24 話 運命の日
月曜のお店が終わった後。
帰りに一緒になったエルに聞いてみることにする。
「エルはその白瀬さんって人には会ったことある?」
エルは白瀬の名前を聞くなりニッコリすると──。
「もちろんありますよ。私のお父さんのような人ですから!」
そう嬉しそうに答えてくれた。
「どんな人──なのかな?」
興味本位に僕がそう聞くと意外な返事が返ってきた。
「お散歩好きで、とっても面白い人ですよー」
「そ、そうなんだ」
お散歩好き……なんかイメージが違うな。
眼光鋭い一本気な研究者という僕の中のイメージがガラガラと崩れていく。
アウトドア派……?
そう言えばエルはお店でもすっかり明るくなっていた。
今日も僕の仕込みの手伝いをしてくれながら、篠原さんと色々楽しそうに話をしていたし……。
そうして、今日もファクトリーエリア駅で降りると、また少し話しを続けることにした。
「今日から篠原さんにお料理の基礎を教えて頂けることになったんです!」
エルは嬉しそうだ。
「料理の基礎?」
「具体的には、用途や具材によっての最適な食材の切り方とか、様々なケースバイケースにおける味付けの意図とか。色々です!」
あーいやー。
それって超初心者の僕に言わせると、全然基礎じゃないんですがー。
「それに、これからも少しずつ私に料理を教えて下さるって、そう言って下さったんです」
篠原さん、エルには料理の才能があるって言ってたもんな。
うん。
今はとにかくエルが楽しそうなのが何よりなのだ。
「あ、あの……」
そこでエルが急に口ごもった。
「どうかしたの? エル」
「……」
俯いたエルの口が微かに動いていた。
でも声が小さくて僕には聞こえない。
「今、何か言った?」
もう一度僕がそう尋ねるとエルは──。
「い、いえ……! 何でもない、何でもないんです!」
我に返ったようにそう言うと。
必死に頭を振ってそれを否定した。
「そうなの?」
一瞬だけど、何だか思い詰めた表情だった気がしたから、少し心配だったんだけど……。
「大丈夫です! 私、明日からもお料理の勉強頑張りますね!」
そう言われてしまうと、これ以上聞くのも悪い気がする。
「うん。頑張って」
「はい!」
…………。
しばらくこうしてエルと色々話した後──
「じゃ、エル……」
僕がそう言うと、彼女はすぐ意図を察したらしかった。
「そうですね……翔哉さん」
これ以上遅くなったら彼女の帰りを待っている開発スタッフの人達が心配するだろう。
少し名残惜しくはあったんだけど……。
僕は次に来た電車に乗るとドア越しにエルに手を振る。
彼女はそんな僕をまたとびきりの笑顔でいつまでも見送ってくれた。
◆◇◆◇◆
次の日。
8月16日の火曜日はうっすらと雪が積もっていた。
夜のうちに降ったらしい。
起こしてくれたリリスが言うにはこの冬一番の寒さだそうだ。
しっかり着込んで家を出る。
かなり路面が凍っているらしく、危うく滑りそうになる。
電車が止まるほどではなかったし、雪はもうチラホラしているだけで今後は大したことはなさそうだったんだけど……。
なんて思っていると、エルが電車に乗り込んできた。
「おはようございます。翔哉さん……!」
そう明るい声で言ってくれたエルだったが、どうやら途中で転んだらしく上着が汚れている。
「転んだの?」
そう聞くと恥ずかしそうに目を伏せた。
「私……重心が高いので、雪の日は苦手みたいなんです……」
銀座街区に着いてからも、エルがヨロヨロと危なそうなので、放ってはおけず手を貸してあげることにする。
ふと彼女の手を取りながら……肌触りは結構自然で温度も温かいんだけど──やっぱり身体の中は色々と格納されてて重たいのかな?
などと考えてしまう。
「キャッ!」
ズテーン……!
あ、また転んだ。
「ご、ごめんなさい! 翔哉さん……!!」
「大丈夫……ほら掴まって」
助け起こそうとするが。
「はい……あっ!」
足に力を入れたところでまた滑ったらしかった。
もんどり打って引っくり返ってしまうところをすんでのところで抱き止める。
「あ、ありがとうございます……」
エルの顔が赤い。
「ご、ごめん。これ以上雪で汚れちゃいけないと思って……」
そう言い訳をしながら、二人で立ち上がったのだが──。
どうにも気恥ずかしい。
それからはお互いに顔が見られなくなってしまった。
それだけに二人共繋いだ手には力がこもってしまう。
周りの目を考えると、確かに恥ずかしかったのだが「これはエルが転ばないために必要なことだから!」と心の中で言い訳をする。
そうだ。
こんなの堂々と歩いていれば問題ないのだ!
そう意気込んで足を大きく踏み出すと……。
ツルッ!
──ドターン!!
