喪失
ポテトをおごってから、幽霊はまたいつも通り仕事をするようになった。結局あの謎の怒りはなんだったのだろう。女の幽霊だから女の子の日もあって、機嫌が悪かったのだろうか。なにはともあれこれで一安心だ。もうあんなことはあれっきりにしてほしい。
そして、次のお客がレジに並んだ。
「いらっしゃいませ」
見覚えのある顔だった。あの時栄養ドリンクを割った女子高生だ。セーラー服姿に身を包み、目線は恥ずかしそうに下を向いていた。手に商品はなく、右手になにか紙きれのようなものを握りしめていた。
「あの、その、あのときは本当に」
以前のようにもじもじしながら話し始める彼女。どうしたのだろう。
「いいえ、いいんですよ。瓶の破片で怪我もしなかったみたいですし」
彼女はうつむいたまま、両手を差し出してきた。名刺のように紙切れを間に挟んでいる。レシートではなさそうだ。
「あの、これは?」
「……よ、よかったら、連絡、とか」
鈍感な俺でも今何が起きているかくらいわかる。どうやら俺にも春が来たらしい。こんな若い女の子に連絡先をもらえるなんて。まさに月九の世界じゃないか。彼女いない歴=年齢。ようやく青春らしいことができる! 見ているか、幽霊! 俺だってこういうこともあるんだぜ。さあ、早くお礼を言って、後日連絡をすることを伝えなくては。
「申し訳ありませんが、二度とこの店に来ないでもらえますか」
俺はそう言った。いや、今言ったのは誰だ? いや、今のは俺の声だ。あれ、なんで俺はこんなことを言っているんだ。
「出て行ってください」
俺の意識とは無関係に、言葉は勝手に紡がれる。こんなことを言いたいんじゃない。だがその意思に反し口は勝手に動き、自由は奪われていた。前身は長い正座をした足のようにしびれ、身動きは取れない。
「え……その……」
彼女の目は、栄養ドリンクを割った時の何倍も目を潤んでいた。そして俯き、肩を震わせる。小さな嗚咽まで聞こえてきた。そして頭を下げ、逃げるように店を後にした。引き留めようと体を動かそうとするが、全身のしびれが取れる気配はない。犯人は明らかであり、動機も予想はついた。
三日前のボイコットも、今日の件も原因は幽霊の嫉妬の可能性が高い。どうやら俺は、幽霊に恋されてしまったらしい。さらにもう一つ。幽霊お決まりのあの力。
憑依が使えるようになったらしい。
まさか体の自由が奪われるなど思ってもみなかった。
「なんだこれは」
理由はわかってはいるが、問い詰めずにはいられない。いくらなんでもあの子がかわいそう過ぎる。とても勇気を振り絞った行動だろうに。理不尽にもほどがある。
「前に機嫌が悪かったのも、あの子が原因か」
幽霊は何も答えない。
「おい、どうなんだ」
また無反応だ。完全にシカトを決め込むつもりだ。全く、どうかしている。そのあとに、別のお客が来た。Tシャツにジャージを着た若い主婦らしき風貌だ。かごにはアンパンマンのチョコが二つ。そしてポテチが一つ。小さな子供が二人といったところか。気を取り直し、仕事に戻ろう。いらっしゃいませ。そういうつもりだった。
「」
……あれ?
