38 話 夜明け前が一番暗い
エルは、仕込みもやっと一段落して一息ついていた。
「Aセット2、Cセット1です! その後セットのホット3で」
「BセットCセット1つずつでーす」
「Aセット4! ドリンクがホット2、レモンティ1、ココア1!」
今日はいつも以上にランチの割合が多い。
主菜のテリーヌが盛況のようだ。
ランチの主菜がテリーヌの時はいつもたくさん数が出るので、今日は多めに仕込んだと篠原も言っていた。
それに備えて、エルもランチの付け合せ用の野菜を、開始時間ギリギリまで刻んでいたのだ。
かなりの量をここまで仕込んだので、仕込みがここから足りなくなることはまずないだろう。
ただ今日はランチが盛況の金曜である上に、そのランチが名物のテリーヌだと聞きつけて、お客さんがますますやってくるのである!
店内は大騒ぎだった。
「おい、そっちお客さん待たしてる! 水とおしぼり!」
清水が叫んでいた。
「はいはいはいはい……今行きますよ~」
そこに小走りに高野が急行する。
エルも昼の仕込みが一段落して手すきになった後、いつもよりハラハラしながらその状況を見ていた。
状況判断、進捗管理、未来予測……接客からは距離をおいているものの、エルは元々そういう流れを読む能力が高いのだ。
どんどんお客さんが入ってきちゃってる。
このままじゃ、あっちや向こうのテーブルが……!
エルも見ていて気が気でない感じになってきていた。
何か……私もできることをしないと──!
私でも手伝えることはないんだろうか……?
一方安原は、フロア内をバタバタと走り回りながら、周りを見回し肉食獣のようにチャンスを伺っていた。
──勿論、エルを罠にかけるチャンスをである。
一度でもタカノンとかに見とがめられたら、それだけでもうおじゃんだし。
シノさんとタカノンはどうやらエルの味方みたいだから、あの二人が手一杯の時じゃないと駄目だ。
入ってきたお客が一見さんなら尚良いわ。
──そこにあの人形を!
そして、そのチャンスはやって来た。
お客さんが三人、しかもあれは全員見覚えがない。
一見だわ!
安原は素早く状況を確認する。
テーブルは4人掛けが今、ひとつ空いたとこ。
シノさんは主菜を盛りつけ中。
タカノンは……よし、注文聞いてる途中!
「エル……!」
「は、はい。安原さん!」
「ちょっと頼まれてくれない? 私これからそっちのテーブル片付けなきゃいけないの。今入ってきた3人さんに水とおしぼり持っていって。お願いっ!」
丁度空いている4人掛けのところへ、3人のお客が向かうのを横目で確認しながら手を合わせてエルに頼み込む。
「はい。わかりました。行ってきます!」
まだフロア接客のマニュアルを研修されてはいないが、エルは見ていて大体やるべきことは既に把握していた。
当然ながら全く何の警戒もしてはいない。
また反対側の隅に白瀬がいることなど知る由もない。
エルは二つ返事でOKすると、グラスに水とオシボリを用意し、急いでそちらへと向かった。
三人組は中年の男が1人に20代後半の男女だった。
男女二人が店の雰囲気や調度品などを見て、しきりに感心しているのを満足そうに眺めながら、中年男が二人に対して自慢げに話しかけている。
「すごいですねー。ここって!」
「豪華そうですね」
「ここはですね、あの有名な篠原シェフの店でして……」
そこにエルが水とおしぼりを持っていったのだ。
「いらっしゃいませ」
そう丁寧に言うと3人の前に順番に水とおしぼりを置いていく。
エルが二人目のお客に水を置いておしぼりに手を掛けた時、女性の客がエルの顔を何の気なしに見てギョッとした態度を見せる。
「えっ?!」
隣りに座った若い男の方も唖然となる。
「レ……レイバノイド!?」
そしてその二人の反応を確認するやいなや、中年男の態度が豹変して、急に大声を挙げて怒り始めた。
「ふざけるなッ!」
その強烈な声に店中の視線がこのテープルに集まる。
「なんだ、この店は!? レイバノイドに給仕をさせているのか!!」
怒り心頭の呈である。
「そういう店じゃないって聞いてたから、今日は大事なお客様を連れてきたのに!!」
中年男は禿げかけた髪を振り乱して怒鳴り散らしている。
やった!
テーブルを片付けながら事の推移を見守っていた安原は、柴崎とアイコンタクトをすると心の中でガッツポーズをする。
一見にエルをぶつけたらこうなる可能性が高いかも……最初からそれが安原の狙いだったのだ。
高野が慌ててエルの横に立った。
「申し訳ございません。お客様。ご気分を損ねられたことお詫び申し上げます。この者は実は……」
なんでエルがフロアに?
