第六話 名前
「桜子の名前はね、お母さんがつけたのよ。お父さんは反対したんだけど。」
小さな桜子の短い髪を撫でるように梳きながら、母は言った。
「あんな実のならない花、縁起が悪いんじゃないかって言ってね。」
「えんぎ?」
「お母さんはね、咲く時間は短くても散る時までずっと綺麗な桜の花が好きなの。って言ったの。」
ふふっと柔らかく笑う。
「そしたら、すぐ散る花なんか尚更やめた方がいいんじゃないかって。」
母の温かい瞳を見ながら、首を傾げた。
「お父さんは反対したのに、桜にしたの?」
「そう。次に咲く花たちのために葉を広げる桜の名前がついた子は、次に生まれてくる弟や妹をちゃんと守れる子になってくれるような気がしたの。」
「おとうと?」
「そうよ。ちゃんと守れる子になってほしいから王子様のおうじ。」
ステキでしょう?と言った母の笑顔に、桜子はただ頷いた。
本当は『おうじ』なんて男の子みたいであまり好きではなかった。がさつで女の子らしいことなんか何も出来ない自分にはふさわしいかもしれないけれど。
だけど、母の困ったような悲しい顔を見たくなくて、笑ってみせた。
夢を見ていた。ずっと見ることがなかった母の夢。
どうしてこんなに早く死んでしまったのか責められているように思えてならない。
早くこっちに来いと急かされているようにも感じられた。
「ごめんね。母さん。もう少しだから……」
窓から覗くと公園でピンクに染まった桜の木が風になびいて花を散らしていた。
時間は、確実に過ぎている。
「おい。」
後ろから、頭を殴られた。
鋭く睨んで振り返ると、夢奏が腕を組んで立っていた。
「何よ。」
「メシ、食いにきた。」
桜子はしかめた顔を緩めて、笑った。
「よし。姉ちゃんが食わしちゃる!来い!」
部屋から居間へ行く廊下で夢奏はもともと無愛想な顔を更に不機嫌そうに歪めて
「お前、わかってるんだろうな?」
桜子の前に立ち、声を荒げて言った。
「何が?」
「家族に今更何かしたって無駄だからな。お前は死んでるんだからな。」
言いにくそうに声を小さくしていく夢奏の言葉に桜子は微笑んだ。
「ごめんね。」
「は?」
「そんなこと言いたくないのに言わせて。」
夢奏の頭を撫でようと手を伸ばす。避けようと首を竦める仕草をしたが、桜子は構わず頭に触れた。
「わがままも言ってるし、心配もかけてるでしょう?でも、嬉しいよ。あたしの事なんか気にしてくれるのって家族以外誰もいないと思ってたから。」
そこまで言葉が出て、涙を堪えている自分に気付いた。
無理矢理、笑顔を装う。夢奏が頭に置かれた手を自分の頬にすりよせて言った。
「死んだ人間は自分が成仏することだけ考えてればいいんだよ。余計な心配はするな。」
困ったような目でじっと見上げてくる夢奏を見て、桜子が笑った。
「夢奏の口から優しい言葉、初めて聞いた。そんなこと言えたのね。」
「……うるせ。」
子どもらしくない表情だが、夢奏もいつの間にか笑っていた。