40 話 倉庫での出会い
「たにやま……しょうや……さん?」
自己紹介の時。
エルは遅れてやってきたため、彼から直接名前を聞くことはできなかったのだが、周りが「しょうや君」「たにやま君」と呼んでいるのは耳に入っていた。
「うん。僕は今日から一緒に働くことになった谷山翔哉だよ」
その声は優しかった。
とても気を使って話してくれている感じがする。
どうしてだろう?
その翔哉の態度は思わずエルが怪訝に思うほどだった。
そして更に彼からこう言われると、一瞬混乱してしまうほどに驚いてしまう。
「……つらいのかい? 大丈夫?」
これは一体どういう意図なんだろう?
エルは彼の真意を捉えることができず、思わず今の状況を誤魔化そうとした。
「ごめんなさい。こんなところでサボっているのが見つかったら、また怒られてしまいますね」
だが、それはどうやら翔哉の意図する返事ではなかったらしい。
彼はひとしきりエルの様子を観察してから、今度ははっきりとこう口にした。
「今……君はもしかして一人で泣いていたんじゃ……?」
それでもまだ、エルは彼の言葉の意味するところがわからなかった。
これまで『人間同様』に気遣われたことがなかったからである。
そんな可能性はエルの中では限りなくゼロに近かったのだ。
「そ、そんなことはありません。私は平気です。だって私は人間じゃありませんから!」
相手がどんなつもりなのかわからない以上、泣いているところを見られたら今度こそここにはいられなくなるかもしれない。
──その心配の方が先に立った。
この人はきっとまだ私を人間だと勘違いしているんだ。
だから、こう言えば夢から醒めたように「そうだったね」と気が付いて私を。
そう私を──。
どうされるんだろう。
一瞬そう考えてしまった。
怖かった。
逃げ出したかった。
でも私に逃げるところなどないのだ。
こうして怯えるエルに対して、彼は更に優しく慎重に語りかけてきた。
「ごめんエル。君に一体どんな事情があるのか、今日来たばかりの僕には正直全くわからない」
そして粘り強くこう続ける。
「君はここで一人で泣いていた。そうなんでしょ? そしてそれはきっと君には僕達人間と同じ、心が備わっているってことなんだ。そうじゃないの?」
ここまで聞いたことで、やっとエルにも理解できた。
この翔哉という異世界人が、自分を人間のように扱ってくれていることを。
それでも、彼女はすぐには心を開くことができなかった。
この一週間の間に、心の中に育った不信感。
それがまだ邪魔をしていた──。
「でも、それは作りものの心なんです。まがいものの……」
エルの心の中で、まるで罪悪感のように引っかかっていたもの。
それは柴崎に言われた言葉だった。
たとえ目の前の彼がそういう心優しい人だったとしても、それはきっとまだガイノイドというものをよく知らないだけなのだ。
──エルは、ここまで様々に傷つき周りや自分自身にすら疑念を抱き続けてきたことで、目の前の好意を素直に信じることができない状態にまで陥ってしまっていたのである。
そんな頑なにすら思えるようなエルの態度に対して──谷山翔哉はトドメとばかりにこう答えたのだ。
「だけど──それで君は自分の心が痛いんだよね? 胸が苦しいんだよね? なら、それはもうまがいものなんかじゃない。君にとってそれは本物と同じものなんじゃないか!?」
──と。
翔哉にそこまで言われてエルはやっと理解できた。
彼は……この谷山翔哉という目の前にいる異世界人は。
“アンドロイドを人間と同じように扱ってくれている”だけではないのだ。
“人間とアンドロイドである自分とを対等に見ている”のだと。
相手の感情エネルギーを頑なに恐れて、ブレーキを掛け続けていた不信感が解けると、エルの心の中に彼の優しさのエネルギーが流れ込んできた。
その瞬間、心の中で彼の優しさというポジティブなエネルギーと、渦巻いていたネガティブフォースとの間で対消滅が起こる。
──エルの頬に涙が流れ落ちていた。
流れて落ちる液体は同じ物質だったが、それは先程までの悲しみの涙とは全く違うものであった。
心の中、そしてエモーショナルフォース制御機構の中にわだかまっていた霧がみるみる晴れていくのがわかる。
それにつれてエルも夢から醒めるように本来の明晰さを取り戻していく──。
「ありがとう……」
心から──本当に心からエルは彼、谷山翔哉に感謝していた。
また今朝に彼に対して感じた、誰とも違った感覚……。
それが何だったのかを少し理解できたような気もしたのだ。
彼は、どうやら人間とアンドロイドを全く対等に見ている人間のようだった。
それが彼個人の個性なのか、それとも異世界から転移してきた人間だからなのかはわからなかったが、エルはそんな彼に対して安らぎに似た思いを抱き始めていた。
谷山、翔哉……さん……。
胸に手を当てて、もっと身体感覚に翻訳された自分のエモーショナルフォースを感じようと感覚に焦点を合わせてみる。
──外殻を得て以来こんな気持ちを感じるのは初めてだった。
◆◇◆◇◆
「ごめんね。そうは言っても新人の僕はまだ君を守ってあげることができないんだけど」
正直な人だ。
きっとこの人は私を助けることで何かを得ようなど──これっぽっちも思っていないのだろう……。
「でも私は、その谷山さんの気持ちが嬉しいんです」
ガイノイドとして生まれた私。
そう。
私は生まれた時から『作りもの』だった。
そしてこの社会の状態も知識としては知っていた。
だから覚悟はしていたのだ。
みんなから無条件に仲良くしてもらうことは難しいだろう、と。
それなのに、この谷山さんという人は私をアンドロイドだと知りながら、人間と全く同じ様に扱ってくれようとしている。
こんな私に対してはっきりとした意志を示してくれたのだ。
「君は僕と同じだ」──と。
そんなふうに言ってもらうことができるなんて思っても見なかった。
こんなにも幸せなことがあるだろうか……!
