39 話 感情の扱い方
9時過ぎになってやっと安原がやってきた。
「ごみーん。また寝過ごしちった☆」
「またかよ~! お前絶対わざとだろ!!」
その安原に柴崎が絡む。
「お布団がね~。私を離してくれないの~♪」
そう言いながら更衣室に入っていく。
朝の仕込みはいつものように進んでいたが、安原が遅れたせいでフロアのセッティングは少し遅れていた。
「お~い、安原~おめえ早くしろよ~!」
柴崎にうるさく言われ、安原がやっと制服姿で更衣室から出てきたタイミングで、表の方で「カランカラン♪」と入り口の扉が開いた時に鳴る乾いたベルの音がした。
このベルも電子音ではなく、カウベルのようなアナログ物である。
レジの釣り銭を準備していた高野が慌ててフロアに出ていく。
「はーい、開店は10時からなんですが~」
いつものように反射的に言ってしまってから「あ、今日は新人君が来るんだっけ?」そう思い返す。
やってきたのはその彼だった。
谷山翔哉君……だったかな?
新人を適当に待たせると高野が厨房に戻って来る。
「新人さんの到着だよ~」
「マジっすか」
「新人さんって~?」
今、着替えが終わったばっかりの安原には話が見えないようだ。
もう開店まで時間も無くなってきていることもあり、興味も手伝ってみんなで一気にフロアになだれ込むことになる。
「また来たんだ~」
「そりゃ人数足りてねーからよ」
そう言う安原に、つっけんどんに返す柴崎。
「きゃ~可愛いじゃない~」
安原は翔哉を一目見て歓声を挙げた。
「またつっかえねーお荷物じゃなきゃいいんだけどな」
そういつものように憎まれ口を叩いていると後ろから篠原に小突かれた。
「しっ。聞こえるでしょ!」
「はいはいはい~。今、紹介するからがっつかないでよ~」
そこに高野が素早くみんなの前に出てきて新人を紹介する。
「彼が、今日から一緒に働く谷山翔哉君だよ~」
自分に振られた形になった谷山はシンプルに挨拶する。
「谷山です。どうぞよろしく」
「翔哉君は、異世界から最近来たばっかりなんだそうだ~。色々と教えてあげて欲しい」
高野は安原が朝にいなかったことも考慮し、もう一度翔哉が異世界転移者であることを繰り返す。
それを聞いてオカルト大好きの安原が更に喜びの声を挙げた。
「異世界? すごーい!」
「異世界ねえ~」
柴崎はいまいちそういうのには関心がない様子。
本心では異世界なんて言ったところで胡散臭いと思っているのだ。
「かっこいいじゃん☆」
安原はと言うと──。
これまでネットなどで見て憧れていた異世界転移者に実際に会えたことで、珍しく素直に感激していた。
そこに、時間通りに倉庫の片付けを終えて厨房に戻ってくると誰もおらず、不思議に思ってフロアの方へと顔を出した──エルがやってきた。
「あの……奥の倉庫のお片付けが終わりましたけど」
フロアの一角にみんなが集まっている。
その中心に一人見覚えのない若い男の人が立っていた。
「ああ、良いところに来たね~エル。これからみんなが新人さんの彼に自己紹介をするところなんだよ~君も──」
そう高野が言うところに「なんで? あんな人形なんかほっときゃいいじゃん!」という柴崎の声も重なってくる。
私……行っていいのかな?
エルはちょっと迷ってしまった。
ここで出て行ったりしたら、また後から柴崎さんに怒られるのかな……?
──そんな想いも頭をもたげて来ていたのだが、そこで篠原が優しくエルの背中を押したのだ。
「ほらエル。あなたもエルドラドの一員なんだから、みんなと一緒に自己紹介してらっしゃい」
そう言われてエルはやっと翔哉へと近づいていった。
異世界からの転移者……さっきみんながそう言っていた人。
──異世界というのは、この世界の過去と直接関連性を持たない違った世界から来た人だというのはエルの記憶に情報として入っていた。
「あの……ここで研修させて頂いているガイノイドのエルです……」
失礼にならないように気をつけながら、深々とお辞儀をして彼を見上げる。
「よ、よろしく」
──すると。
彼はなぜか私を逆に怖がるように半歩ほど後ずさりしながら……そう言葉を返してきたのだ。
でも……なんだか?
この彼から感じる印象は、エルにはちょっと不思議な感じがした。
心に何か鋭角的なものが触れてくる感じが全く無かったのだ。
その感じは、これまで自分に対して常に好意的に接してくれていた、高野さんや篠原さんとも何かが違うような……?
その初めての感覚を、もっとはっきり自分の中で分析したかったエルだったが、その思考は「お客さんが来るからそろそろ厨房の方に入ってくれる?」という篠原の声によって中断された。
みんな慌てて一旦厨房の方へと退避する。
エルもその後に続いた。
◆◇◆◇◆
そこからランチ前までの時間、エルはいつものように「またジャガイモの仕込みを手伝ってくれる?」と篠原に声を掛けられた。
「はい!」
エルは明るい声で返事をすると手際よく作業を始める。
この包丁を使って野菜の皮を剥いたり、切り揃えたりする時間がエルは好きになってきていた。
こうして包丁の作業をしている間は、いきなり失敗して怒られたり、迷惑をかけたりする心配があまりないようなのだ。
それに結果も既に十分過ぎるくらいのレベルにあるらしく、篠原さんも心から喜んでくれているようである。
ずっとこんな時間が続けばいいのに──。
そう思ってしまう気持ちもあったが、皮肉なことにこういう仕事というのは秀でれば秀でるほど速く終わってしまう。
「もうこれくらいで大丈夫よ。ありがとうエル!」
そう喜んでくれる篠原を嬉しく思いながら名残惜しくもあった。
そして、仕込みが終わってエルが手隙になると、店内ではそこからランチタイムが始まる。
──エルはこの時間が苦手だった。
みんながバタバタと忙しくしている時なのに、自分がどうやってみんなの助けになったらいいのかわからないのだ。
「ぼーっとすんじゃねーよ、人形!」
また柴崎から怒鳴られてしまった。
そこに忙しい中素早く安原が近寄って来て「お店の前の掃除くらいできるんじゃない?」そう耳打ちしてくる。
それは一見、見かねて知恵を貸してくれる風でもあった。
「あの……でも私……」
エルは戸惑った。
私が行ってもいいんだろうか?
