29 話 エルの目覚め
起動シークエンスが終わりに近づき、開発課のメンバー達は中央のエルの周りに集まっていた。
エルの意識が既に覚醒状態にあるのはモニターを見れば一目瞭然である。
それは間もなく、エルが外殻との同一化を果たし、目を開けて動き始めることを意味しているのだ。
まもなくエルそのものとなる──ガイノイドの外殻が寝かされている寝台は、腰のあたりから上半身部分が既に60度近くに起こされており、閉じられた瞼がまるで孵化直前の卵のように脈動する。
更には、手の指も次第に感覚を確かめるように、雲を掴むような不規則な動きを見せていた。
やがて……。
足に力が入って踏ん張るように足首が動き始めると、それにつれて手が左右から身体の真ん中付近へと移動し、指を組んで祈るような形になった。
こうして──開発課のメンバー達に見守られなから、エルはゆっくりとその両目を開いたのだ。
キレイな青い色の瞳があらわになる。
その目は、よく見ると様々な細かい部品が緻密に集まった集合体だったが、全体としては人間の瞳のように見えた。
「あ……あの……」
たどたどしく口が動くと、さっきまでスピーカーから聞こえていたものと同じエルの声が出る。
その瞬間みんなの喜びが爆発した。
「エル~~! よくやってくれた。ありがとう~~!!」
エルの手にすがって泣いているのは隆二。
「エル……ようこそ。私達の世界へ」
ニッコリ笑ったのは恵だ。
「おめでとう! エル。ずっと待ってたんだからねっ!!」
そしてエルの首に抱きつく舞花。
最後に……。
「エル。よく頑張ったな。これからもよろしく頼むよ」
彼女に向かって一歩踏み出した白瀬がそう力強く言うと。
「はい。白瀬さん。皆さん! 本当にありがとうございます!」
エルが今度は、はっきりと言葉を発声して、しっかりとそれに答えた。
次第に外殻と連動する感覚を掴んできているのか、二度目はスムーズに言葉が発声されたようである。
ガイノイド『エル』は、こうしてこの世界での最初の一歩を示したのだ。
◆◇◆◇◆
その後の研究室では、早速エルの状態チェックが行われていた。
「どう? 外殻を動かす、というかそれを意識する感じには慣れてきた?」
恵がエルに尋ねる。
これまでのエルは外殻を持たない所謂AI──人工知能として存在していたので、身体感覚を意識したり、その情報をプロセスする必要はなかった。
つまり思考だけの存在だったわけだ。
しかしこれからは自分の身体感覚や感情なども演算する……つまりそれらも意識していかないといけないのである。
それがこれまでと比べてどれくらいの負担を彼女の頭脳に強いることになるのかはまだ未知数だった。
「そうですね……。各部ジョイントとの連動や、動く時の感覚にはだいぶ慣れてきました。もうすぐそれぞれの簡単な動作については細かい調整を意識しないで、自然にできるようになると思います」
エルがそう答える。
そうなのだ。
人間がそうであるように、ガイノイドであっても同じ状況下で繰り返し行うような個々のイベントについては、ディープラーニングに関しては背後で継続しながらも、動作をサブルーチン化していくことで自動化していく。
つまりは『習慣化』のプロセスが働くようになっている。
そうやって、学習したもののうち頻出するイベント群を順次テンプレ化していくことにより、思考プロセスの効率化を図っていかなければ、複雑な仕事を同時にこなせるようにはならないからである。
その為の準備を、表に出る前に済ませないといけないのだが──。
そこで白瀬が慎重な様子でエルに語りかける。
「すまないなエル。スケジュールの関係で外殻を順応させるための準備プロセスには、実質明日一日の時間しか取れそうにないんだ。いけそうか?」
それに対して、すぐに気丈に答えるエル。
「はい。大丈夫だと思います。基本的な動作プロセスの構築や、一般常識などの学習は身体を頂く前にもできましたから。明日一日で身体との一体感や、感情の感覚化などに慣れることができれば、きっと問題ありません!」
感情の感覚化とは、ガイノイドが外殻を持った時に身体的感覚と同時に与えられる感情エネルギーのフィードバックのことである。
