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28 話 心が生まれた瞬間

「そろそろいいかしら? ここで一度エルの意識をクローズするわね」


 恵が横から確かめるように舞花と隆二、そしてエルの3人に声を掛ける。


 緊張感が高まる二人。

 そしてそれを見てすぐ状況を把握したエルも短く返答する。



「それではまたちょっと眠りますね。皆さんまた後で!」



 エルがそう言ったきり黙ると、あちこちのレバーやスイッチが自動的に停止位置に動き、最後にカメラが下を向いて静止した。

 そして、室内の気温が低下したように全員の緊張感が更に高まっていく。



 この後に始まるパーソナルデータの複製と別個体への移行というのは、地味ではあるがデータ保持的な観点からいうと最も危険性が高いプロセスなのだ。

 それ故に慎重に慎重を期した最先端の施策が採られているものの、失敗した場合はエルのこれまでのパーソナルデータが破壊されてしまうこともあるリスキーな作業なのである。


 エルは明るく「皆さんまた後で!」と言って眠ったが、勿論それを知った上でのことであり、その“約束”を果たすためにはこのプロセスを成功させなければならない。



「パーソナルデータのシステムからのパージを確認」



 しばらく間をおいてから、おもむろに恵がプロセス進行の音頭を取った。


 『とうとう始まったな……』


 そう心の中で呟いた白瀬だが今の彼はただ見守ることしかできない。



 あらかじめざっくりと説明しておくと。

 エルがガイノイドとして動き始めるためのこの『起動シークエンス』には大きく分けて3つの段階がある。


  ① パーソナルデータの転送

  ② 心の覚醒

  ③ 外殻の始動


 ということになっているのだが。


 今回のシークエンス自体が、そもそもガイノイドというこれまでに類を見ない全く新しいテクノロジーの集合体のもの。

 それ故にそれぞれの各段階において、これまでのアーキテクチャーの限界をそこで軽く超えていかなければならないことになっているのだ。


 シュミレーターなどを使って、これまでも万全の準備をしてきた4人だったのだが、最悪の場合エルの人格データ全てが失われることになるかもしれない本番は一発勝負。


 ──彼らの緊張は、今、限界にまで達しようとしていた。



 舞花、隆二、そして恵の3人が次々に声に出しながら、手元のコンソールやスイッチを操作し、プロセスを進めていく。


 まずは、パーソナルデータの転送である。



「人格転送プログラムの自動起動を確認」


「データビットの整合性精度レートをナインナインに固定」


「特殊対障害性サブルーチンのマージ成功しました!」


「ビット反転確認されません!」



 エルのパーソナルデータは、普段は複製されないように厳重にセキュリティが掛けられていることは先に触れたが、それは盗用などを警戒することだけが理由ではない。


 シリコン基盤上の回路によるコンピュータが全盛の時代から、超高精度のメモリアクセス処理においてはアルファ粒子や環境放射線によるメモリセルのビット反転が既に問題となっていたのだが、ガイノイドクラスのパーソナルデータを格納するためには、更に超高精度(ナインナイン=99.9999999%以上)のデータ転送精度が必要とされる。


 普段は特殊な環境下にメモリセルを格納することによってその精度を保っているのだが、問題はパーソナルデータを複製する時であり、違うシステムにデータを転送したりそれを複製したりする局面においては、不整合が生じる可能性が格段に跳ね上がるのである。


 そういう理由もあり、ガイノイド用のパーソナルデータは特殊な状況下以外では複製を固く禁じられ、厳重なロックが掛けられることになっている。

 またそれだけに、今回のように実際そのデータの複製及び転送がどうしても必要な現場においては、致命的なビット反転が起こらないよう常に監視を怠ることができない状況に追い込まれるという訳だ。