「あっ! 翔哉さん大丈夫ですかっ!?」
今度は僕の方が転んでしまった。
「ご、ごめんエル……!」
いかん。
入れ込みすぎた。
雪の日は腰を落とし気味にゆっくり慎重に──だった。
そんなこんなで、エルの手を引いてあげているのか、引いてもらっているのかわからなくなりながら……。
やっとのことで、僕達二人はエルドラドに到着した。
◆◇◆◇◆
電車が止まるほどの雪じゃないので、近くのオフィス街もなんとか動いているようで、エルドラドも開店休業状態ってほどにはならなかったみたいだ。
しかし流石にお客さんの出足は鈍い。
開店直後は言うまでもなく、ランチ時になっても今日はいつもほどの混雑はないようである。
「今日は朝には窓とかも凍っちゃってさ」
「あちこち氷だらけでしたよね」
……。
「いっそ電車が止まってくれれば仕事も休みになるのに」
「ですよねー」
……。
こんな感じで。
今日はお客さんと軽い無駄話をしながら、テーブルを回っていく余裕すら出てきた。
昨日一度、きついラッシュを経験したことで、余計に気楽さが出てきたのだ。
『こんな感じだったら今日は楽勝かも……』
ちょっとそんな思いさえ芽生え始めていた。
そうやって、少し仕事にも余裕が出てくると今度は自分の運んでいる料理が目に入ってくるようになってくる。
ずっと仕事でレジのお金を扱っていると、それが自分のものじゃないだけにどんな大金でも「もの」にしか見えなくなって、欲しいとも羨ましいとも思わなくなると聞いたことがある。
それと同じように、これまでの僕は運んでいる料理が「もの」にしか見えていなかった。
でも、こうして少し我に返って見てみると……これってとても普通のレストランじゃ食べられないような凄い料理なんじゃない?
出来上がったランチを運びながら今更ながら僕はそんなことを思っていた。
今日のランチの主菜はビーフシチューだ。
この日のランチのために、篠原さんは昨日の夕方から仕込みを始めて、圧力鍋で一度煮込んだ後に一晩寝かせて、更に朝からとろ火で今までずっと煮込み続けていたらしい。
当然そうすると、ほとんど具材は形がないほど溶けてしまうのだが、そのトロトロのルーに更にボイルした野菜とローストした牛肉を放り込むのだ。
焦げ目がつきながらも、程良く赤みが残っている最高級の牛肉の塊に、野菜や牛肉が柔らかく溶けて自然に粘り気を増したルーが絡みつき、シチュー皿によそわれる度に柔らかにトロける様は、はたと落ち着いて見てみると──。
うーん、これはやっぱりとんでもない料理のような気がしてくる!
やっぱり篠原さんはすごいよな。
僕はかなり普通じゃないお店で働かせてもらってたんだなあ。
今日は何だかしみじみとそう思ってしまった。
今度自分でお金払ってでも食べてみようかな?
そんなことを考えながら、お客さんへ料理を出して戻ろうとしていると──。
◆◇◆◇◆
ガッチャーン!!
突然、僕の後ろで大きな音が鳴った。
なんだ?
誰かグラスでも落として割ったのかな?
それにしては随分と大きな音だったけど……。
そう思いながら僕は振り向こうとした。
すると……。
「翔哉君危ない!!」
突然横から誰かに突き飛ばされてしまった。
ドターン!!
僕はそのまま横にすっ飛んで椅子ごと床に転がってしまう。
い、痛い……。
今僕を突き飛ばしたのは清水さん?
「ヒドイじゃないですか、しみ……」
そう言おうとした僕の声を──。
「うおあぁああぁ~~っ!」
という獣めいた怒声が掻き消した。
その圧力の押されて、思わずそっちの方を見てしまう。
──逆光で影になった獣のようなシルエットがそこにはあった!
な、なんだこれ!?
「レゾナンス症状です! 皆さん気を付けて!!」
清水さんの声に「キャーーーッ!」と叫び声が一斉に挙がり、店内に渦巻いた恐怖は一気に大パニックへと駆け上がる。
そして僕の目には出口に殺到する人達と、何かを振り回しているらしい人影が同時に飛び込んで来た。
さっき逆光の中で見えた気がした獣のようなシルエットは、この恰幅のいい中年男性の姿だったのである。
何かのタガが外れてしまったようなその様子に圧倒されていると、店の奥の方から「おい、エルの奴呼んでこい!」そう叫ぶ柴崎さんの声が聞こえて、僕は耳を疑った。
この状況で『エルを呼ぶ』だって!
一体柴崎さんはどういうつもりなんだろう?
僕は意味がよくわからなくて、周りの喧騒の中で一瞬考え込みそうになったのだが、我に返ると僕自身も取り敢えず厨房方面に一旦後退する。
横を見ると、清水さんは倒れたテーブルをバリケードにして、暴れている人影の様子を伺っているようだ。
なるほど……それは名案かも!
