34 話 誤算
「ひでぇことしやがる!!」
エルの人格モニタリングデータを見ながらそう叫んだのは隆二だ。
「なんなのこいつ? いったい何の権利があって!!」
舞花も怒り心頭である。
それに対して白瀬が敢えて反対側からの意見を述べる。
「まあ、自分が丹念に朝から仕込んだスープを丸ごと駄目にされたんだ。怒る理由としては一応、筋は通ってはいるんだろうけどな」
もちろん白瀬も、ここまでされたら腹が立つ気持ちが全く無い訳ではないのだが……この血気盛んな若い二人は感情的に暴走する危険がある。
それが抑えに回らなければという思いを先行させていた。
──エルは、あの後エルドラドから戻ってきて既に休眠状態に入っていた。
そして、今はスタッフ達が朝からのモニタリングデータを再確認しているところなのである。
そして白瀬はというと──。
エルが戻ってきた後、少し遅れて外から研究所に帰ってきたのだ。
◆◇◆◇◆
高野から早退の打診を受けた後。
当初、エルは自分が要らないと判断されたと感じて、かなりショックを受けた様子だった。
しかしそれから高野と篠原が、エルをまずはゆっくりと落ち着かせ、次第に安心させながら説得したことで、何とか帰ることを了承してくれたのだが……。
そうなったらそうなったで今度は憂慮すべきことがあった。
高野としては、このまま帰らせるにしても一人で帰らせて良いものかどうか案じていたのである。
どうしようか考えあぐねた高野は、取り敢えず電話を掛けようと表へ出てきたのだが──そこにまるで先回りしたように突然白瀬が現れたのだ。
「し、白瀬さん?!」
「おう奇遇だな。高野くん。ちなみに俺は今ここにはいないことになってるんで、そこんとこよろしく」
報告書の関係か?
高野もすぐにピンと来た。
「わかりました……!」
まだ平日のこの時間帯である。
研究所の外で白瀬がエルに目撃されるのはまずいのだ。
その返事を確認すると、白瀬は高野のカンの良さに感謝しつつ、二人で店の裏口の方へと移動して隠れて話すことにした。
「──それなんだけどね、高野さん。エルをここにいる俺が直接連れて帰ることはできんのだわ。モニターしてるうちの若いのもこっちに来るって 言い張ってたんだけどさ。俺が今止めさせたところ」
「やっぱり、そうなんですか……」
「うん。ウィークデイの昼間に俺達がエルと目に見える形で関係を持っちゃうと、その時点でレコード中のテストデータは無効になるんだ。テスト自体もそこまでで中止扱いにされちゃう可能性も出てくる」
高野の表情が曇った。
「困りましたね。どうされますか、白瀬さん?」
「エルはひとまず独りで帰らせてやってくれないか? まあ、俺がバレないように遠くから見ておくようにするからさ」
提出されるデータは基本エルの視覚聴覚データと意識データ関連だ。
だから彼女さえに気付かれないよう気をつければ、白瀬がここにいたことはデータには残らないことになる。
「そうですか……」
高野は、色々思い巡らしている様子の白瀬を見ながら、ガイノイドの開発にも色々と難しい事情があるんだろうな……と同情していた。
どんな業界であっても、表立っては言えない面倒臭いしがらみが存在するものなのだ。
「わかりました。それじゃ、また後で一度ご連絡します」