エル自身も自分がこの街の人からは好かれていないことを、行き帰りの道すがらから感じ取っていたのだ。
それに先週の金曜日のこともある。
──だからしばらくエルも一瞬躊躇してしまったのだが。
「ちゃんと失礼がないように、周りの人に挨拶くらいするのよ」
そう言ってすぐに忙しそうに、お客さんのところへ駆けていく安原をそれ以上煩わせることはできそうになかった。
忙しい店内でこれ以上ぼーっと突っ立っていることもできない。
エルは仕方なく奥から人間用のホウキとチリトリを持ってくると、外に掃除にできることにしたのである。
外の寒さは、エルにとっては堪えることはなかったのだが、やはり雑踏を歩いている人々の自分に対する視線には冷たいものがある気がした。
それを思うと外のゴミを掃除をしながらも、こちらから挨拶することに関してはどうしても気後れしてしまう。
どうしよう……。
一応控えめに「こんにちはー」と声掛けをしてみる。
やはり周りの人達の反応は冷たい……。
あからさまに避ける人もいるくらいだ。
これでは客引きどころか遠ざけることになってしまうだろう。
──そう思っていると、店内から清水が息を切らしてやってきた。
「エル、何をやってるんだ!」
「あの……私……」
「いいから早く中に入って!」
「はい……」
また迷惑を掛けてしまった。
やっぱり声を掛けるべきではなかったのだ。
店に入っていくとまた柴崎の叱責が鋭角的な感情と共に飛んできた。
「お前は向こう行ってろ。欠陥品!」
「す、すみません……!」
エルは、そのままオフィスに逃げるように入っていく。
申し訳ないという気持ち以上に怖かった。
そして何より、また悲しい感情が膨れ上がってきていて、涙が溢れそうでもあったのだ。
『次、その嘘泣きの面見せやがったら絶対許さねえ! この店にいられねえようにしてやるからなっ!!』
先週柴崎から言われた言葉がリフレインする。
涙に気付かれてはいけない!
そう思ったエルは急いで倉庫へと逃げ込んだ。
◆◇◆◇◆
倉庫の中は、人感センサーによって点灯する照明なので、エルが入っていっても照明は点かない。
いつも作業をする時は手動で点けるのだが、この時のエルは暗い中で隠れるようにうずくまっていた。
涙が後から後から溢れ出て来る。
思わず頬を手で擦ったが、中々その液体は止まってくれなかった。
「悲しい」
「どうしたらいいの」
「指示されたことをしただけなのに」
「指示が間違っていた?」
「でも逆らえない」
「怖い」
「これからもこんなことが続くの?」
「ずっと?」
「役に立ちたいだけなのに」
「わかってもらえない」
「私が嫌われてるから?」
「誰に」
「柴崎さんに」
「いいえ、みんなに!」
「でも……」
頭の中で様々な思考が、声のようにこだまして埃のように舞い上がる。
その声の数と圧力は、土日を挟んだことで少しは減少したものの、こうして感情的にショックを受けると、やっぱり強い波のように襲ってくるのだ。
そして、今必要としている合理的な思考の邪魔をするのである。
なんとかこの意識の無秩序さを鎮めて、感情エネルギーの高ぶりを抑えないといけない。
だが──。
その感情の高ぶりをエル自身が直接コントロールできるような形には、ガイノイドは元々設計されていないのだ。
エモーショナルフォース制御機構で発生している力場は、純粋に物理学的な法則にしたがって、エネルギーの干渉が行われた上で、それが共鳴もしくは自然に減衰していくようにセッティングされており、エルの意志で直接的に制御はできないのである。
これは人間もまた、感情そのものを自分で意図的にコントロールできないことと似ており──また実際、似るように意図して設計されていた。
そのためエルにできることと言うのは、感情を間接的に知覚している肉体的精神的感覚を意識した上で、自発的に作り出せる思考や感覚を使って逆に自分の方から干渉させる形で、今ある感情に間接的に影響を与えること。
そうやって、意図する方向へ感情エネルギーを向けていくことだけなのだ。
しかし、エルは感情に翻弄され続けたこの一週間で、少しずつそれを学び取りつつあった。
そして、少しずつ自分の高ぶった感情をやんわりと制御する感覚を掴もうと模索しているその時に──。
パッと倉庫の電気が点いたのである。
いけない!
エルは感覚に集中している状態から我に返った。
「あ、すいません。私は次は何をすれば……!」
まず仕事をサボっているように思われるのは避けないといけない!
泣き腫らしている状態の顔を隠すのも忘れて、無理矢理笑顔を浮かべて振り返る。
もし柴崎さんだったら!
先週のことを思い出すと凍りつくような恐怖が体全体に走る。
しかしそこに立っていたのは──。
「あ……」
今朝会ったばかりの新人さんだった。