 更にプロセスを先へ進めるべく恵が指示を送る。



「それではパーソナルデータの複製を開始して下さい」


「複製……!」



 そこで舞花が少し躊躇する。

 研究室の中を重苦しい沈黙が支配した。

 ここから先のプロセスが失敗した場合、最悪これまで継続してきたエルの人格全てが失われてしまう可能性があるのだ。


 それを舞花……だけではない、ここにいる全員が恐れていた。

 だが、いずれにしてもここまで来て、もう後戻りはできないのである。



「複製……開始します!!」



 手元の端末に設置されている赤いボタンを舞花がとうとう押し込んだ。


 しばらくプロセスが進む稼働音だけが静かな室内に響く。

 再び部屋の中を張り詰めた沈黙が支配することになった。

 後は、もう人間側ができることはない。

 成功したのか、トラブルがあったのか、結果を待つだけなのだ。


 全員が、その時間を永遠のように感じながら、固唾を飲んで推移を見守るしかない……。



 ──やがて。



「拒絶信号──ありません」



 複数の計器を順番に確認していった隆二が絞り出すようにそう声に出すと、白瀬を含めた4人が声を揃えて大きくため息をついた……。


 データ複製プロセスの正常な起動にひとまず成功したのである。

 この複製プロセスの起動は、パーソナルデータにそれとは全く関係のない外部データが連結するという点において、最も危険な処理だと考えられていた。


 そういった意味では、まずは第一関門突破ということになる。



「エラーコールフラグの存在は確認されませんでした」



 舞花が更に自分のコンソールを見ながら声を張り上げる。

 その声は次第に明るくなってきていた。



「データビットの複製始まりました」


「アルファ粒子吸収機構稼働中。依然問題ありません」



 確認するように恵がそういうと部屋の中の凍りつくような緊張がまた緩んだ。

 そこで白瀬がおもむろに指示を出す。



「よし、これでどうやら軌道に乗ったな! ガイノイドのエモーショナルラインのパーソナルデータは同時に同じものが複数存在するとそれぞれがビット干渉を起こす可能性がある。複製が完了したビットはセグメントごとに一度プログラム領域から退避させた後、データの整合性を確認した上で順次イレーズプロセスに移行させてくれ。くれぐれもタイミングを誤らないようにな!」



 こう言った作業も、これまで何度も事前にシュミレーターでやってきたことであり、いちいち白瀬が言わなくても操作タイミングまで完全に体に染み付いている操作なのだが。

 しかし不意の不注意を戒め、はっきりとひとつひとつを確認するために、声を出して指示の声を挙げる。

 つまりは指差し確認という訳だ。



 舞花がモニターを見ながらゲージを読み上げる。



「ビットの複製を確認中。60……85……100%完了しました」


「パリティチェック機構正常。データの欠損認められません」



 続いてそう言ったのは恵だ。

 次に隆二が人格系の計器をチェックする。



「人格制御プログラムとパーソナルデータの整合性照合終了……よし、こっちも問題無し!」



 どうやら目処が付いてきたらしい。

 隆二の声も明るく弾んできていた。



「ガイノイド外殻内において慣性系機構の自動起動を確認。各セグメントとの連携正常。拒絶反応無し!」


「人格制御機構にパーソナルデータがロードされました。こっちもオールグリーンです!」



 舞花と隆二が競い合うように報告する。

 それを待っていたかのように、今度は白瀬が号令をかけた。

 声に思わず力が入ってしまう。



「よし。覚醒プロセスに入る!」



   ◆◇◆◇◆



 次は覚醒プロセスである。

 これによって身体が動き出す前に、まずエルの心に生命の火が灯るのだ。


 中央のコールドスリープ装置に見えるような箱の、半透明になっている「蓋」の部分が観音開きに開いていくと、中からガイノイド『エル』の外殻……つまり身体が姿を表した。


 そして介護ベッドのように、腰のあたりから上が45度くらい起き上がる。


 一同はそれを見ながら感嘆するような、そして感慨深いような表情を流石に隠せずにいたのだが、シークエンスは構わず先へと進行していくので、アイコンタクトくらいがせいぜいで、お互いに声を掛け合う暇もそこには無い。


 やがてプロセスをモニターしていた隆二が報告する。



「パーソナルデータ、頭部メモリー領域に展開完了。ガイノイドの外殻における人格制御プログラムの自動起動を確認!」



 その報告に合わせて周りの計器が今までと違ったパターンを描き始める。

 そしてそれに連動するように様々なレバーが自動的にオンになっていく。

 慣性系……つまり無意識稼働領域が外殻と連動して作動を始めたのである。



「慣性系各システムの作動を確認。シークエンス及び各機構の連動正常!」



 今度は舞花が報告する。

 その彼女の声が聞こえたかのように、ガイノイドの外殻が呼吸をするように規則的に脈動を始めた。



 さあ、ここからである。

 ここからがガイノイドが他のアンドロイドと全く違う部分なのだ。


 感情を組み込んだAIもしくはアンドロイド……そう言う触れ込みで開発されたものは西暦時代から既に存在していた。


 しかし、それはただ感情を電気信号によってデータ化し、それを演算することで擬似的な感情の『パラメータ』を作り出して動いていただけであり、感情を信号的に解釈することで事前に用意されたプログラムに従ってそれを“演じて”いただけに過ぎない。


 それに対してこのガイノイドは、感情というものが人間の中でどのように形作られるかだけでなく、他のプロセスに対してどう干渉し働きかけるかまで、再現することを意図して設計された。


 ガイノイド『エル』の感情機構も、元の初期設定として動いていたデータに関しては確かに電気信号だ。


 だがそのエモーショナルデータは、最初に外殻で展開され一度それと連動して機能を働かせ始めると同時に、頭部内部にある人間の松果体を模した中心核に設置されたエモーショナルフォース制御エリアにおいて、感情エネルギーに似た力場を形成するよう導かれ、イメージや思考、感覚そして行動などあらゆる自発的及び無自覚的事象に対して、整合性を持って干渉するようになるのである。