「色々と面倒かけるね。それじゃ!」
白瀬はサッと身を翻して通りへと離れていった。
エルが帰途に就いてからは、そうやってつかず離れず様子を見ながら、白瀬は研究所には少し遅れて帰ってきたという訳である。
◆◇◆◇◆
エルは研究所に戻ってくるとすぐに休眠状態に移行された。
そして、彼女の記憶データから意識状態の分析が開始される。
間もなく、その時のエルの詳細な状態が明らかになってきた。
朝の通勤時から、ストレス値が予想より多少高いくらいは想定の範囲内だったのだが、やはり大きくバランスを崩したのはお昼前にあったカレースープぶち撒け事件である。
そこまでは自分が思っていた以上に順調に仕事をこなせていた安心感が、逆にその事件による驚きと心の痛みをより大きなものに感じさせてしまったのだ。
そして、何よりも問題になったのは──。
「こいつ……柴崎っての? エルをあからさまに潰しに来てるんじゃないですか? なんですか、この態度!」
隆二は怒りを抑えられない様子だ。
確かに。
その後の通路に隠れての攻撃的な言動といい、確信犯である可能性は高いかもしれんな──。
白瀬もやっぱりそう思ってはいたものの、立場上それをこの場で何の確証も無くすぐ口に出すことはできなかった。
「そりゃ、この御時世だ。そういう奴もいるだろう。むしろみんながみんなエルに揃って親切だったとしたら、その方が不自然ってものじゃないか?」
まずはそう言っておくことにする。
「チーフ……これ!」
そこで今度は舞花が慣性系のモニタリングデータを見ながら白瀬を呼んだ。
「どうした、舞花?」
「この足首のジョイントの稼働データなんですが……」
モニターに複雑なグラフが表示される。
「ふむふむ。なるほどねぇ。まあ、ちょっとおかしいわな?」
それはエルが食缶を引っくり返した時の稼働データだった。
足首が一瞬おかしな方向に傾いてから横に引っ張られているのが見て取れる。
「これは……何か外から不自然な力が加わってるなぁ、うん」
いつもの調子で白瀬は応えるが。
「でしょ? 重たいものを持ってもこんな動きするはずないですよ!」
舞花もイライラを隠せない様子だ。
ガイノイドは心理的だけでなく、物理的にもこうしたモニタリングが可能であるため、何をされたかの特定は比較的簡単にできる。
ここまでの推移を少し見ただけでも、エルが何らかの悪意的な妨害を受けたのは明らかだろう。
──しかし、だ。
「まあな。それはそれとしてだ。俺達は無理を言って頼んでいる立場だからな。物的証拠でも無けりゃこっちからは文句を言うこともできんだろう?」
それだけに。
今はこの若い二人については、暴発しないよう抑えておかないといけない。
不満げな二人の追求を煙に巻きながら、白瀬は更に先へと考えを巡らせていた。
この事態が起こった時に、エルの目の前にいたのは柴崎君だ。
これがもし、この柴崎君とやらがエルを敵視していて、妨害工作を行ったものと仮定した場合。
他にも誰か協力する仲間がいる……ってことになるのかもしれん。
また、初日からここまで大っぴらにやられるとは、白瀬も流石に予想もしていなかった訳なのだが。
そうすると──。
これって、前々から計画を練っていた……かなぁ?