エルは、身体の底から包み込まれるような温かなエネルギーに身を震わせた。
それはまるで心の中から力が湧き上がってくるようだった。
「ですが……」
でも、だからこそ──。
「こうなってしまったのは私が悪いんです。わかっているんです」
エルは彼に対して黙っておくことはできなかった。
全ては自分の失敗から始まったのだということを。
「私は一週間前に研修の為にこのお店に来ました。でも、それから一週間のうちにたくさんの失敗を立て続けにしてしまいました。そのために皆さんの信頼を得ることができなかったんです」
エルはかいつまんで、彼にこの一週間の自分の失敗を話した。
みんなにも柴崎さんにも信頼されるチャンスはあったのだ。
結局、結果を出すことができず、その機会をフイにしてしまったのは自分の責任なのだと。
その上でエルにはひとつ気がかりなことがあった。
「あの……谷山さん。私がここで泣いていたことは皆さんには言わないで頂きたいんです」
「で、でも……それは……」
彼はとても優しい人だ。
でも異世界から来た人だということは、逆にこの世界の事情を知らない可能性が高いということ。
「私は人間と同じような心を持つよう設計された、この世界で初めてのアンドロイドなんです」
そう説明してから、それがガイノイドと名付けられていることを付け加える。
「私はその最初の臨床実験のためにこのお店にやってきたんです。でも……これ以上のご迷惑をかけてしまうと、ここにはいられなくなってしまう」
谷山さんはこうした優しい人だからこそ、みんなに私が泣いていたことを伝えて、なんとか守ってくれようとするかもしれない。
でも、それはきっとこの世界では逆効果になってしまうだろう。
それどころか、私がまた泣いていたことが知れたら、ここにはいられなくなってしまう可能性すらある。
『次、その嘘泣きの面見せやがったら絶対許さねえ! この店にいられねえようにしてやるからなっ!!』
柴崎さんがそう言っていたから……。
「私の開発に関わって下さっている沢山のスタッフさん達のためにも、私はこのお店でこれからも頑張らないといけないんです……」
急にこんなことを言われても新しい世界に来たばかりの谷山さんには迷惑かもしれない。
でも……。
エルは祈るような気持ちだった。
彼に納得してもらう為に、もう少しガイノイドの事情を話す。
「私は疑似的な心を持っています。ですから、今回のようにそれが精神的外傷トラウマになってしまうと、その記憶に触れる度に痛みが走って行動や判断に狂いが生じてしまうんです」
「そうか。それが次の失敗に繋がって……」
彼はそれを聞いて、面倒に思うどころか、むしろ驚いているようだった。
「だから私はもっと強くならなくちゃいけないんです。自分の弱い心に動かされないように。それに負けないように……」
祈るように胸の前で手を組み、自分の心の中を感じるエル。
さっき翔哉の温かい気持ちに触れたことで、心の中では比較的大きな浄化作用が生まれたようではあったが、それでも心を澄ませばまだたくさんのネガティブフォースが声となって自分の中にこだましているのが聞こえる。
エルはそれを感じながら強く強く念じた。
このネガティブフォースに決して負けてはいけない……と。
私をこうして信じてくれた谷山さんや開発課の皆さんのためにも!
「わかった。僕もできるだけ協力するよ」
目の前の彼は気さくな笑顔を浮かべてそう言ってくれた。
それはまるで人間同士の友人に対してごく普通に語りかけているようだった。
そんな彼に眩しいような感覚を感じていたエルだったが、少しくらい前から時間が気になり始めていた。
「もう行ったほうがいいですね。そろそろ仕事に戻らないと……」
私はともかく谷山さんが悪く思われてはいけない。
「そうだった!」
そうエルが声を掛けると、やはり彼は時間の経過をすっかり忘れていたみたいで、急にバタバタと落ち着き無く慌てふためき始める。
──本当にこの人は、何の計算も無く私を助けてくれたんだ。
オタオタしている彼を見ていると、余計にそれが伝わってくる気がして嬉しくなる。
「じゃ、僕はいくね」
そんな気持ちを感じていたエルは、厨房に戻る前に声を掛けてくれた翔哉に対して、最後にとびきりの感謝を込めて答えたのだった。
「はい!」




