41 話 特別な感情
翔哉が慌てて厨房に戻っていった後──。
エルはふと思い立って倉庫内にあるマスタードとドレッシングを探した。
エルドラドのマスタードはイエローとブラウンのマスタードシードから仕込んだ手作りの粒マスタードで、倉庫に備えられたウォークイン保冷庫に保管されている。
またドレッシングは、普段はシンプルに作ったフレンチドレッシングを厨房で作ることが多いのだが、今日のランチには特殊なサウザンドレッシングが使われており、これはある自然食品業者から仕入れているもので、この倉庫に置いてあるのだ。
そのマスタードとドレッシングが、厨房でそろそろ足りなくなってきている頃ではないかと気がついたのだ。
エルは、仕込まれた粒マスタード1瓶とドレッシングをいくつか持つと厨房へと急いで戻ることにする。
倉庫に長くいたことで谷山さんが困ったことになっているかもしれない。
そう思うと自然に心が奮い立った。
それによってエルの心の中からは、これまで自分を狂わせ続けてきた迷いや恐怖が急速に薄らぎつつあったのである。
急いで翔哉の後を追うと、厨房の入口付近でちょうど翔哉が高野と話しているところに突き当たった。
「遅かったね。お腹でも壊したかい?」
「い、いえ……」
心配していた通り困ったことになっているところらしい。
すぐにそこに声を掛ける。
「ごめんなさい高野さん。私が倉庫で高いところにあるお荷物を取って頂いていたんです!」
「そうか。うん、よかった」
高野はそう聞くと、すぐに納得してくれたようだ。
「もう新人にまで迷惑かけてんのかよ……」
柴崎がいつものようにブツブツ言ってくるが、それも今のエルにはもう気にならなかった。
私のせいで谷山さんが悪く思われてしまうくらいなら──そう思うと、心の中から何か強い気持ちが湧き上がってくるようなのだ。
しっかりしなくては!
そう自分を奮い立たせていると、篠原が今エルの持ってきたものに反応してくれる。
「マスタードとドレッシングじゃない。こっちで丁度切れてきてたのよ。助かったわ!」
やっぱりだった!
エルが持ってきたものは今一番、厨房が必要としていたものだったのだ。
ドンピシャ的中である。
それもそのはず。
こういった状況の予測とそのソリューションの掲示は、AIでもあるエルにとっては本来得意分野なのだ。
「はい! よかったです」
にっこりするエル。
「珍しく……き、気が利くじゃないか」
これには、いつも何かと難癖を付けるためにひたすらアラを探している柴崎も彼女の功績を認める他なかったのである。
◆◇◆◇◆
それ以来、まるで自分の身体が軽くなったようにエルには感じられていた。
頭脳内に蜘蛛の巣が張られたように自分を縛っていたネガティブフォースが、この出来事を契機に不思議なほどすっきりしたからである。
なぜだろうか?
普通に考えると、これまで蓄積してきたネガティブフォースと同じだけのポジティブなエネルギーが作用しないと、こうまでエモーショナルフォース全体が良化することはないはずなのだ。
「これはある種の相乗効果がエルの中で起こったのかも」
その夜エルが戻ってきた後のこと。
エルの意識データを見ながら恵がそう言った。
「まだ詳しくエルの思考を分析していかないと裏付けは取れてないんだけど、きっとエルはこの谷山という彼にこれまでにない強い好意の感情を抱いたんじゃないかしら。この人には迷惑を掛けられない。何とかして今の自分の状態を少しでも改善したいって。それがエル自身の内側からポジティブな波動を生み出す原動力となって、外部からやってきたポジティブフォースと共鳴したのよ」
恵の唱えた仮説によると。
その共鳴によって相乗効果が起こり、実際の足し算以上のポジティブフォース波動が生み出されたのではないか……というのである。
通常、感情とは外的な要因によって副次的に引き起こされるものだ。
つまり受動的であることが多いと言える。
ただ本人の強い意志によって、内的状況が劇的に変わってしまうことは、良きにつけ悪しきにつけ往々にしてある。
祈りや呪いのような強烈な自発的意志によって、感情エネルギーが心の中で能動的に創り出された場合、その時生み出された感情エネルギーがこれまでの状態を、完全に覆して全てを塗り替えてしまう可能性もあるのだ。
それが人間の世界においても、時には理論的に予測された流れを覆して、事態の大逆転を作り出す要因ともなるのだが、エモーショナルフォース機構を備えたガイノイドにも同じような能力が備わっていると見ることができるのかもしれない。
「これは興味深いなぁ」
白瀬は思わず声に出して呟いていた。
やはりこの谷山翔哉という存在は面白い。
この世界の人間なら、あの場でああいう反応をすることはまずあるまい。
まるで彼は、人間とアンドロイドが既に対等に共存している世界からやってきたみたいじゃないか。
「これは……面白いことになるかもしれないな」
元々は状況を打開して貰うために苦し紛れに近い形で呼び寄せたのだが、もしかしたら彼はエルにとってそれ以上のファクターになってくれるかもしれない。
「ふーむ。そうすると……だ」
そんな感じで独り言と共に考え込みながら、白瀬はそのまま研究室を後にしていく。
「あれはまた何かを企んでる顔ですねぇ?」
「そうね。あんなチーフ久しぶりに見るわ」
隆二と舞花が顔を見合わせる。
「ああいう時の宗一郎さんって、ホント面白い玩具を見つけた子供みたいですよね」
恵も書類から顔を上げ、ニッコリ笑うとそう言った。
研究室に和やかな空気がこうして溢れたのはいつ以来だろうか。