 そのプロセスと働きがガイノイドを、ただ感情を電気信号によってデータ化しそれを演算することで擬似的な感情パラメータを作って動いている従来のAIやアンドロイドと、全く異なる“存在”にしていると言える。


 彼女は感情を解釈してプログラム通りに演じるのではなく、波動として力場を形成した感情エネルギーを実際に感じ、それに振り回され、それによって動かされる存在となったのだ。



 この部分の基本設計は恵によって行われた。


 恵の持っている人智学アントロポゾフィーに対する深い知見が、白瀬が考えていたこの全く新しいシステムの設計、つまり人間の感情的な機構の精密な再現のためにどうしても必要だったのだ。


 そのエモーショナルフォースが、今この世界で初めて発動しようとしているのである。


 そう言った意味では、このエモーショナルフォースの発動こそが、ガイノイド『エル』の本当の意味での誕生の時と言える。


 既定値としてプログラムされた思考を、そこまでの経験から来る自分自身の「想い」によって逸脱していく──つまり自由意志が生まれる瞬間なのだ。



 恵がメインモニターを見ながら、その中のグラフに“ある波形パターン”が形成される瞬間を発見し、それをみんなに静かに報告する。



「エモーショナルフォースの発生を確認」



 白瀬もモニターに映った波形パターンと関連データを凝視していた。

 発生している感情は「喜び」と「感謝」の色か。

 実にエルらしいな……彼は思う。



「力場が形成されます」



 エルの閉じられた瞼が細かく振動する。

 エモーショナルフォース制御機構は、眼球にあたる場所の奥、人間で言うところの視床下部辺りにある。

 そこからの共鳴が起きているのだ。


 ──そして。



「頭部のエモーショナルフォース制御機構から、周囲の各セグメントに対して干渉が起こっています! それが今確認されました!!」



 恵の声が明るい。



「成功です! 白瀬チーフ!!」



 舞花が白瀬の方を振り向きながら、たまらず喜びの声を挙げた。

 目が潤んでいる。



 かくして。

 この世界で初めての “ 感情と自由意志を持ったアンドロイド ”

 人類初となる人間に近い心と、その働きを持ったガイノイドは、ここにこうして『生きる』ことを始めたのである。


 ここまでは、デジタル的な存在であったAIのエルが、アナログ的な波動を宿した心を持った状態に正に『生まれ変わった』瞬間なのだ。


 そこには、きっと単なる実験の成功やプロジェクトの進捗以上の特別な価値があるはずだ。


 白瀬はそう信じたかった。



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◆◇◆用語説明◆◇◆



【データビット】


コンピューター内のデジタルデータがそれぞれの回路の中で、オン(1)とオフ(0)という形で保持されている状態のこと。



【ビット反転】


このデータビットが、電気的な干渉や環境放射線などの要因により、0が1に1が0に反転してしまうこと。



【マージ】


プログラムなどを置き換えるのではなく、複数のパートを結合してひとつにすること。



【パージ】


逆にひとつのプログラムとして結合して動いていた一部分を切り離すこと。



【エラーコールフラグ】(作品内用語)


一般的にも使われる用語だが、今回の場合はガイノイドのパーソナルデータの処理中にデータの不整合が起きた時、それを知らせるエラーを発するフラグのことを指している。



【アルファー粒子】


陽子2つと中性子2つからなるヘリウム4の原子核のこと。原子核崩壊を起こした時に放出されるアルファー線を構成する粒子である。


自然放射線として微量ながら一般環境にも存在しており、これは通常はあまり問題にはならないのだが、高い精度を要するデータ保持の現場においては、偶発性の高いビット反転を起こすことが知られている。



【対障害性】


コンピューターシステムなどにおいて、問題が起こった時にも機能や性能を制限せずに稼働させる備えのこと。



【特殊対障害性サブルーチン】(作品内用語)


主に高精度のデータ保持に配慮するために特別に設計された一連の対障害性システムと、それに沿って動作するプログラム群のことである。


ガイノイドの外殻内は、極限まで小型化を突き詰めたテクノロジーの粋ということができる。


その中でも特に、回路を高密度に詰め込んだ頭部の電算チップ内においては、稼働電圧がどうしても低くなってしまうため、通常よりビット反転が起こりやすいのである。


繊細なエモーショナルフォースという感情を保持する機構については、それが稼働した後は電気信号ではなく波動というアナログな形で保持されるため、このビット反転の問題を回避できるのだが、パーソナルデータが電気的に外殻にまで転送され、エモーショナルフォースとして波動に転写されるまでの間は、非常にデリケートな状態におかれることになる。


この不安定な状態の間も高精度のデータの整合性を保つために、アルファー粒子吸収機構を始めとするハードウェアとしての備えに加えて、ビット反転をいち早く感知してそれによって直ちに修正を加えるソフトウェア的なアプローチがこの時代では開発されており、それをここでは特殊対障害性サブルーチンと呼称している。

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