09 話 ナビゲーターAIリリス
起きた早々なのに何だか疲れた……。
空になったペットボトルを片付けながら、疲れた頭をほぐす要領で僕は頭を横に振った。
部屋の中にある時計を観ると午前11時を過ぎたところらしい。
起きたのは朝の8時くらいだったはずだから……かれこれ3時間はぶっ続けで現代史の記事を読み耽っていたらしい。
道理で疲れるわけだ。
部屋の中の冷蔵庫に、最初から緑茶のペットボトルが入っていたのは助かったけど、それもいよいよ尽きてしまったことだし、気晴らしに軽く買い物にでも出てみるかな。
そう思っていた僕なんだけど、その前にやっておかなくてはならないことがあったことに気がついた。
そう言えば、昨日スマホやら何やらと一緒に支給されていたアイテムがもう1つあったのだ。
これが一見普通の腕時計……にしか見えないような代物なのだが、色々優れものらしいのである。
“一人一人にパーソナライズされた異世界人用ナビゲーターシステム”
伊藤さんはそう言っていたな。
「家に到着して落ち着いたら、まずこれのセットアップを行って下さいね。色々と教えてもらえて生活が楽になりますから」
そう言われていたんだっけ?
すっかり忘れてた。
アイテム自体の形は一見腕時計とは言ったが、そこは実際腕時計でもあるようで、セットアップする前から既にデジタル時計が普通に表示されていた。
えっと。
その表示の下にあるセットアップボタンを押せばいいんだっけ?
ピコン。
そういった無個性の起動音が鳴った後、デジタル時計だった画面が消え「イニシャライズ」と表示される。
すると突然手元にあったスマホの電源が自動的オンになった。
どうやらこのスマホが外部モニターとして自動で連携するらしい。
そして、その後もあまり待たされること無くスマホの画面に今度は文字が表示された。
「あなたの情報を入力して下さい」
表示と同時に電子音のような女声が呼びかけてきた。
これに関しては大して目新しい感じでもなく、特に驚くこともなかったのだが、その後に続いて起こったことに僕は少し驚くことになる。
目の前にキーボードのような半透明の立体映像らしきものがブーンと浮かび上がったのだ。
これにはちょっとびっくり。
未来感が一気に増した感じがするな!
向こうが透けている感じだったし、いかにも立体映像って感じなのだが、何しろ質感が半端ない。
もうそこに”ある”感じがすごいのだ。
これ……触れられるのか?
そう思ってチョンチョンと触ってみると手触りがある。
そして押すと反応もするようだ。
これって立体映像のはずなのに、ちゃんと普通のキーボードと同じように機能する代物らしい。
すごい!
ちょっとワクワクしてきた。
そのキーボードを使って自分の情報を入力していく。
名前:谷山翔哉
性別:男
年齢:19
元の世界の年代:
元の世界の年代……ね。
選択肢は「2010年以降」「2000年以降」「2000年以前」「その他」となっている。
そんなに前の時代から来る人もいるのか……。
なんて思いながら一応僕は2019年から来たので「2010年以降」をタップする。
するとまた連動しているスマホ画面の表示が変わって……その後目の前のキーボードが消えた。
まるで魔法みたいだ。
そう感心していると、画面の端にある表示が「入力モード」から「対話モード」に切り替わったようである。
──今度は何が始まるのか。
そう思って興味深く観察していると、目の前に薄いピンク色の小さな光の玉が現れた。
それが僕の周りをふわふわ浮いている感じ。
これも立体映像なんだろうか?
その球体からさっきのデジタルな女声が聞こえてきた。
「私は異世界転移者用パーソナライズドナビゲーターAIのリリスです。これからどうぞよろしくお願いします」
そう自己紹介された。
ボカロを少しだけ人間っぽくしたみたいな声である。
声自体は可愛いと言ってもいいような声なんだけど、人間同様ってほど自然に喋っているわけではない。
そんな感じかな?
「よ……よろしく」
それでも突然話しかけられて、びっくりした僕は反射的にどもってしまった。
「バイタルデータ変動。脈拍の上昇と発汗を確認。私はAIです。そんなに緊張することはありません。リラックスして下さい」
「は……はい」
そんなことを言っても。
他人と話すのは僕にとっては緊張するものするものなんだよ。
こればかりは急にどうなるものでもない。
「それから──」
まだ何か言いたいらしい。
「えっと、何?」
「私は基本聞かれたことに対してしか、答えられないよう制限がかけられています。何か聞きたいことがあったら、どうぞ“リリス”と呼びかけて下さい」
え……AIだから色々横から勝手に教えてくれるんじゃないの?
ちょっと意外だった。
「呼びかけないと答えないんだ?」
「そうです」
それもなんだか不親切なような。
「制限って言ったよね? じゃあ、元々はそうじゃなかったの?」
こうやって意図的に聞けばいいんだよな?
「そうです。私達ナビゲーションAIシリーズは、地球暦3年頃から新しい社会インフラのナビゲーターとして一般の市民の間で大流行しました。ですが、現在は異世界から転移してきた人間だけに支給されるものとなり、一般市民が持つことは禁止されています」
禁止?