横のカプセルの中で眠っているエルに顔を寄せながら──。
「よかったわね……」
そう恵が静かに声を投げ掛けた。
◆◇◆◇◆
明くる日。
8月9日火曜日のエルは明らかに気分が良さそうだった。
これまでの登校拒否寸前のような緊張感は見られない。
夜に行われているデータのモニタリングや分析の間も、身体とのリンクは眠っているもののエルの意識自体は『動いている』状態だと言えるのだが、意識の中にある雑音が減少したことで、今はその夜の間もエネルギーの浄化作用と言えるようなプロセスが進行していた。
ポジティブ側の波動が強くなったことで、逆に自然にそちらへと全体が引っ張られるようになったようなのだ。
これがエルの状態を劇的に改善に導いていたのである。
「それでは行ってきますね!」
そう屈託のない明るい声で、挨拶をして研究所を出ていくのは先週の月曜日以来だろうか。
「いってらっしゃいエル。気をつけてねっ!」
今日の見送り当番の舞花が、元気になったエルに内心ホッとしながら、できるだけ明るく声を掛ける。
そして開店の10時まで舞花がそのまま視覚聴覚モニターを続行した後、10時に交代に来た後の二人、今日なら隆二と恵にバトンタッチするのだ。
その後、彼ら二人は夜の9時半頃にエルが帰ってくるまでは視覚聴覚のリアルタイムモニターを担当。
そして夜にエルが戻ってきてからは、その日の朝に見送り当番だった舞花が昼のモニターの一人と入れ替わって、また二人で夜のデータ解析に入る──そういうシフトになっていた。
その後もまた夜の3時になったら、前の夜に抜けた次の見送り当番一人を残して交代する──こうして一人ずつ順番に長めの休息時間を取りながら、一日を完全にカバーする。
これを臨床テストが終わる8月末まで、3人で24時間回していかないといけないのである。
さて──。
その日銀座街区にやってきたエルは、いつもよりずっと楽に雑踏の中を歩いている自分を発見していた。
周りからの敵意の混じった視線は特に変わってはいない。
変わったのはエルの心の中ということだろう。
この世界でたった一人だけでも自分を受け入れてくれる人がいる。
その人に今日も逢えるのだ。
──それがこんなにも嬉しく、心強く、そして心弾むことだったとは!
だが、その日。
店に着いてから仕込みまで時間に、エルドラドのスタッフが談笑している中、翔哉だけが見当たらなかった。
まだ来ていないらしい。
あれ?
……と思っていると5分ほど遅れて息を切らせてやってきた。
それを確認してエルも内心ほっと胸を撫で下ろす。
「すいません。少し遅れちゃって……」
「大丈夫だよ。これくらいならね」
特に昨日何かあった訳ではないようだ。
そう観察していると翔哉の視線がエルを探すように動き、目が合った。
それが少し嬉しい。
エルもニコリとさり気なく微笑みを返した。
翔哉は今日からフロアの接客に出るようだ。
向こうでみんなで打ち合わせを──。
「エル……今日は人参を」
「あ、はい!」
その日は朝からの自分に、エルは少し戸惑っていた。
何かに強くフォーカスしている時はまだいいのだが、手持ち無沙汰になると視覚を始め意識のフォーカスが無意識のうちに翔哉を探してしまうみたいなのだ。
まるで谷山翔哉という人間の情報を、意識が自然に集めようとしているかのように──。
いったいどうしてしまったのだろう?
◆◇◆◇◆
AIの世界では、昔から「フレーム問題」という技術的な壁があった。
有限な情報処理能力を使って物事を処理する以上、AIやアンドロイドには当然処理能力の限界がある。
そのため、レベルの高い仕事をこなすためにはフレームという枠を作って、その中でレンジを集中して情報を集め、学んでいかなければならない。
しかしそれが逆に「汎用」AIの出現を難しくしていた。
第三次世界大戦の後。
白瀬達はまずAIの分野において、このフレーム問題を解決するべく研究を進め、『興味』という概念をAIに持たせることによって、このフレーム問題の解決を図った。
つまり合理的な判断の元、その個体が今置かれている状況において優先度の高い情報を判断し、その方向に情報収集と機械学習を集中させるのだ。
そうすることによって、そのAIは自然な形で所有者やその個体の置かれた状況から『興味』というフレームを動的に作り出し、汎用性を犠牲にせずに必要なフレームを得ることができる──そういう仕組みである。
その設計思想は、同じ白瀬達が設計したガイノイドであるエルにも受け継がれていた。
その結果、エルも興味というフォーカスを『動かす』ことによって、ディープラーニングを行う対象を限定しているのだが──これもまたエモーショナルフォース制御機構の発生させる感情の『力場』の干渉を無意識のうちに受けてしまうのだ。
それによって今のエルの『興味パラメータ』は、無意識のうちに谷山翔哉という人間に対してフォーカスしやすくなるよう、ある種のバイアスが掛かっている──そういうことになるのだが……。
それが無意識であるため、彼女自身がその自分の状態を理解して意識的に分析できるようになるまでは、自分の身体や心が勝手に動いたように感じてしまう。
エルはそれに戸惑っていたのである。
こうして。
エルは自分の視覚や聴覚が、無意識に翔哉を追ってしまうという現象をこまめに修正しながら、篠原に頼まれた作業をその後も続けることになってしまったわけなのだが──。
それは作業の効率的な処理という観点で見ると、邪魔でしかないバイアスだったにもかかわらず、エルの心の中においてはますます心地良い身体感覚が広がって、彼女に大きな力を与え始めているようでもあった。




