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30 話 たった一日だけの準備期間

 前日にできるだけセッティングに時間を掛けた甲斐があって、次の日のエルは身体的なリハビリテーションが主なテーマとなっていた。


 エルが目覚めた次の日。

 地球暦24年7月31日のことである。


 その日は早朝から、研究棟の裏庭になっている広めの芝生に、エルと舞花が姿を見せていた。



「じゃあ、エル。最初は歩き、そしてジョギング、それからスキップとジャンプね。それぞれ5セット。芝生でのエクササイズが終わったら今度は土の上、それから駐車場に移動してアスファルトでね」



 舞花が指示を出す。



「はい。行きます!」



 エルは軽快にそう答えると、すぐに所定の動作を繰り返し始めた。



 ガイノイドの初期馴致プログラムにおけるリハビリテーションとは。

 今後、頻繁に繰り返されることが予想される基本的な身体的動作を、あらかじめエクササイズ的に反復しておくことによって、そういった初歩的な動作データを前もって取得した上で習慣化することを指す。


 それによって、実際に生活や仕事上で応用していかなければならなくなってきた時に、その場その場の情報処理の負担を軽減させることができるのだ。


 もちろんエルの全ての知的活動には、常にディープラーニングエンジンが働いているので、後からでも時々刻々と学んではいけるのだが、それを『予習』しておくことで学習効率を上げることができる。


 それが、このリハビリテーションの目的なのである。



 最初は少しバランスを崩したり、リズムが狂ったりすることが多かったエルだが、繰り返すごとにどんどん動きがスムーズになっていく。


 やがて、最初にセッティングした予定が終わる頃になると、タイミングを合わせたように今度は隆二がやってきた。

 そして舞花は隆二とハイタッチして交代する。



「じゃ、次頼んだわよ隆二!」


「まっかせーなさーい」



 お調子者っぽく返す隆二。



「隆二さん、次よろしくお願いします!」


「じゃあ、次は屋内に移動して階段の上り下りだな。それから……」



 説明しながら次の場所へと向かう。

 そして、階段に着くと今度はそこで黙々と上下動を繰り返すのだ。


 それは、例えるとしたら漢字の書き取りのようなものだろうか。

 あらかじめ使うことが決まっている文字を事前に何度も繰り返して練習し、体に覚え込ませておくことによって、筆記する時になって1つ1つの文字を書くことを意識せずに、集中してスムーズに文章を綴ることができる──それと同じことなのである。


 とは言うものの。

 エルの頭脳はAIなので人間ほど回数をこなさなけければ習得できないわけではないのだが、ある程度の回数を重ねることで誤差を修正したり、様々な状況に対応できる基礎を作っておくことができる。


 そう言う意味では、たくさんの種類のエクササイズを最初にこなしておけばおくほど、後になってからエルの負担が軽くなると言えるだろう。


 一息ついた時に隆二がこぼす。



「ごめんな。エル……ホントはこんな準備には最低でも1週間はかけないといけないんだけど……」



 エルはそんな彼を見て微笑んだ。



「大丈夫です、隆二さん。私にはディープラーニングエンジンが働くので、人間の皆さんのリハビリほど時間を要するわけではありませんから」


「…………」



 もちろん時間が足りないことがハンデがあることは間違いない。

 それを聡明なエルが把握していないわけはないのだが、ここまではっきり言い切られては隆二としてはもう何も言えなかった。


 確かにここで愚痴っていたところで準備の時間が増えるわけではない。


 今できるのは、少しでも効率良く時間を使って、少しでもたくさんのエクササイズを今日一日でエルにこなしてもらうこと。


 そのために、今日の彼らは順番に一人ずつエルに付き添うことで、できるだけ多くの時間を訓練時間に充てようとしているのだ。

 エルには肉体的な疲労はないが、人間の彼らには休息が必要だからである。



 やがて、また時間が過ぎると、今度は次に恵がやってきた。



「次は屋内での作業関連の動作ね」



 そう言いながら、一緒に入った部屋でエルの隣に座ると、用意してきたゆで卵が積んであるカゴをテーブル上に置く。

 次はゆで卵の皮むきのようである。

 流石にこれに関してはエルも難しそうで、最初からきれいに剥くことはできそうにもない。



「あっ……」



 エルが思わず声をあげる。

 気がつくとエルの指が、剥いているゆで卵に突き刺さっていた。



「大丈夫よ……少しずつ慣れていけばいいんだから」



 恵はお母さんのように、優しい声で語りかけながら、エルの髪を撫でる。

 エルは余裕がないのか真剣そのものである。


 その後も、硬さや大きさの異なる様々なもの――例えば剥いたゆで卵などからコップ、椅子やテーブル、その他諸々のものを触る、持つ、持ち上げる……など、次々とエクササイズがステップアップしていく。