なんだか穏やかでない感じだな。
「一般の人は持てないって……それはなんでなの?」
更に聞いてみるが──。
それに対するリリスの返事は、今度はつれないものだった。
「その問題について私はお答えすることができません」
「え……そうなの?」
「私達ナビゲーションAIは、偏りのない一般的な情報をアナウンスするだけの存在でなければなりません。そのため話す相手の人生観や価値観に影響を与えるような情報は禁則事項とされているのです」
「これに対する答えが僕の人生観や価値観に影響を与えるっていうの?」
「そう判断されています」
なんだか大げさな気もするが……。
うーん、よくわからないが相手はプログラムだ。
ここで議論をしたとしても結局情報は出てこないだろう。
そう考えて僕が諦めると、それを察したようにリリスは謝ってきた。
「申し訳ありません。このようにデリケートな価値観を内包する事項については、担当の異世界コーディネーターか、あなたのコネクションによって得られた人的リソースから情報を開示してもらって下さい」
そう言うと、リリスは僕の腕時計として手首に装着されている端末に吸い込まれるように消えてしまった。
この魔法のように出たり入ったりするの……すごいな!
僕はすっかり感心してしまった。
これも立体映像……なのかな?
でもさっきのキーボードにはちゃんと触れたような気がするし。
いったいどうやって──?
これは今度リリスに自身に聞いてみることにしよう。
きっとこういう技術的なのは答えてくれると思うんだよね。
それに対してデリケートな情報については、異世界コーディネーターに聞いてくれとリリスは言っていた。
僕の担当の異世界コーディネーターは伊藤春佳さんってことになるのか。
伊藤さんとは、明後日にまた会う約束になっている。
リリスが教えてくれないようなことは、そういう機会に尋ねればいいということだろう。
ビジフォンの連絡先も一応教わっているから、急いでいる時は備え付けのビジフォンやスマートフォンですぐに連絡することもできるのだが……あんまり細々したことで迷惑をかけるわけにもいかないよね?
さてと。
飲み物も無くなっちゃったし、そろそろお腹も減ってきた。
僕はリリスが吸い込まれた腕時計をもう一度見て、もうすぐお昼になることを確認すると昼食を調達するために少し外へ出てみることにした。
◆◇◆◇◆
そうだった!
その前に、まずは服とお金だよな。
日用品については『職安』を出る時に色々支給されていたのだが。
それに加えて部屋の中を見てみると、様々な調度品の他に僕のサイズや年齢などが考慮された洋服なんかも、部屋に到着したときには既に何着かクローゼット内に畳んで置いてあった。
正に至れり尽くせりだ。
僕はこれまでも、そんなにおしゃれに気を使って服を選んだことなんてなかったので、この支給品で当面特に問題はないと思う。
むしろ無難という意味では、いきなり変な服を自分で買っちゃうくらいなら、こういう支給の服を来ていた方が良いくらいである。
それからお金。
伊藤さんにもらった小冊子にお金のことも書いてあったはず。
この世界で使われている通貨についても、買い物に出かける前に確認しておかなくちゃね。
パラパラと小冊子をめくる。
あったあった!
通貨の項は初めの方にあってすぐに見つかった。
それによると。
今はもう円という通貨は存在しないらしい。
世界中でARAという単一の通貨が使われているんだそうだ。
つまり財布に残っていた前の世界のお金は見事に無価値になっていたという訳である。
ちょっと悲しい。
それから、その共通通貨アリアの価値なのだが、円からは係数0.18を掛けたものとのことだ。
つまり100円が18アリアなんだそうで……うーん、これもまったく勝手がわからないなあ。
慣れるまで大変そうだ。
前の世界のお金は無価値になっちゃったけど、この世界ではベーシックインカムと言って、生活に必要な最小限のお金は支給されると伊藤さんが言っていた。
そして、それが自動的に入ってくるのが起きてすぐに眺めていた僕専用のカードというわけである。
それから転移者には、それ以外に最初に少し多めのお金が入金されているはずだとも言っていたっけ?
もらった僕専用のカードに入金されているバーチャルマネーの残高を確認してみることにする。
これは簡単で、カードの特定の部分に指紋をかざすとすぐに表示された。
10万アリア……だろうだ。
10万アリア?
えっと……。
やっぱり全然感覚がわからない。
18アリアが100円だから──ああ、面倒くさい!
僕はスマホの電卓を叩いた。
つまり……50万円ちょっとってこと?
何の担保もなく。
しかも借り入れですらないことを考えると──。
これって結構な額ではないだろうか。
そしてこの後も、金額はこれほどではないものの、来月になったらまた自動的にお金が支給されるとのこと。
それが毎月続くのだそうだ。
金額は確か3万アリアだっけ?
15万円……か。
それを考えると、まあ、当面の生活は大丈夫だろう。
家賃が無いことを考えると、切り詰めればこれからだって働かなくても生きてはいけるかもしれない。
そんなことを考えながら、簡単に支度をして心の準備も整える。
僕はあんまりこだわらずに、そこらに目に付いた服を適当にチョイスしてから、最後にダッフルコートなんかを羽織ってすぐに準備は完了した。
よし!
後は外に出るだけだ。
ちょっとワクワクしながら靴を履いてドアを開ける。
いよいよ、この世界の街を初体験である。