そう心の中で冷や汗をかきながら必死で弁明しようとする。
それが逆に中年男の癇に障ったようだ。
「そんなことは聞いておらんわ! 人を莫迦にするのもいい加減にしろ!!」
そう言って振り回した手がエルの鼻先を掠める。
その手の動き自体は、顔に届くほど接近したわけではなかった。
だが……。
急に自分に向けられた怒りに、恐怖を感じてしまったエルの腕が無意識に思わぬ方向にブレてしまったのだ──その結果、トレンチ(おぼん)にひとつだけテーブルに出せずに残っていたグラスが倒れて水を飛び散らせる。
「あっ!」
エルが声をあげながら慌てて持っているトレンチのバランスを取ろうとしたがもう遅かった。
カチャン!!
「うおっ!!」
その水は、エルの目の前にいた中年男の下半身にかかってしまったのである。
… … … …。
… … 。
3人のお客は、そのまま逃げるように帰ってしまった。
高野が、クリーニング代を出すことを申し出たのだが、それすら受け取ってもらえず──。
「全く酷い店に来たもんだ! 高いだけでっ」
などと憎々しげに叫んだ後──。
最後に「こんな店早く潰れてしまえ~!!」などと吐き捨てながら、店を出ていってしまったのである。
◆◇◆◇◆
金曜日の夜……。
なんとか無事研究所まで帰り着いたエルはそのまま眠りについていた。
あの後、柴崎がいつものように執拗にエルをみんなの前で責めあげようと画策したのだが、内情を深くまで知らされている訳ではない清水が彼を抑え込んでくれたことで、いつまでも暴言を吐き続けることはできなかったのだ。
そのお陰で、週の最後となる勤務を最後まで勤め上げることができたエルは、やっとの思いで研究所まで帰り着くことができた訳なのだが……。
彼女の中に残ったダメージは、更に大きなものになってしまっていた。
この後に続く土曜と日曜は、大手を振って開発課の人間がエルと触れ合うことができるため、表面上のネガティブフォースについてはある程度、払拭できるものと思われたのだが。
一番の問題は、相手との会話から理屈として投げかけられたり、頭脳内のエモーショナルフォース制御エリアに共鳴として直接叩き込まれた否定的感情などが、この一週間に渡り何度も何度も繰り返しエルに対して刷り込まれてしまったことなのだ。
これによって生じた、人間不信や自分のシステムや存在価値などに対する不信感、そして鬱屈や不当感などから来る不満や悪感情などが、過去という記憶を通してエルの価値観を形成し、ひいては人生観として昇華していく根幹の部分にまで、深く傷跡を刻む結果になってしまっていた。
こうして、エルが休眠している状態で意識状態や思考状態のモニタリングをしていても、これまでの彼女が持っていた世界を信じていることによる純粋な人格と、自分自身と世界そのものに対して不信を抱くことによって、最近生まれてきた疑心暗鬼的な人格とが、既に彼女の中で相克を始めている様子が見て取れた。
この一週間悪い状況を全く変えることができなかったことで、このままでは人格全体に悪影響を与えかねない深刻な事態にまで、エルの状態は追い込まれていたのである。
「マズいですね……エルこれ相当苦しんでるはずですよ」
隆二がモニターに映し出されたデータを見ながら泣きそうな顔で呟く。
「責任感が強い子だからな。自分が心の中のネガティブな人格に負けて、もし『人間に仇なす者』になりそうになったら、その時は自ら全てをクローズして人格崩壊を起こすかもしれん」
外から戻ってきたばかりの白瀬も、心配そうな口調でそう同意していた。
それほど、エルのエモーショナルフォースの状態を示す各パラメータの数字は悪かった。
ここまで、ネガティブな感情に影響された『悪い人格』とも言えるものを、八つ当たりや当てつけのような形で表に出してしまうことなく、ぐっと抑え込んでいることに感心してしまうほどである。
「でも何とか今日まで心を繋ぎ止めてくれました。強い子です」
恵も祈るような気持ちでそう言う。
「そうだな」
それだけに、エルにはこれから何としても幸せになってもらわねばならない。
『優しさ』とはある種の『強さ』だ。
どれほどの苦難にも耐えて、これまで『優しくあり続けた』からこそ、今優しくいられるのだから。
だがそれも、最終的に幸せという人格的な成功にたどり着いてこそ、それまでの全てのプロセスが正当化され得るのだ。
この世界に、ガイノイドという新たな生命を生み出してしまった我々には、彼女を最後まで見守り、そこまで導く義務があるとも言えるのかもしれない。
来週からは「彼」が現場に到着する。
だが今日会ってきた飯田からも、気が弱そうな子だと聞いているし、彼がどれくらいエルと積極的に関わってくれるものか。
──その辺りはまだ未知数なのだ。
さて……鬼が出るか蛇が出るか。
◆◇◆◇◆
日曜日は、まずは親睦会の時のような明るい雰囲気から始まった。
モニタリングが終わり、彼女が目覚めるとまずはみんなからねぎらわれ、希望に満ちた言葉を投げ掛けられたのだ。
「エル……よく頑張ったわね」
