27 話 動き出すガイノイド
ここは綾雅技術研究所の中にある研究棟の一角。
第三研究室である。
入ってみると一見、奥に向かって細長い部屋に見えるのだが、ここは本来そういう間取りの部屋ではない。
右側と左側に、電算端末や計器類が奥に向かって限界まで詰め込まれているため、入った時にそういう形に見えてしまうのだ。
そしてそこからチューブやコードなどが集まって行った先──。
その部屋の真ん中辺りには、コールドスリープ装置のようなものが据えられており、磨りガラスのようにくぐもったその中には、薄っすらと人体のような人影が見て取れた。
これこそが──今のこの世界で考えられる最先端のロボティクステクノロジーを用いて組み上げられた創造物。
『ガイノイド』の外殻なのだ。
外殻と言っても勿論見かけだけの張子の虎ではないのだが、地球暦年代のロボティクス界隈においては、人間で言うところの内面と外面という捉え方になぞらえる形で、AIなどのソフトウェア──つまりアンドロイドの”内面”に相対するものとして、その容れ物としての身体を『外殻』と呼んでいるのである。
白瀬は、他のメンバーが到着するのに先んじてこの部屋にやってくると、そのテクノロジーの粋とも言える外殻を周囲からつぶさに観察していた。
栗色の髪、整った顔、眠っていて目を瞑ってはいるが、その瞼の下には緻密な光学認識処理機構が埋め込まれている。
身体の素材は表面こそ特殊高分子シリコンで人間の肌触りに近いものに仕上がっているが、内部の各種機構に関してはマグネシウム系とベリリウム系の合金を積極的に活用することで、体全体の重量をかなり抑えるよう仕上がっていた。
「舞花が、女の子なんだから重たいのはダメ、可能な限りダイエットさせてあげなくちゃって、この辺はこだわってたもんな」
こうして外殻の細部をあちこち眺めているだけでも、そこかしこに色々な思い出が込められていて感慨深いのだ。
◆◇◆◇◆
その第三研究室に、今度は隆二と舞花が互いに相争うように駆け込んで来た。
「チーフおまたせでーす!」
「恵さんも、もうすぐ来ます!!」
二人共そう言いながらすぐに配置につき、それぞれの受け持ちの計器のチェックを始める。
「ガイノイド人格系認証コード入力完了。個体名エル。エルからの信号をキャッチしました。大丈夫です、いつも通り拒絶反応ありません。人格系システムオールグリーンです!」
隆二がそう声に出して確認する。
「音声出力をオンにします」
舞花が操作すると、スピーカーから声が出始めた。
「──い。はい。隆二さん大丈夫です。心配ありませんよ。あ……」
ウィーン。
計器上部に設置されたカメラが動く。
「白瀬さん!」
そして白瀬を見つけたエルの声が、部屋の中に嬉しそうに響いた。
「おう。元気だったか、エル?」
声をかける白瀬に笑うような明るい声で応えるエル。
「はい! 何の問題もありません。隆二さんって心配性ですよね」
このように、エルの自我は2年程前から既に確立しており、彼女の“意識”とすら呼んでもいい、個別知性活動の連続情報体はそれ以来連続して稼働している。
最近では光学的な現状認識にカメラ、声の発生にもオリジナル音源を使っての発声などの機構も拡張され、それらを介しての外部環境の認識と意志伝達が既に可能となっていた。
今日行われるのは、その彼女の自我──ここまで来るともうそれは意識と言ってもいいかもしれないもの──を、完成したガイノイドの外殻に移し替える作業なのである。
そこに恵が到着した。
「遅くなりました!」
はぁはぁ……と息を切らしながら部屋に入ってくる。
「恵さん! 無理をしないで下さいね?」
カメラが恵のほうを向くと、エルがすぐさま声をかける。
「大丈夫よ、エルちゃん。相変わらず優しいわね」
「…………」
無言になったエルはどうやら照れているらしい。
「よし、始めるぞ」
そこまでの空気に一区切りを付けるよう、そう白瀬が言うとみんなの顔が引き締まった。
「はい!」
自然に声が重なる。
「じゃ、恵……。まず手筈通り、エルのパーソナルセキュリティーコードを入力してくれ」
「はい。わかりました!」
緊張気味に応える恵。
パーソナルセキュリティーコードとは、エルのパーソナルデータを複製できない状態にしておくためのセキュリティを解除するための認証キーであり、プロジェクト責任者の恵しか知らないものなのだ。
それは恵の脳内にだけ記憶され、基本的には彼女が同意した場合にのみ、その使用が可能とされているものなのである。
これは、エルのパーソナルデータがコピーされたり盗用されたりすることを防ぐことも勿論なのだが、AIとしての彼女の知性と人間性の進化を一意に保つという、ある意味それよりも重要な目的のために設定されている。
それ故そのセキュリティー認証には、一見変哲の無いパスワード認証のように思える見かけに反して、この時代において最も堅牢だと考えられる施策が採られていた。
恵の操作するモニターに膨大な量のパスワードマスクつまり「*」印が表示されていく。
このように無作為に見える膨大な文字列の記憶……恵の特異な才能のひとつはその類まれなる記憶力にあるのだ。
これは恵だけではない。
この開発課のコアメンバーである3人は、誰にも真似のできない類まれな才能をそれぞれがひとつずつ持っているのである。
舞花は、多岐に渡るいくつもの持続的な概念の繋がりを、混乱すること無く同時に把握できるという類まれな数理的頭脳を持っている。
そして、隆二は言語学の天才的なエキスパートだ。