僕もそれに倣って手近な椅子をバリケードに……そう思っていると後ろから手を掴まれた。
「ショーヤ君はもっと奥に行ってないと危ないって!!」
安原さんだった。
そう言えば前にもこんなことがあったような……あ、レゾナンス症状の患者は異世界から来た人間を優先的に襲う習性があったんだっけ?
何もかもが同時に起こって現場は大混乱。
僕の頭の中も大混乱だった。
いったいどうしたらいいのか全くわからない中、そうやって安原さんに手を掴まれて、奥へと引っ張られようとしているその僕の視界に──突然エルが飛び込んでくる。
その途端、血が逆流しそうになって思わず叫んでしまった。
「エル! こっちに来ちゃ駄目だ! 危ないからもっと遠くへ!!」
そのあまりの大声に、横にいた安原さんは勿論のこと僕自身までびっくりしてしまう。
しかし、その僕を制したのは意外にも清水さんだった。
「いいんだ! 翔哉君!!」
なんだって?!
気が動転しそうになる僕の後ろの方から安原さんがこう付け加える。
「いいのよ、これで。“マニュアル通り”なんだから!」
マニュアル通り……だって!?
「何のマニュアルですか!!」
僕は思わず安原さんを振り払おうと必死で抵抗する。
彼女はその僕の剣幕に戸惑いながらも負けじと叫び返してきた。
「レゾナンス患者対応マニュアルよ。お店で事件が起きたときにはレイバノイドを盾にするようにって。そういう規定になってるのよ!」
そんな……馬鹿な!!!
驚きと怒りで頭が沸騰しそうになる僕を背を向けて──。
エルが僕達を庇うようにゆっくりと両手を広げ、さも当然のように目の前に立ちふさがった。
──それはおかしい。
──エルは違うだろ?
彼女はレイバノイドじゃない……ガイノイドだってあんなに……!
僕はエルを助けたい一心で頭を巡らせる。
そうだ!
「奥に居るじゃないですか、エルが行かなくても“普通”のレイバノイドが!!」
時々洗い物の手が足りない時に出してくるレイバノイド……あれなら!
僕は必死だった。
しかし清水さんが無情にもそれを打ち消す。
「もう遅い!!」
エルの向こう側に、刃物のようなものを持って対峙していた男が、もうすぐそこまで迫って来ていた。
歳は40歳ちょっとくらいか……。
小太りで体格が良いばかりではなく、毛が逆立って獣のような唸り声まであげていた。
人間のようで……これはもう人間じゃない?
これがレゾナンス症状!?
そして──次の瞬間。
その男は、僕達の目の前で背中を向けて立っているエルへと、一際大きく叫び声をあげながら襲いかかってきたのだ!!
“もう遅い!”
さっきの清水さんの叫びが頭の中にこだまする。
もう本当に遅い──のか……?
どうしてだ。
どうしてこんなことになっちゃうんだよ──エル!!
君は街のみんなから白い目で見られながら頑張っていたのに。
頑張っても失敗だらけで苦しんでいた日々からやっと開放されたのに。
今週も頑張ります!って笑顔で言ってたのに。
料理をこれからも教えてもらえるって無邪気に喜んでたのに……!
君には──ただアンドロイドだってだけで、そんな小さな喜びさえ許されないっていうのか!!
なぜだ?
エルには人と同じ心があるのに──。
それが電気信号だからか?
それが作りものだからか!?
そんなのがなんだっていうんだ……。
彼女はもう「生きてここにいる」じゃないか!!
そしてその時。
僕の後ろから声が聞こえたんだ。
きっとそれは実際にはとても小さな声だったはず。
なのに、それが僕にはこれ以上ないくらいクリアに聞こえてしまって。
そしてその瞬間に。
僕は──我を忘れた。
“イ・イ・キ・ミ・ヨ”
僕は突然身を躍らせてエルの前に飛び出した。
自分でもどうしてだかわからない。
ただ許せなかったんだ。
この情景が。
この現実が。
この──世界が!
そして、もしこのまま全てを見過ごしてしまったら。
ここでもしこのまま僕が何もしなかったら。
僕は何より自分自身を決して許せない。
そんな気がしたから──。
グシャッ!
目の前が真っ赤になった気がした。
お腹が猛烈に熱かった。
刃物で刺されたらしかった。
それはそうだよね。
僕は彼女に向かって刃物を突き出す男の前に。
──立ちふさがったんだから。
「翔哉さん!!」
エルが泣いていた。
その彼女の顔を見ながら──。
あれ……この情景ってなんかどこかで一度見たような気が……?
──なんてことをぼーっと考えていた。
遠くでサイレンの音が聞こえている。
そんな僕の呑気な思考とは裏腹に、全身が脈打っているみたいに熱くて……めちゃくちゃ痛い!
それにいつまで経ってもこの夢は一向に醒めてくれなくて──。
だんだん意識が白濁し思考も混乱していく。
これは夢じゃない!?
僕は……どうなっちゃったんだ?
そうだエルは……!
エルは無事だったのか!?
……これは……いったい……!?
…………いったい。
………。
……。
───。
─────────。




