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35 話 袋小路

 次の日もエルは絶不調だった。


 無理もない。

 何しろ昨日の今日である。


 エルの頭脳内では、昨日蓄積されたネガティブフォースがストレスとして感情を負の方向に引っ張る結果になっており、それが感情機構を通してエルの思考や行動なども含め各部位に、無意識のうちに干渉を起こしてしまっていたのだ。


 パリーン!


 さっきから洗い物をしているエルだったが、これで割った皿は今日早くも3枚目である。



「すみません!」



 エルが謝る。



「すいませんっじゃねーだろ! お前皿も満足に洗えねーのかよっ!!」



 柴崎がまた怒鳴る。



「そんなんだったら、お前が来てから奥で眠らせてる旧型のレイバノイドにやらせたほうがマシだろーが!!」


「…………」



 エルが俯いて黙り込む。


 一方で、そう言いながらも柴崎は心の中でほくそ笑んでいた。

 今日は俺達は何もしちゃいない。

 やっぱりアイツの言った通りだったな。


 『感情みたいなものが組み込まれているんだとしたら、後はプレッシャーを掛けたり、罪悪感を抱かせたりすれば自分から崩れていくわよ』


 今朝もそう話していたのだ。

 これなら、こっちはバレることもなければ悪者にもなりようがない。

 昨日の「あれ」は確かにちょっとリスキーだったが、こうなっちまえばもう後はそれとなく突っついていくだけで勝手に自滅していくだろうよ。


 悪く思うなよ?

 ガイノイドだか何だか知らねえが、俺達はお前たち人形と違って生き残るために必死なんだからな。


 なんちゃらテストとか何だか知らねえが、そんな遊び半分のそっちの事情で俺達の領分を荒らされたんじゃ、こっちはたまったもんじゃねーんだ!



   ◆◇◆◇◆



 エルは身体の中に蠢くどす黒い感情エネルギーと、その感情が感覚化されたことによる内面的な痛みに必死で耐えていた。


 更に悪いことに、昨日のアクシデントはエルの中に、自分の『外殻』──つまり身体に対するある種の“不信感”を植え付け始めてもいたのだ。

 どうして、あの時自分の身体があの様に動いたのか、後からの分析でも彼女には理解できなかったのである。


 それによって、知らず知らずのうちに自分の身体が自分の思い通りに動いていないのではないか……というシステムに対する疑念になり、それがまた色々な意味でエル自身を苦しめる結果となっていたのだ。


 正に悪循環である。


 ガチャーン!



「あっ……」



 今日になってから4枚目の食器が床で砕かれた。

 とうとう堪忍袋の緒が切れたとばかりに柴崎が切れて見せる。



「もういい、あっち行ってろ! この出来損ないが!!」


「はい……」



 エルは、肩を落としてオフィスの方へと下がっていった。

 その後ろから追い打ちをかけるように声が聞こえる。



「おい安原、奥にある旧式の汎用レイバノイド持ってこいよ。あっちの方がこの人形よりよっぽど役に立つわ!」


「はぁ~い☆」



 エルを追い抜くように、安原が倉庫の方に入っていき旧式レイバノイドを起動して厨房へと戻っていく。

 それをエルは惨めな気持ちで眺めていた。



   ◆◇◆◇◆



 その日は、なんとか8時の閉店時間までお店にいることはできたのだが、エルの心の中はもうボロボロだった。


 ネガティブなエモーショナルフォースの干渉が積み重なることで、様々な恐れや疑念、そして怒りまでが折り重なって彼女の思考エリアを侵し始めており、その思考が心の声となって更にエルの心を撹乱し始めていた。


 その散らかった心が静まるまで駅のベンチで休むことする。


 そのような“心の声”は、彼女が口に出さなければ表に漏れるものではないのだが、そう言った心に抱いたままで白瀬や恵そして舞花や隆二に会うのは申し訳ない気持ちで一杯だったのだ。



「お、おい……嬢ちゃん大丈夫かい……あっ!」



 苦しそうに胸を押さえて俯いているエルを見て、声をかけようと近づいてきたオジサンが彼女が顔を上げた途端にびっくりしたように去っていく。



「なんだ……レイバノイドか……」



 去り際のその一言すら、今の彼女には痛みを伴って聞こえた。



 明くる日の水曜日も基本的に状況は変わらない。

 いや、ますます悪くなっていた。

 ──そんなエルの目からは見る見る生気が失われていってしまう。


 エルの心の中では、様々なネガティブフォースが増大し続けており、それがますます彼女の心を圧迫し続けていたのである。



「もう限界ですよ、チーフ!」



 舞花が逆ギレ気味に白瀬に食って掛かる。



「エモーショナルレンジも下げられないし、これでは人格崩壊も時間の問題です……このままじゃエルが……!」



 隆二も泣きそうな声であった。

 昨晩も隆二は、エモーショナルレンジの感受性を引き下げようとコンソールを通じてエルに呼びかけたのだが、その提案は頑なに拒否され続けていた。


 白瀬もここまで何もしてない訳ではない。


 月曜の夜から、所長室の彼の端末から人材バンクのデータベースに侵入して、新しい人材をエルドラドに送り込めないか思案していたのだが、こんな状況を打開できる可能性がある人間などそうそういるものではないのだ。


 それにこの時代の人間を、新しくまたひとり送り込んだところで、同じ穴のムジナになるのがオチだろう。


 手詰まり……なのか?

