしてはっきりと伝えられない何か。
自分でもわからない何かが……。
──それでもどうか伝わって欲しくて!
何だかもどかしいような気持ちで彼の目を見つめた。
プッシュー!
ドアが目の前で、翔哉とエルを引き離すように閉まる。
そして、そのまま電車は走り去ってしまった。
その音の微かなドップラー効果すらエルのセンサーは感知していた。
だがエルの心の中では、ずっとこちらを見たままどこまでも遠ざかっていった翔哉の顔が、いつまでも再生され続けていた──。