 あらかじめ、練習した似た動作のデータを持っていれば持っているほど、エルが後から楽になるわけだから、やることについては正直言ってきりがない。


 だが、今回に関しては絶対的に時間が足りない。

 その全てを網羅して、万全な状態で外に送り出してやることは、今日一日ではどだい不可能なことなのだ。


 それでもできるだけの準備をしてあげたい。

 そんな思いでまた順番にメンバーがやってきてはエルに付き添う。


 こうして──開発課の7月31日はあっという間に過ぎていった。



   ◆◇◆◇◆



 一方その日の白瀬は朝から人に会うことになっていた。

 相手は綾雅商事の飯田良二である。


 レストラン・エルドラドの店長と言ったほうが通りがいいかもしれない。


 だが、これについては本人が「僕は店にもほとんどいませんし、あの店の実質的な店長はもう高野君ですよ……」というのが最近口癖のようになってきており、それに付き合っている間に白瀬も飯田があの店の店長という感じが、次第にしなくなってきてはいるのだが。


 それでも、今日の白瀬はエルドラド店長の飯田に用があったのだ。


 白瀬が、銀座街区の駅前にある高級な有人クラシック喫茶で、コーヒーを飲みながら待っていると、約束の時間を15分ほど遅れて飯田がやってきた。



「すいません白瀬さん。お待たせしてしまって」



 そうは言うものの。

 これはいつもの定型句で、むしろ挨拶に近い。



「おう、良二。忙しいのに急にすまんな」



 白瀬も気楽なものである。

 二人は知り合って、もうかれこれ14年くらいになる旧知の仲なのだ。


 当時は地球暦10年だった。

 世はナビゲータAIの没収騒動があった直後で、当初計画されていたガイノイド計画が無期限延期になった時期と重なる。


 目標を見失った白瀬が、フラフラと白衣のままで研究室を抜け出し、度々街を彷徨うようになった頃でもある。


 一方の飯田は当時22歳で、綾雅商事に就職してしばらく経った頃であった。


 飯田は農業プラントから街のレストランへ食材を供給する仲立営業をしていたのだが、お店に対して食材の良し悪しをあれこれアドバイスしていたことが、不正な商行為ではないかと上司から勘ぐられ、社内では窮地に陥っていた。


 そんな折、町中で職質され警官にしつこく絡まれていた白衣の男、つまり白瀬を行きがかり上助けたことで、この二人の間に縁ができたのだ。


 その後、飯田が自分の置かれている状況を白瀬に相談したことで、綾雅グループ内では当時から顔の効いた白瀬が、飯田をレストラン事業部へと転属させる方向に口を利いたのである。


 その白瀬の助力のおかげで、自分はその時失職を免れたと飯田は今でも恩に着ているのだ。



「僕が今忙しくしていられるのも白瀬さんのお陰ですからね」



 飯田はそう言った。



「お前に元々才能があったんだよ」



 白瀬もそう返す。


 元々飯田は大学時代から食材の質と効率的供給を研究テーマにしており、それを武器に入社早々取引先と強力な関係を築き上げようとしていた。

 それを当時の上司が恐れたんだろう……と、白瀬は思っている。


 それ故に、今度は逆の方向からその知識と構築したパイプを利用できるレストラン事業部へと推薦した訳なのだが、それが篠原雅美という太陽を得て、後にレストラン・エルドラドの創業へと繋がった訳なのである。


