雨と無知
「口で呼吸しちゃいけません。」
雨は、嫌いじゃない。
十月も終りに差し掛かってきたこの季節、僕の住む町にはここ一週間ほど静かな秋雨が降り続いていた。たしかこんな、この時期の雨のことをすすき梅雨ともいうのだったか。
オフシーズン前に調子を整えておきたかったのか、つまらなそうに外を見る運動部の彼らをよそに、クラスの端で、母さんから読むように言われた手元の文庫本を捲る。
昔から、この季節が嫌いだった。
木の葉舞い散るその光景が僕を感傷的な気分にさせてしまうから、などと言うつもりはない。だって僕のこの気持ちは、そんな精神的なこととは全くの無縁なのだから。
息が、できなくなった。
始まりがいつだったかは覚えていない。二年生の頃か、ともすれば一年生の頃だったかもしれない。とりあえず僕はその日その時に、呼吸を奪われた。いや、この言いかたは少し大げさか。誤解の無いように言えば、呼吸の自由を奪われた。さながら何かが鼻に詰められたかのような不快感。しかし、プールの中のごとく全く呼吸ができない、というわけではない、というのがいやらしい点だった。言うなれば酸素が薄くなったような、そんな感覚。気を失うまではいかない、言わば無理をすればどうにかなるそのそれは、僕を授業から遠ざけるには至らなかった。とは言え、静かに座っているならばまだしも周囲に僕の異常を気取らせないようにしつつ「あめがふったらポンポロロン。あめがふったらピッチャンチャン。」という文章を息も絶え絶えに朗読するのは流石に骨が折れた。
そんな僕の苦労をあざ笑うかのようにそれは次の日も、そのまた次の日にも、四六時中所かまわず襲い掛かってきた。それが最も酷くなったのは、覚えている内で言えば九月の中旬頃だ。あの時は酷かった。地元で開かれたお月見の席で、危うく気絶しかけたほどである。
それ、なんて呼んではいるが、僕にはそれがなんなのか、皆目見当がついていなかった。言ってしまえば今でも、それがなにかはわからない。最初は息苦しくなるだけだったのに、喉が痛み始め、なぜか涙が零れ落ち、鼻から液体が流れ出し、頭の中心から鈍痛が走るようにまでなってしまった。
僕にとって救いと言えたのが、それが僕の眠っている間には襲い掛かってこない事と、秋の始まりから三ヶ月程が過ぎるとそれはスッキリと消えてなくなってしまうということだった。飽きが来たということだろうか。
息苦しさも、のどの痛みもその他諸々の症状全てが氷解した。これから冬だという時期に氷解というのは少しおかしな表現かも知れないが。
僕はこれが俗に言われる風邪というやつなのかもと思ったけれど、咳が出るようなことは無かったので、その仮説はすぐに自分で取り消した。
雨音に耳を傾けながら、午前中の授業を終える。
給食の時間だ。教室の喧騒を横目に、配膳係の前へ足と食器とを運ぶ。ポトフ風のスープ、ピーマンと肉の炒め物、プリン、ときて少し見慣れないメニューに目が留まる。なんだこれ。新メニューだろうか。
「どしたの?……、あぁ、これね、すすきパンっていうやつらしいよ。はい、お皿出して。」
配膳係の厚意で僕はそれの名前を知る。すすきパン。すすきといったら、お月見の時に見るあれか。あの小麦みたいな。見た目も似ているし、一応小麦の仲間ということになるのかな。これでパンを作ろうとは、面白いことを考える人もいるものだ。
一通りメニューを取り終え、席に着く。窓の外は相も変わらず雨模様だ。
いただきます、の掛け声とともにクラスの皆が一斉に給食を食べ始める。もう少し静かに食べられないかと憤るよりも先に、すすきパンの味をみたいという好奇心が勝る。普段はまず冷める前にとスープから飲むけれど、たまには普段と違うことをするのも良いだろう。
一口、塊から直接引き千切るようにして一口、二口とパンを齧る。砂糖で味付けされているのか、甘みが口の中に広がり、続いて――「うげえええええええええええええっっっっっ!!!」と、そんな声が聞こえた。それは声というよりも、嗚咽に近い何か。
食事中だというのに、と周囲を確認し、その声が誰のものなのかを――確認することはできなかった。あんな嗚咽を上げるほどだ。一目見ればすぐに誰が発したものなのかがわかるほどのことであると思ったのに、見回したクラスの誰しもが、そんな素振りすら見せていなかった。
どころか、クラスの大半は、僕のことを見ていた。
な、なん――
もう声すら出なかった。息苦しい。生き苦しい。これまでの不快を伴った呼吸とは全く一線を画したその事態に、声をあげることすらできなくなった。まさしくプールの中のごとく、全く呼吸ができない。息が詰まる。意識が遠のく。頭の奥の方からガンガンと頭痛がしてくる。口の中がいっきに酸っぱくなって、今食べたばかりの給食を教室の床にぶちまける。
騒ぎ出したクラスの皆をよそに、僕は意識を失った。
目を覚ました。
真っ白い天井は、どうやら学校のどこでもないようで、ベッドの右隣に座っていた母さんと、白衣を着た中年の男性、口元に付けられた吸入器の様なものから、ここが病院であると悟る。僕が目を覚ましたことに気付いた母さんが「私よ、わかる。」と声をかけてくるので、一度二度頷いてから、また呼吸がしづらいことに気付く。さっき――あれがさっきなのかはわからないが、さっきよりは軽いが。
すると、何かに気付いたのか、白衣の男が「口で呼吸しても良いんだよ。」と声をかけてくる。そのための装置なんだからね、と――口で呼吸?口で呼吸、と言ったのか?口で息を吐くのではなく、吐くだけではなく、息を吸えと言うのか?
だってそれは、駄目って言われた事なのに。
不安げに揺れる瞳が、右隣りの母さんを映し出す。その許諾の挙動から、僕は新しい呼吸の方法を知った。
口で息を吸い、口で息を吐いた。
「花粉症、ですね。」
あれから数時間が経ち、僕と母さんとは医者の前で、僕の病状についての話を聞いていた。
――花粉症?
花粉症って、なんだ?
「概ねイネ科の…この時期ならススキでしょうかね。どうやら今日のお昼の給食に含まれていたススキが原因のようです。」とカルテを見ながら言う医者に、僕は質問する。
「えと、あの、花粉症っていうのは…?」
僕の質問が変だったのか、医者は眉を顰めたが、僕に花粉症の主な症状を教えてくれた。
アレルギーの一種であり、くしゃみ、鼻水、鼻詰まり、目のかゆみなどが特徴的な症候群であるということ。一般的に多くはスギ花粉に被害を受けることが多いが、近年はイネ科の植物の花粉に関してのものも増加しているということ。そして、花粉の過剰摂取は、稀にアナフィラキシーショックという反応を起こし、患者を死に至らしめるということ。
じゃあ、僕のここ二年間ほど悩まされていたあれ――呼吸ができない状況の正体は、この病気だったということ、なのだろうか。
そんな、花粉症なんていう病気があっただなんて。
「寡聞にして、知りませんでした。」
因みに小学四年生です。