参ったね……こりゃ。
◆◇◆◇◆
考えを巡らせながら、白瀬が頭を掻いているとスマホに着信が入った。
「白瀬です。おう、高野君か。うん、うん。いやそんな。高野君が責任を感じることはないって。うん。そんなのよくあることじゃないかな? それよりすまんね。ウチのエルが早速そちらに迷惑掛けちゃって……」
しばらく話してから電話を切る。
「良い青年だねー高野君。もっと早く僕が見つけていたらって恐縮してたよ。まあ、でも相手もいることだしねぇ、そう上手くはいかないでしょ」
「その高野さんって人。責任者なんでしょ? 柴崎の奴をちゃんと明日から抑えてくれますかねー」
隆二が聞いてくる。
「あ、それな」
それに対して白瀬はこともなげに言う。
「そういう風にさ、みんなの行動を制限したり禁止したり、命令的に無理強いしたりはしないでって最初に言ってあるのよ」
「ええっ?!」
びっくりする隆二。
舞花と恵も手を止めてこっちの様子を伺っている。
「なんでなんすか?!」
隆二が食って掛かる。
「そんなの、テスト先の人間のエルに対する態度を、こっちがコントロールしてるとでも勘ぐられたら、また行政府のアイツらに難癖つけられるからに決まってるじゃないの。考えようによっちゃそれってデータの改竄と同じだもの。例え役人連中は莫迦でも御用の第三者機関はそこまで間抜けじゃないのよ?」
その白瀬の指摘に、そっか……という顔になる隆二。
「でも……こっちだって不当なことをされたら正当防衛の権利が!」
舞花が思わず堪えきれないという感じでそう割って入ってくる。
「ガイノイドの人権は誰が守ってくれるのかねぇ……?」
白瀬は誰に言うともなく、そう言ってみせる。
少なくとも今のところはアンドロイドに人権を認める法律も、人間と同じように正当防衛を認める決まり事もどこにも存在しないのだ。
現状では、せいぜい大昔のSFカブレが『ロボット三原則』とか、実際にアンドロイドが存在もしていなかったころのフィクションを持ち出して人間側の行動を何であれ正当化してくるのが関の山だろう。
そんな奴らにかかれば、ロボットもオートマタもアンドロイドも、そしてレイバノイドやガイノイドまで全部一緒くたになってしまう。
ましてや人間に絶対服従、どんな理不尽な命令にでも従わなきゃならん……なんていうのが、ガイノイドを投入しようとしている今の時代において、どれほど時代錯誤なことなのか──。
それを考える価値基盤さえ今の社会にはまだ無い。
つまるところ問題は、その辺の価値観がそういった20世紀後半の頃から、ガイノイドが生まれようとしているこの時代に至るまで、大して変化していないということなのだ。
いやむしろレイバノイドが、作業機械のように戦後の労働力として無作為に投入されたことによって、そういう人間本位の考え方は第三次世界大戦以降になって拡大されたとさえ言えるのかもしれない。
「まあ、その辺の歪を正すためにも、今回の臨床テストの結果がどうしても必要だと──そういう訳なんだが」
つまりエルは生贄……か。
人が実際死ぬまでは、警察は動かないというような不条理は、いつの時代も変わらないのである。
せめて、あと一人そばにエルを守ってやれる存在がいてくれたら……。
──それは過ぎた願いなのだろうか。
「じゃあ、エルをこのまま見殺しにするって言うんですか!? チーフは!」
隆二の声にあるのは、実際には白瀬に対する怒りというよりも焦りである。
確かに隆二の気持ちもわかる。
だが状況を実際に動かすためには、ただその状況に対する不満を声高に叫ぶだけでは足りないのだ。
必要なファクターを余すところ無く揃えて、それらを正しく動かさなければ変化は生まれない。
とは言うものの……。
ここにいるみんながもう分かっている通り、今日一日でエルの精神は既にレッドゾーンぎりぎりだ。
そして、さっきから隆二が端末を通してエルの意識にコンタクトしているのだが、彼女はエモーショナルレンジ……つまり感受性の上限値を引き下げることを頑なに拒否し続けている。
自分が楽になるためにここで感度を落とすことは、今後の全てのガイノイド、いや心を持ったアンドロイド全ての可能性を制限してしまうことになる。
エルはそう考えているのだ。
──そしてそれは恐らく正しい認識だろう。
けれども、このままエルの中でネガティブ側のフォースだけが増大し続けた場合、彼女が今後もいつまで健全な精神を保って、いつもの明るい人格を表に表現し続けられるものか……。
そう考えると、隆二や舞花が焦るのは無理もないことでもあった。
「ちょっとここは頼むわ」
白瀬は、研究室から出ると所長室へと向かう。
いずれにしても。
このままではいけない──それだけは明白な事である。
しかしそのためには。
状況を変化させるための何か新しいファクターがどうしても必要なのだ。
歩きながら白瀬は次なる手を考え続けていた。