「大変だっただろ? 心配したよ」
「恵さん隆二さんごめんなさい……私……あまり上手くできなかったみたい……です」
そう言いながら泣きそうになるエル。
それを見て、また舞花が励ました。
「大丈夫よ、エル! こうして少しずつでも学んでいったら、きっといつか周りの信頼を勝ち取れるようになるって!」
「そうでしょうか……?」
「今回は色々運や巡り合わせが悪かったり、最初からキツく当たられたりしちゃったからなあ。よく耐えたとおもうよ、俺は」
隆二がうんうんと満足そうに頷いて見せる。
「そうそう。だいたい何なのよ、あの柴崎って奴!」
「舞花が絶対一発アイツを殴りに行くって言って聞かなくてさ。止めるのに苦労したんだよな~。このガサツ女、手間かかりすぎ!」
「アンタだって、こっそりエルの後をつけようとして、恵さんに止められてたじゃないのよー。このストーカー男! キモ過ぎるわ」
そんな感じで、いつも通りの喧嘩を始めてしまう二人を、思わずニコニコと笑って眺めてしまうエルだったが。
しかしその合間にも──。
みんなと一緒に笑い合う中で、不意に涙をこぼす。
会話が途切れた空白の時間に、呆けたようにどこか中空を眺めて想いに耽る。
時々思い出したように、ふと寂しそうな表情になる。
──など。
既に彼女の反応はもう一週間前とは違ったものになってきていた。
そして、日曜日の夜になってくると、更にエルの様子に変化が見られたのだ。
エル自身は懸命に否定していたのだが、深夜にモニタリングするとやはり明日エルドラドに向かうのを怖がったり、嫌がったりする思考がエルの中に浮上してきていたのだ。
エルの人格の中でも自己保全に特化した部分が、明日の月曜からもきっと傷つけられ痛い思いをするに違いないという予測から、銀座街区やエルドラドに向かうことを嫌がるような性向を示し始めていたのである。
◆◇◆◇◆
次の日になった。
今日は8月8日の月曜日。
異世界転移者の谷山翔哉が初めて出勤してくる予定の日である。
もちろんそれはエルには知らされていない。
エルは、朝からどうしても自分の中でも消してしまうことができない「行きたくない」という想いを必死で抑えつけ、いつも通り電車でエルドラドへと向かっていた。
エルドラドに着き、ドアの前で少し佇む。
いや、思わず入るのを躊躇してしまったのだ。
だが、勇気を振り絞ってドアを開けるとできるだけ明るく挨拶した。
「おはようございます! 今週もよろしくお願いします」
そう言って笑って見せる。
心の中は実際には必死の形相なのだが、それを何とか隠して笑顔……とにかく笑顔である。
「おはようエル」
すぐに篠原が挨拶を返してくれた。
そうしていつものように店の中に入っていくと、厨房で集まっているみんなが少しざわついていた。
「また新人が来るって本当っすか?」
「そうなんだ。これは僕も飯田さんから土曜日の晩に聞いたばっかりでね。経緯とかはまだよく分かってないんだけど……」
高野も戸惑い気味のようだ。
きっと何か今の状況を変える意図があるんだろう……そう思ってはいたのだがそれ以上はわからない。
「でも今度はあんな変な人形じゃないんでしょ?」
エルが入ってきたのをチラリと見ながら柴崎が言う。
「うん。だけど今度の彼は先日やってきたばかりの異世界からの転移者らしいんだよね~」
「異世界からの転移者か。面白そうだね」
清水がそれを聞いて乗り出してくる。
「まだそういう人間には会ったことないんだよ」
そう言う清水を高野がからかう。
「シミちゃんはレゾナンス関連にはやたら詳しいけどさ~!」
「そういう現場にばっかり遭遇するだけですよ」
そう返す清水。
「運が良いのか悪いのか~」
「悪いんだと思いますよ。ロクなことになりませんからね」
その結果、護身的な観点で色々調べていくうちに、自然に詳しくなってしまったらしい。
──エルは少し離れたところからその会話を眺めていた。
安原はまだ来ていないみたいだ。
これは別に特別なことではなくて、朝が弱い彼女は度々遅刻しては開店直前になって駆け込んで来るのである。
今日はそういう日に当たるらしい。
新しいスタッフが来る……そう聞いても、エルはあまりポジティブな気分にはなれなかった。
ちょっと怖い感じがしたくらいだ。
一週間前なら、何のデータも無いことに対してはポジティブに考える性格だったエルは、少しずつ変わってきてしまっていた。
──また私はその人にも嫌われてしまうのだろうか……?
そんなネガティブな思考が広がりそうになって、彼女は慌てて身体を動かそうと仕事に取りかかることにする。
「あの……私、これまで通り奥の倉庫の片付けに行ってきますね」
それはここ数日は開店前の彼女の仕事のひとつになっていた。
エルにしても、誰もいない倉庫にいると心が落ち着くようになっていたのだ。
人間嫌い……にはなりたくなかったが、だんだん人といることが怖いと思うようになり始めていた。
「安原はまた遅刻か~」
倉庫に向かうエルの耳に、後ろの方で高野がそう愚痴る声が聞こえた。




