33 話 ランチ時の罠
──二人がそのことを聞いたのは1ヶ月ほど前だった。
エルドラドが創業する時、とてもお世話になった恩人が綾雅でアンドロイド開発をやっていること。
そして、もしかしたら最先端のレイバノイドのテスト先として、エルドラドが協力することになるかもしれない、と。
それを聞いてから男は悩んでいた。
「俺はここまで頑張って技術を磨いてきたけど、シノさんのように飛び抜けてすごいわけじゃない。高性能の汎用型アンドロイドなんかがやってきたら……!」
それを話すと、当時から付き合っていた彼女は彼にこう言ったのだ。
「何が高性能レイバノイドよ! アンドロイドなんかに職場を牛耳られるのなんてまっぴら! ここは私達の場所、私達の聖域よ? 自分達の居場所を守るのは当然の権利なんだから!」
二人はそうしてお互い意気投合したのである。
『もしそのアンドロイドがやってきたら、自分達の聖域を守るためにお互い協力しよう』
そのアンドロイドがいくら高性能でも、人間と協力できなければ成果をあげることはできないはずだ。
そしてその結果、形のある成果が何も残らなければ、失敗作の烙印が押されるかもしれない。
──そうやってアンドロイドを撃退し、私達の職場を守るのだ、と。
◆◇◆◇◆
エルドラドのランチタイムは11時半~14時まで。
このランチが大人気なのだ。
『ランチタイムのためにエルドラドは存在する』と言い切るファンもいるくらいである。
使っている食材の質やシェフの腕などを考えると、どのメニューも各段に安いと言っていいこの店であっても、通常の値段ではコースで一食900アリア(およそ5000円)くらいする篠原シェフの料理。
それがコース料理ほどのボリュームはないものの、このランチでは280アリア(1600円くらい)で食べられる。
それもクオリティーはほぼそのままとなれば、この時間にお客が殺到することになるのはむしろ当然と言える。
そのため、エルドラドはこのランチの時間を中心に一日が回っており、朝8時から開店準備や仕込みが始まって、午前11時過ぎにはだいたいの準備が整う手筈になるよう動いているのだ。
今日は8月1日。
エルが初めて働き始めたその初日。
時計はもうすぐ11時を回ろうとしていた。
「エル。ジャガイモの仕込みはもういいわ。充分よ!」
篠原が満足そうにエルを労う。
そこには皮をきれいに剥かれた上に、篠原に教えられた通りの大きさに切り揃えられた、大量のジャガイモが積まれていた。
少しはお役に立てたのだろうか?
満面に喜びを湛えている篠原を見ながらエルはホッとしていた。
そこに後ろでカレースープの仕込みをしていた柴崎から声が掛かる。
「シノさんちょっとコイツ借りていいすっか?」
コイツとはエルのことらしい。
「はい。なんでしょうか?」
エルは次の仕事だと直感して柴崎へと向き直った。
「これだよ」
柴崎がカレースープが一杯に入った食缶を顎で示す。
「今日のランチの付け合わせのスープの仕込みが終わったんだ。これあっちに運んどいてくれよ。今日来たばっかのお前でもそれくらいはできるだろ?」
厨房の中でもフロア寄りの角を示して少し挑戦的にそう言った。
ランチのスープや小皿の付け合わせは、柴崎達が仕込んだ後はいつもその場所に置かれることになっていて、メインディッシュが出来上がったらフロア担当が最後によそったり皿に盛ったりした後、お客に出す手筈になっている。
「はい! わかりました。柴崎さん!」
エルは、柴崎からはあまり好意を向けられていないことを、その時から当然感じていたのだが、その彼から直接用事を言いつかったのが逆に嬉しかった。
しっかりと仕事をこなせば、その柴崎から信頼を得ることができるチャンスでもあるのだから。
エルは張り切って腕を捲くると、指定された食缶の取っ手を持って力を入れてみる。
だが少し動かそうとしてみると食缶は思った以上に重たかった。
これは腕力だけで持ち上げられるものではない。
すぐにエルはそれに気がついた。
腰をしっかり落として、足首や膝のジョイントが予想外の反応を示した時にも、大きな揺れにならないように慎重に運ばないといけない!
エルは、そう考えながら慎重に食缶を持ち上げることにする。
どう運んだら、より安定するだろう?
