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バス乗りの君に

作者: 蓮夜

 始めて君を見たのはいつのことだっただろう。5月か6月くらい……初夏だった記憶がある。



 私が職場に行くために家の最寄りからバスに乗ったときだった。いつもの左前の席に座り、運転席をふと見ると、運転士が紙の地図を広げて運転していた。その運転士が、君。

 私は驚いた。地図を広げて運転している運転士を見たことがなかったから。見るからに若いうぶな顔立ちから、新人運転士であろうことは容易に想像できた。


 あまりにも珍しい光景を見た私が興奮のあまりTwitterで「バスで地図を広げて運転してる運転士さんがいた!」と呟くと、当時ひょんなことから知り合ったばかりの別のバス運転士からリプをもらった。「その子、俺と同じ班に入った新人だよ!期待の有望株!」と。なるほどすこぶる評判の良い運転士が太鼓判を押すのなら、間違いないだろう。将来の君への期待値が上がった。


 次の日かそのさらに次の日かに、また同じ路線で君に出会った。もう地図は広げていなかったが、私の方もさすがに君を忘れてなどいない。そして、密かに新人運転士の君を応援するようになったのだ。


 以降、数ヶ月に1度ほど、君のバスに出会うようになった。乗る度に上達は感じるものの毎回どことなく慣れない様子で、しかし一生懸命に運転している様子が伝わる。これから技術が磨かれて良い運転士になるのだと確信できる運転だった。接客も同様に。

 じきに、私以外にも私の周囲で君のことを応援する人が現れた。君のことを「推しメン」と言っている人もいれば「あと2年後くらいにまた乗りたい」と言う人もいた。


 ある日、君とバス以外の場所で出会った。Twitterの中で。何の拍子に見つけたのかは忘れたが、君の始めたばかりのアカウントに出会い、そこで少し会話した。君は当然、私の顔など覚えていなかっただろう。私は君に、君のバスに乗ったことがあることと、共通の知り合いを通じて共通の楽器を始めたことだけを伝えた。 実はちょうどその頃、私と君は鼻笛という楽器を始めたのだ。私と仲の良いあの運転士、つまり君の上司にあたる人の鼻笛布教に引っ掛かって。ほぼ同時期に。

 ところが君のTwitterはあまり動くことなく、数ヶ月のうちにそのままアカウントごと消えた。


 その後も君のバスに乗った。一度か二度ほど。しかし声は掛けられなかった。仕事中の人にどのタイミングで声を掛けるべきか分からなかったからだ。顔を見せずほんの一時期だけやり取りした相手を覚えてもらえている確信もなかった。ただ、いつも他の運転士にするよりもはっきりと「ありがとうございます」とお礼を言い、バスを降りた。何となく君にも私の姿が印象づいただろうか。無論、Twitterで会話した人間とは結びつかなかっただろう。


 それからまたしばらく会わなかったある日、君の上司から聞いた。君が今の会社を辞め、別の場所でバスを走らせることになったと。走らせるバスは同じ。ただ、委託の立場で走らせていたものを直営で走らせるようになるとのこと。君にとって素晴らしいことだ。私も、今の場所から君がいなくなる寂しさはあるが、心から祝いたい。しかし、君に直接はお祝いの言葉も激励も贈りようがない。君は私の姿を知らないし、私は君が残りの時間どこでバスを走らせているかを知らないから。


 君の勤務の最終日。 寒くなる季節だがよく晴れて、陽の光がよく輝いている日だった。その日、君のバスが朝のうち、私の職場の最寄りのバス停を走っていると知った。私は職場に着いてから始業までの約20分間、ダメ元でそのバス停の近くに立った。転回場になっているバス停なので広く、立って待つには都合が良い。バスは発車時刻まで乗り場で扉を開けて待ち、時刻になると発車する。発車の間隔は5分程度で多くのバスがやってくるが、だからといって君に出会える確証は無い。出会えたところでどうすれば良いのかもわからない。考えた末にとりあえず、君に私であることを証明できそうな手段として、紐のついた鼻笛を取り出し、首から提げた。


 次に来るバスが、私が見ていられる最後のバス。時計と時刻表を見ながら私がそう計算した矢先、計算上見ていられる最後のバスが来た。そのバスの運転士は、明らかに君だった。この路線で最終日にバスを運転する君を見ることができた。それだけで私は半ば満足だ。君に気づいてもらえなくてもいいからこのバスを見送ろう。そう思い立っていると、君のバスの扉が開いた。

 数人のお客さんを一通り乗せ終わった君は、他に乗車する人が来ないかに気を配り周囲を見ている。私に気づくのも時間の問題だった。乗車するわけでもなく、ただチラチラと視線を送る私の姿は、君の目に奇妙に映ったことだろう。私は君の目が私を捉えたと分かったとき、さりげなく控えめに胸元の鼻笛を持ち上げ、そして君の方を見た。すると突然、君の顔が何かに気づいたようにハッとして、明るくなった。そしてすぐ、照れたような不器用な笑顔を私に投げかけた。こちらも笑顔で返す。これからも頑張って、という気持ちを込めて。


 10秒か20秒か。チラチラと笑顔を交わしたそれだけの時間がとても長く、希有で貴重なもののように感じた。


 間もなく発車時刻となり、君はバスの扉を閉めた。そして、笑顔で私に小さく会釈をしながら去っていった。先ほどの笑顔を残しつつも清々しく凛とした、未来への希望に満ちた笑顔だった。去っていくバスすらも、太陽に負けないほど輝いて見えた。君はこの先も大丈夫。自然と安心感と期待感とが生まれた。



 結局、私と君とは最後まで会話を交わすことは無かった。けれども、最後の最後に無言で通じ合ったような、会話も交わせたと錯覚するほどの不思議な心のつながりを感じた。君は一体どう感じただろう。ーー私と君とが再び出会える日が来るかどうかはわからない。しかし、笑顔を交わしたあの時間を思えば、またどこかで会えるような気もするのだ。


 成長した君に、またどこかで。


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