エルの頭部のエモーショナルフォース制御エリアにおいて形成された、人間の感情エネルギーに似た力場は、頭脳の各機能に対して無意識でありながら一貫性を持つ形で干渉を行うわけだが、それを感覚的に意識はできるよう触覚や痛覚を始めとする身体的感覚に大まかにフィードバックされるのだ。
それがエルの内面において「心が痛い」とか「あたたかい」もしくは「気持ちがいい」などと言ったアナログ的な感覚に置き換えられ、それが間接的に自分の感情の自覚という形で意識されることになる。
それがガイノイドに、プログラムされた感情パラメータを演じるこれまでのアンドロイドとは違う、より人間に近い形の感情との接点を作り出すのである。
「エモーショナルフォースの感覚化の具合はどんな感じ?」
舞花がエルに尋ねる。
「まだ感覚的にはフワフワしていますね。でも悪い感じではないです。これは慣れの問題なんだと思います」
と、返すエル。
「まだもっと強い感情的刺激が来てみないと、フィードバックのデフォルト値が今のエルにとって適正なレンジかどうかはわからないけど……」
そういう恵。
「痛かったり苦しかったりしたら調整するからな。エル」
隆二も心配そうにそう付け加えた。
この“エモーショナルレンジ”と呼ばれる感情のフィードバックのデフォルト値は、より敏感に設定すればするほど微小な感情を感知できるようにはなるものの、それは肉体的苦痛を含むエルへの負担を増大させてしまうことにもなる。
隆二はそこを憂慮しているのだ。
「でも、隆二さん……」
しかしその心配に対して、エルはその隆二の目を見つめると、その表情が真剣なものに変わった。
「私としては、あまり安易にエモーショナルレンジを下げてもらうような調整はしたくないんです。プロトタイプの私がここで頑張らないと──この後の未来のガイノイド達のエモーショナルレンジが、その分狭くなってしまうことになるわけですし……」
確かに、エモーショナルレンジ、つまり感情エネルギーのボリュームをより高く保ちながら、その上で正常な動作や判断力を保持することができれば、より高精度の稼働データが得られることに加え、より敏感に感情エネルギーをキャッチすることもできる。
つまりエルの感性はその分鋭くなるというわけだ。
しかしそれは同時に感情の均衡を保つことが難しくなることも意味している。
より大きなバイアスを受けながら、自分自身の思考や判断を集中して保つためには……暴れ馬のような感情エネルギーを、上手く乗りこなしていくようなデリケートな意識活動を繰り返し行う必要が出てくるのである。
「エルは頑張り屋さんだから──」
恵はエルの栗色の髪を優しく撫でながら語りかける。
「でも、無理はしないでね……?」
そして、そう付け加えた。
このエルの性格は、プログラムされたパーソナリティとして、初めから与えられたものではない。
当初プログラムされたのは、基本的な初期パラメータと事象の整合を取っていくためのいくつかの法則性だけである。
そこから、AIとして稼働を始めた時点からの周りからの働きかけによって、これまで少しずつ様々な影響を受け続けた結果──それが後天的な彼女の性格的な偏り、つまりパーソナリティーを作り出したのだ。
それ故に、実際に彼女がどんな性格の存在に育っていくのかは、スタッフの誰も事前に予測することはできなかった。
その辺は「育っててみたらこうなった」としか言いようがない。
恐らくAIにおける最初期から、周りにいるスタッフのみんなと触れ合っていくうちに、それぞれの性格の断片を少しずつ受け継いで行ったものと考えられるのだ。
幼少期における『性格の受け継ぎ』である。
次に舞花が、次第にテクニカルな部分について質問していく──。
「身体の各部分についてはどう?」
「そうですね、膝のジョイントが……」
そこからは、だんだん話は細かい部分を詰める様相になっていった。
それはF1レーサーがピットでセッティングを煮詰めるようなものだ。
ドライバーであるエルの感性や要望に合わせて、可動域の細かい調整を進めていくのである。
明日一日を挟んで明後日の8月1日からは、もう一般のお店での臨床テストが始まる予定になっている。
その明日一日を、エルが少しでも実用的なリハビリテーションに使えるよう、その日は夜遅くまでエルとのブリーフィングとそれに伴う再調整作業が続くことになった。