そう思いながら進行方向をしっかり確認してその方向へと足を向けていく。
エルの視線が足元を確認した後、遠くの目的地を捉えようと上へと移動する。
そして……。
そのまま足元を見ずに片足を少し上げ、バランスに気をつけながら慎重に身体全体の方向を定めようとした時……。
──それは起こった。
少しだけ上げた右足を慎重に地面に接地しようとした時だ。
彼女の右足はまるで滑るように勢いよく横滑りを起こして……!
よりにもよって。
エルはそこで片足を投げ出すようにバランスを崩したのである。
「ああっ!!」
思わず悲鳴のような声を挙げながら、エルは一瞬でこれから起こることを予測していた。
──もうこうなっては手をすぐに食缶から離したとしても、そして離さなかったとしてもスープのほとんどがこぼれるという結果は同じだろう。
もう彼女の身体全体の荷重が、接地している片足のバランサーで動きを制御できる状態にないのだ。
こぼれたスープが近くにいる人間の方向に向かないこと。
そして、できるだけ他の食材にかかったりしないこと。
そして、自分が倒れた時、できるだけその反動で周りに迷惑がかからない倒れ方をすること。
この3つくらいを意図するしか、この時のエルにはもう選択肢がなかったのである。
ガッチャーン!!
グワーン!!
蓋のしてあった食缶は、それぞれが床に投げ出されたことで、壊れたシンバルのような音を立てる。
当然のことながら、それによって中身──仕込まれていたカレースープも全て床にぶちまけられてしまった!
幸い隠れたエルの機転によって、人的被害やその他の食材への二次的被害は避けられたのだが、それでもやはり大惨事であることに変わりはない。
あっという間に厨房は大騒ぎになった。
◆◇◆◇◆
やった!
通路の影から、周りに見られないように腰を屈めていた人影が控えめに躍動していた。
その人影は見るからに高揚している。
自分の手から転がされたパチンコ玉が、正に狙い通りのタイミングでエルの足元に入ったのを、しっかりと目撃することができた。
そして、そのパチンコ玉はエルの体勢を十分に崩した後、足に蹴られてそのまま床に走っている排水路へと転がり落ちていったのだ。
証拠隠滅もバッチリ──正にパーフェクトである。
「なにやってんだよ!! てめぇは!!!」
柴崎の一際大きな怒鳴り声が店中に響き渡った。
「す、すいませんっ……!」
エルの顔は青ざめているように見える。
しかし柴崎は勿論それだけでエルを許す気など無かった。
自分たちにとっては止むに止まれぬ事情とは言え、自らがせっかく仕込んだ料理を全てドブに捨てたのだ。
最大の効果を発揮させねば気がすまないというものだろう。
「すいませんっじゃねーだろ! どうしてくれんだよ!! もう時間ねえんだぞ!!!」
柴崎はエルのメイド服のようなコスチュームのフリルの付いた胸ぐらを掴んで叫んだ。
これは自分がどれだけ怒っても許される状況である。
ここで誰かに止められるまでは、できるだけ騒ぎ立てこの人形にダメージを与えなければならない。
その様子を満足げに鑑賞した後。
女の人影は何食わぬ顔でフロアに戻りながら、その後も抜け目なく様子を伺っていた。
そうよ。
この場でまずはできるだけダメージを与えるの。
二度と立ち直れないくらいグチャグチャにしちゃえ!
嗜虐的な興奮が体中を駆け巡る。
だが──。
「今はそんなことをしている場合じゃないでしょ?」
そのエルと柴崎の間に篠原がすぐに割って入ってきた。
「まだランチには間に合うわ。スープはコンソメに切り替えるわよ。私が仕込むから柴崎は具にするオニオンを刻んで!」
「ええ?……でも、もう時間が……!」
「でもじゃない。何かあった時にはまず諦めずに最後までベストを尽くすの!」
篠原はそう言いながら、周りにも矢継ぎ早に指示を出し始める。
「清水君は厨房のフォローに入って! エル……あなたは今はいいから取り敢えずオフィスに下がって! 安原は厨房の掃除をお願い!」
今はまだ11時5分。
ランチ開始までまだ30分弱ある。
それまでは食事の注文もそれほどないし、夜のために前倒しで仕込んでいたフォンドボーを利用すれば……。
それまでに代わりのスープを準備できるはず!