今回のプロジェクトでは既存のプログラム言語を超えるオリジナルの高水準言語を作り出し、それをアセンブリ言語や機械語と平行して、これまで以上に合理的に使いこなす必要があった。
それを成し遂げたのが隆二なのだ。
一方で。
数論幾何学の博士号を持っているだけでなく人智学にも造詣が深い恵は、彼女の類まれな記憶力という特異な才能以上に、このプロジェクトの根幹に関わる部分において、白瀬にとってはどうしても必要な人材だった。
そのため彼女の博士論文を読んだ白瀬は、大学院に在学している時点から恵とコンタクトを持ち、院を修了するまで待ってからすぐさま綾雅技研へと引き入れたのである。
そして、舞花と隆二については、彼らの才能に目をつけた白瀬がまだ大学の教養課程のうちにスカウトしており、大学に通わせながら研究所に出入りさせるという形で、このプロジェクトに参加させたという経緯もあって、研究所には彼らが大学を卒業した2年前に正式所属する形となっている。
いずれにせよ……と、3人を眺めながら白瀬は思う。
彼らのうち誰のパーソナリティ、そしてその才覚のどれがひとつ欠けてもエルは生まれなかっただろう……と。
つまり白瀬の目に狂いはなかったのである。
やがて恵の手が止まった。
すると途端にメインモニターに電源が入り、部屋の中心部分に置かれている装置の数々が稼働音を響かせ始める。
そしてモニターには「accept」が表示されていた。
「パーソナルセキュリティーインジェクション成功しました」
恵が少し疲れた声でそう報告する。
その声を聞いて舞花は息をついて安堵し、隆二は小さく拍手をしている。
いま恵は、2000文字の無作為文字列と乱数的に対応している1800の文字列について、そのそれぞれの組み合わせと200の抜けのパターンを記憶し、この短い時間にそれら全てに正答してみせたのだ。
これを全く何の記憶装置も、ましてやメモの一つすら補助に使わずできるからこそ、この役割は恵にしか不可能であり、どんなパスワード以上に強固なセキュリティ足りうるのである。
「ロックの解除確認」
舞花が確認したことを声に発し、そこからシークエンスが開始された。
「人格制御プログラムの整合性保持機構をロードします」
「システム、通常モードからセーフモードへ移行」
隆二と舞花がプロセスを手際良く進めていく。
そこで心配そうに隆二がエルに話しかける。
「大丈夫か? 問題ないか? エル……」
「大丈夫です。私の人格防護システムのプログラムは隆二さんが組んでくれたんですから!」
エルは信頼感を一杯に表現してそんな隆二に元気よく応えた。
「だ・か・ら~心配なのよね~! 隆二は~」
舞花がウインクする。
だが、このプロセス中にそうやって軽口を叩くことができる機会は、もうこれが最後になることだろう。
この後には、更にデリケートなプロセスが待っているのだから。
「そろそろいいかしら? ここで一度エルの意識をクローズするわね」
そう恵が声を掛けると再び二人の顔が引き締まる。
それは、いよいよ本格的にエルの覚醒プロセスが始まる合図でもあったのだ。
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SF的な側面を表に出したこの第2章は特にですが、作中にちょっと聞き慣れない、分かりにくい用語が出てきてしまう場合があります。そういう時はその話の最後にこのように用語集を付けようかと思っています。
今回はこちらです。
◆◇◆用語説明◆◇◆
【インジェクション】
数学において単射と呼ばれる「定義域と値域に属するそれぞれが一対一で対応しているが、すべての要素が対応している状態(全射)ではない」写像のこと。
【セキュリティインジェクション】
この話における『セキュリティインジェクション』とは、このインジェクションを乱数表的に活用することで、2000個ある乱数表的に対応したそれぞれの「文字列」と「抜け」(数値のない状態)を、制限時間内に全て正答することによってセキュリティが解除される仕組みになっている特殊なパスワードのことである。
【数論幾何学】
数学の中の一分野。
整数に関する様々な問題を幾何学的な手法を使って研究する学問のこと。
代数幾何、整数論、位相幾何、関数論など、この研究を行うにあたっては必要な前提となる知識が膨大なため、数学の中でも一番難解な学問であると考えられている。
【高水準言語】
高水準言語(=高級言語)は低水準言語(=低級言語)の対義語。
コンピューターの世界では、便宜上機械であるコンピューターの側に違いアプローチほど「低級」、扱う人間の側に近いアプローチほど高級と呼称される慣習がある。
それで言うと、この高水準言語とはプログラム言語の中でも英語など人間の言葉に近い形で理解できるようデザインされたプログラム言語ということになる。
内部構造が複雑かつ冗長になるため、高水準言語だけでは処理速度の低下は免れず、現在であってもシステムの根幹に近いところにあっては、アセンブリ言語や機械語などの「低級言語」を効率よく織り交ぜることによって効率化を図らなければらなない。
しかし多数のマンパワーが必要となる大規模なシステム構築が行われる場合においては、そのプログラミングの方向性に合致した高水準言語を組み入れることによって、エンジニア間のコミュニケーションを円滑にする必要性にも迫られる。
作品中──今回のガイノイドプロジェクトの場合においては。
特殊な用途であることで、既存の高水準言語では最適化することが難しかったために、隆二が今回のプロジェクトに合致する特性を持つ高水準言語から完全に新しくデザインする必要性が生じたわけである。