 二人はテーブルに向かい合って座った。

 飯田もホットコーヒーを注文する。


 このお店は、挽きたての豆を今どき珍しいサイフォンで淹れてくれるだけでなく、カップにも凝っており、ヘレンドやリモージュという骨董品のカップで出してくれるのだ。



「お前の方はどうなのよ? その後は順調なのか?」



 白瀬が近況を聞く。



「まあ、いつも通りといいますか……何と言いますか」



 飯田は頭を掻いた。



「行政府からしたら、もうちょっと補助金を出すことはできるっていうんですけどね?」



 飯田がそう切り出すと、白瀬もどういう話かすぐにわかったようだった。



「でもそしたら口も出す、だろ?」



 眉をひそめて飲んでいるコーヒーを置くとそう返す白瀬。



「そうなんですよ。でもそれだと僕が篠原さんに顔向けできなくなっちゃう。だから──」


「スポンサーか?」


「そうなんです。幸い篠原さんは知名度抜群、そして好感度も最高レベルですからね!」


「なるほどな」



 少し前に連絡をもらった時から、最近エルドラドの資金繰りが苦しいという話は聞いていた。


 今年は農作物の収穫が良くなかったらしい。

 特に気候変動に敏感な有機農作物は影響が深刻で、一時的にかなり仕入れが高騰したとのことだ。


 そこにつけ込んだ行政府の奴等が、補助金の増額をチラつかせてエルドラドの経営に口を出そうと……そういうことなんだろう。

 支配欲の権化のような連中だからな。


 外食業界は、常に情勢の変動が激しい業界だ……飯田もエルドラドという店の方向性を、開店時からブレないよう保つために苦心しているということだろう。

 短いやり取りの中、そう白瀬は納得していた。



「そう言えば降りたんですってね。例の認可」



 白瀬の方も、パブリックコミューンの認可が降りたことを、飯田には既にメールで伝えていた。



「それなんだけどな。色々難癖つけてこっちを振り回した挙げ句に、やっぱり最後に条件つけてきやがったんだ、あいつら」


「やっぱりそういう話になりましたか」



 飯田も訳知り顔である。



「以前から白瀬さんその辺は警戒してらっしゃいましたもんね」


「まあ、何かして来るだろうとは思ってたけどさ」


「で、なんて言ってきたんですか?」



 神妙な顔で聞いてくる飯田。



「8月1日から一ヶ月間に限定して不特定多数との接触を認める……だってさ。そんなパブリックコミューンがあるかっての!」



 現場では表に出さなかったが、白瀬は内心怒り心頭だったようだ。


 確かにレイバノイドが一般化したこの社会では『パブリックコミューン』つまりアンドロイドを研究所の敷地外で稼働させるための認可は、それまでのテスト結果を提出すれば簡単に降りる、形式的なものになっていたはずだった。


 それが今回は、事前にパブリックコミューンの対象を、研究所内の開発者まで含めるよう圧力を掛けてきた上に、最後になって但し書きまで加えるという追い打ちをかけてきた。

 そういうことなのである。



「明らかに嫌がらせですよね、それ」



 飯田もため息をついた。



「まあ表向きはさ、人間に触れさせた場合の双方への影響を読みきれないって大義名分はあるけどね。そんなのお題目に過ぎないのよ。もう既に人間はアンドロイドの介助無しでは生きていけないようになりつつある。手遅れになってからでは遅いんだけどな……」



 まだ一般には秘匿されている政府調査のデータによって、人間の生殖能力の低下により今後もこれ以上の人口増加が見込めそうにないことは、そのデータを閲覧できる一部階層の人々の間では周知の事実になりつつある。


 だが……。



「でもそれ……まだ表向きには言えないんですよね?」



 白瀬は知っているし、白瀬から聞いた飯田は知っているが、エリアの行政担当辺りは知らされていない……まだそういう段階ということだろう。



「まあな。でもどっちにしても結果は変わらないよ。アイツらはさ。単に現状を動かしたくないだけなんだ。このままずーっとルーチンワークでいって欲しいのよ。そういうメンタリティが今の時代には一番問題なのにさぁ……」


「まあ、お役所仕事ってのは昔からそういう人種が務めてるみたいですからね」



 白瀬も愚痴ってもしょうがないことはわかっているのだが、こう言ったどうしようもない類の愚痴を言える間柄の人物は、今ではもう飯田くらいしかいないのである。



「あーそうそう。要件を急がないとな」



 我に返った白瀬が話を進めた。



「それで8月1日……つっても、もう明日なんだけどな。できれば明日からエルをお前のお店で働かせてやって欲しいんだ。急なお願いになってしまって本当にすまん!」



 すまなそうに机に頭をつける。

 飯田はそれに対しては全く動じていないようだった。



「そんなに恐縮しないで下さい。大丈夫ですよ。もう3ヶ月くらい前から、そういうことになるかもしれないって白瀬さんが教えてくれていたじゃないですか。だから既に篠原さんだけじゃなく、高野君にも話は通してあるんです。まあ、大丈夫ですよ」



 飯田はそう言うと、すぐに懐からスマホを出して電話をかけ始めた。



「ああ、高野君? 飯田だけど。うん。うん……それでね……」



 しばらく話してから電話を切る。



「今晩、高野君と篠原さんに会えるよう手配しときました。場所は──こことは別のエルドラドに近いカフェでいいですか?」



 普通なら時間的に言っても、食事を一緒にしたり、飲みながらというのがセオリーなのだろうが、そこに篠原女史を呼ぶとなるとそうもいかない。


 もう有名過ぎるほどの彼女の特殊な体質を考えると、ある程度飲み食いできるところとなると皇ぐらいだろうし、あそこに当日になってから予約を入れることは──ほぼ不可能なのだ。


 その辺は白瀬も心得ていた。



「わかった。そこに8時だな?」



 そう確認し合うと二人は取り敢えず別れることになった。

 白瀬はともかくとして、飯田はこれからもまだ客先を3軒ほど回らなければいけないらしい。



「バタバタしててすみません。それじゃ!」



 最後に白瀬に向かってそう言うと、飯田はしきりに時間を気にしながらそそくさと喫茶店を出て、そのまま雑踏の中に消えていった。

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