篠原の経験と技術に裏付けられた頭脳が、目まぐるしく回転して段取りを再構築しようとする。
──こうなっては、柴崎も言われた作業をしない訳にはいかなかった。
結局。
篠原の機転によって、使えなくなったカレースープはそのままコンソメスープに置き換えられた。
ランチ時までに間に合ったのだ。
それどころか、本来はディナーのメイン用に仕込んでいた高質のフォンドボーを使ったことでお客からの評判は上々、少しスープを出すのが遅くなりはしたものの、それによって文句を言う人は最終的に誰もいなかったのである。
◆◇◆◇◆
「おい、てめえ……!」
15時過ぎ。
ランチの喧騒が一段落ついた後になってから。
柴崎がエルを呼びつけていた。
「シノさんのおかげで何とかなって、ラッキーだったとか思ってんじゃねーだろうな!」
場所はオフィスから少し倉庫の側に入った通路である。
「すみません……でした……」
敵意を剥き出して威嚇する柴崎の態度にエルはすっかり怯えきっていた。
「忙しさにかまけて上手く逃げ切りやがって。まったくてめえはとんだ喰わせもんだよ!」
「…………」
「この出来損ないが! 俺は絶対にお前を許さねーからなっ!」
壁をドンと叩いて更に威嚇する。
エルの身体がビクッと跳ね、全身に恐怖が駆け巡る。
それは彼女が生まれてから初めて感じる、自分の存在を全力で否定しようとするネガティブフォースだった。
耐えるように震えながら拳を握りしめ、目をぎゅっと閉じると瞼から涙のような液体が押し出され、床にぽつぽつと痕を作った。
「けっ! 一丁前に泣きの演技まですんのかよ。それで同情でも買おうってのか? 俺がそんなのに引っかるわきゃねーだろが、バーカ!」
心にザクザクと容赦なく言葉が突き刺さる。
意識の層がゆらゆらと揺れ、気を強く持っていないと胸を押さえて倒れ込みそうになる。
「ふざけんじゃねーぞ! そんなまがいもんの感情で俺たちの仕事場を荒らすんじゃねーよ。とっととこっから出て行け!!」
呪いのような言葉が次から次へと浴びせかけられる。
全身がガタガタと不規則に震えてしまい……声も出せないエル。
それを見ながら柴崎は『よし、もう少しだ』そう思っていた。
「次、その嘘泣きの面見せやがったら絶対許さねえ! この店にいられねえようにしてやるからなっ!!」
柴崎がそこまで言ったところで、オフィスの方から咎めるような声がした。
──どうやら興奮して声が響き過ぎてしまったらしい。
「おい、そこに誰かいるのか?!」
高野であった。
「シバ? おい、お前何をやってるんだ!」
「何って……教育してやってたんっすよ。こいつが全然反省してねぇから……」
そう言うと柴崎は逃げるように厨房の方へ早足に駆け出す。
高野は、自分の横をすり抜けようとする柴崎の肩を思わず掴もうとしたのだが──その手は虚しく空を切った。
追っていこうかとも思ったが、その目の前でエルがグッタリとへたり込んでいるのが目に入る。
それを見て、高野は柴崎の後を追うことを諦めた。
「エルちゃん……大丈夫かい?」
駆け寄るとエルを助け起こす高野。
「ご……ごめんなさい……ごめんなさい……」
エルは涙を流しながら、うわ言のようにそう──繰り返していた。
◆◇◆◇◆
高野が見つけた時には、周りの状況を全くできていないほど、自分を見失った状態のエルだったが、高野がしばらくそばについてオフィスでしばらく休ませていると──。
やがて正気を取り戻していた。
「柴崎さんは何も悪くないです。折角、柴崎さんが仕込んだスープを私が全部……」
エルはそう言うと声を詰まらせる。
かなりの自責の念があるのだろう。
高野が事情を聞きながら、柴崎に対して不満げなそぶりをすると、エルはその度に必死に彼を擁護した。
「いや、もうそれは気にしなくていいんだ。いきなり重たいものを持たせたシバ──柴崎も悪いんだしな……」
高野はエルに言ったが、気になっていることは他にもいくつかあるにはあったのだ。
だが、それを今どうこう言ってもしょうがない。
色々と考えていた高野だったが。
やがて、それがまとまったらしい。
こうエルに優しく話しかけた。
「エルちゃん、今日はもう帰るかい?」
まずはそう聞いてみる。
エルはハッとするとこわばった顔になる。
「私はもうここにはいられなくなるんですか?」
それがどうやら彼女が一番恐れていることらしい。
「そうじゃないよ~。君も随分と気が動転しているみたいだからさ。今日は一旦帰って、明日から仕切り直したほうがいいんじゃないのかなって……それだけのことなんだ。これからも君に頑張ってもらうために、だよ」
──こうして。
エルのエルドラド勤務初日は早退することが決まったのである。