 ふと、白瀬の頭にもそんな絶望感が去来する。



 その時、思い詰めた表情で思考を巡らせていた様子の恵が、意を決したように口を開いた。



「実験中止を具申します。宗一郎さん」



 彼女としては考え抜いた末のことなのだろう。

 それはわかっていたが白瀬は取り合わなかった。



「中止してどうするんだ恵。実験中止とはそのままプロジェクトの凍結を意味する。そうなればエルのパーソナルデータだって、連続性を失って過去のものになってしまうんだぞ」



 過去のもの……つまりそれは『死ぬ』ということである。

 ガイノイドにとって心の停止は死を意味するのだ。



「お前は今自分が見ているのが辛いからと言ってエルを見捨てるのか? エルはまだ戦っているんだぞ。生きるために。そしてアイツのことだ。それは何よりきっと俺達のために、だ」



 眠っていてもエルがこの状況下で自分に何ができるのか、その演算を止めていないのは確認できていた。

 ただそれさえも、状況を変える一手がこのまま打てなければ袋小路だ。


 人格崩壊に追い込まれこれ以上のテスト継続が不可能になっても、こちらから中止を申し出て終わらせても、どちらにしてもエルに待っているのは『死』だけなのだから。



   ◆◇◆◇◆



 ガイノイドにおける『意識』とは、すなわちエモーショナルフォースに干渉された状態の、その瞬間における各感覚器官の状態の総和であり、それが蓄積されることによって記憶が形成される。


 それ故に、エモーショナルフォースが力場を発生させた時点でエルの『意志』が芽生え、そこからこの記憶の蓄積が始まることから『生きる』ことを始めたと言えるのだが、それは逆に言うとエモーショナルフォースの力場形成を停止させた時点でガイノイドの意識は停止し、記憶の蓄積とともにその連続性も止まってしまう。


 これがガイノイドにとっては『死』ということになるわけだ。


 最初、外殻に入る前にエルが存在していたAIから、力場形成を経て外殻内の彼女に意識が芽生えた際には、それまでの記憶がチップ状の集積回路に記録された電気信号だったため、記憶をメモリから受け継ぐことが可能だったのだが、一度ガイノイドに『意識』が芽生えた後はそうはいかない。


 ガイノイドの記憶というのは、その時その時の『意識』という波動を、時間の経過と共に積分的な観点で積み重ねて行くことによって、全体総和的なバイブレーションを生み出すことで、それを『記憶』というひとつのパラメータとして状態保存することだからだ。


 そして、その記憶から情報を取り出すことが必要な際には、今度はその総体波動の一部を微分的な観点で捉え直すことにより、総体波動としての記憶からの過去の一時点における情報の再現──つまり『思い出し』が行われるのである。


 人間もそうなのだが人格とは、パーソナリティという『形』だけで保たれているわけではない。


 そのパーソナリティという『原型アーキタイプ』に経験という『記憶』が過去というパラメーターとして演算されることによって、今この瞬間の人格が決定されていると言える。


 それ故に、ガイノイドの内部にあるエモーショナルフォースによる力場発生を止めることが、生き続けているその『個体』の死を意味するのである。


 なぜなら、波動としての記憶が保たれていない以上、その後もう一度起動してもまた初回起動の彼女に戻るだけなのだから。



 このようにエルの『死』は、本来的に言うと外殻の機能の停止が直結するものとは言えない。

 エモーショナルフォースの力場発生が止まることによる、意識と記憶の連続性の断絶こそが、エルの『死』を意味するのである。



   ◆◇◆◇◆



 白瀬が言った。



「まずは週末までの木曜金曜の2日間を何とか乗り切らせることだ。そうすれば、土日はゆっくりメンテナンスに充てることができるし、俺達と触れ合う時間も取ることができる」



 そして、その間に何とか状況を変える方法を考えるしかない。

 そこまで言った白瀬が、何とかこの重苦しい空気を切り替えようと、話題を切り替える。



「俺もさ、この状況を座して見ている訳じゃないんだ。これでもあちこち手を尽くして打開策を練ってるところでね。まあ、もうちょっとだけ待っていてくれないかな?」



 できるだけ明るい声を出して、メンバー達を少しでも元気づけようとした言葉だったのだが、その声もこの絶望的な状況の中では虚しく響くように思われた。

 ──その時である。


 ブーブーブー。


 白瀬のスマホが着信した。


 そして。

 その着信しているスマホのモニターには「ゲヒルン 久保田」という文字が表示されていた。

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