「」
声を出そうとしばらく試みていた。どうやって声を出しているかなど普段意識はしない。だが、その無意識のやり方を、体が実行してくれない。体が俺の随意的な運動を拒否していた。
「……?」
お客さんは首をかしげ、俺を見た。俺は多分ひどい顔をしているだろう。声はのどから出ずに、口はぱくぱくと金魚のように開閉を繰り返す。のどの途中で声が掻き消えているようだ。音を相手に伝える声帯が、機能を一切果たしていなかった。
とりあえず無言でレジを打ち、画面を指し示し、金額を伝える。のどを指でさし、風邪であるようなジェスチャーを取ると、お客さんは納得したように頷いた。お客さんが出て行ってから、声を出せるか試みた。
「あー、あー」
問題はない。やはりこいつの仕業だ。
「女性客に接客をさせないつもりか。」
たばこの棚は反応しなかった。しかし、開けっ放しにしていた事務所の出入り口が勢いよくしまった。まるで機嫌の悪い人間が、ドアを乱暴にしめているみたいに。
「……」
それからも改善する様子はなく、俺の醍醐味の、幼女とのコミュニケーションまで阻害されてしまった。挙句の果てに「あのお兄さんこわーい」などという評価まで受けてしまった。
もうだめだ。そう思った。
「お前とはこれまでだ」
そう言い残し、俺はたばこの補充をするために裏の事務所へ向かった。その間に廃棄になっていたアメリカンドックは、きちんと捨てられていた。
次の日、俺は店長に幽霊のことは伏せた上であるお願いをすることにした。
「店長」
「ああ、三上君。最近夜の商品陳列がきれいって評判よ。やるじゃない」
それは俺の手柄ではないが。
「それはどうも。今日はちょっとお話がありまして」
「どうしたの? 幽霊の次は何?」
そう茶化しながらパソコンで仕事を続ける店長。
「俺を山西店に異動させてもらえませんか?」
山西店とは、この店から自転車で十分ほどの距離にある、もう一店舗のコンビニだ。この店であの幽霊に振り回されていてはまともに仕事なんてできやしない。最初は興味本位に近い状態であいつに協力していたが、仕事に支障が出たのでは意味がない。考えた末の、ベストな結論だ。
「あれ? このお店嫌?」
意外そうに店長は俺を見る。
「まあ、はい」
「理由は?」
まともに言えるはずもない。幽霊に憑依されるから接客ができないなどと告げれば精神病院行きは免れない。
「……まあ、俺にも事情というものが」
理由にならない理由を告げる。店というか、もう一人のスタッフの態度が問題なのだが。
「……本当ならそんな無茶な、って言いたいところなんだけど」
そう言いながら店長はほかの店舗のスケジュールもまとめたシフト表を指先でつかんだ。
「山西店に、三上君と同じシフト数で入っている子がいてね。その子との交換って形になるの」
「それなら今すぐお願いします」
事態は一刻を争う。接客時に声が出せないなんて最悪だ。その男に早くあいつを押し付けたい。
「でもね、あっちの子の了解がとれるとしても、今日すぐってわけにはいかないかな」
……それは当然か。今日が金曜日で、土日は休み。月曜日からそのスタッフと入れ替わるという形になるだろう。釈然としないが、やむを得ない。
「……わかりました、今日一日だけここで働かせていただきます」
「うん、ありがとうね、よろしく」
あと一日だけ。そう自分に言い聞かせながらシフトに入ることにした。むしろ異動の提案が受け入れられただけ幸運だ。田川さんに異動することと、幽霊の異常性について話すと、寂しそうに「そうですか」と納得していた。田川さんと離れるのは心苦しいが、自分なりに考えた結論だ。
だがその日、先日会った幽霊の声帯の金縛りは、一切起きなかった。いつも通りの接客ができ、スムーズに仕事が運ぶ。
「三上君、できてるじゃない」
田川さんがそういうが油断はできない。八時になったらまた起きる可能性はある。だが、田川さんが上がっても、金縛りは起きなかった。
「……許してくれたのか?」
そう聞くが返答はない。だが、なくなったのは金縛りだけではなかった。
「パラメンワンショート」
左手を下に構える。しかし、煙草は手元には来なかった。あわてて銘柄を自分で取りに行く。
「……いないのか?」
相変わらず返事はない。いないのならば返事はできない。まさか、本当にいなくなってしまったのか、はたまた仕事をまたボイコットしているのか。その判断は難しかった。
「あー、せいせいするわ」
そう言い張ることにした。あいつが邪魔をしないのなら、こっちも楽だというものだ。 だがそれでも次の客がまた煙草を注文した時、左手をいつものようにスタンバイしてしまう癖は、直っていなかった。
客の数もまばらになり、店内の見回りをすることにした。ジュース売り場の商品はだいぶ売れており、売り場の棚はまばらなものとなっている。奥の飲み物を前に出す必要があった。棚を前に出し、奥にあるジュースを手前へと持ってくる。思えばこの作業はずっとあいつに任せっぱなしだった。久しぶりにする作業に、腕が疲労を訴えてくる。この仕事は、あいつのお気に入りだったはずだ。なんだかんだ仕事はしていたし、意欲もあった。わがままで迷惑なところもあったけれど、今思えばかわいいものだった。金縛りは迷惑だし、たまに廃棄の個数を間違えるのも困っていたが、あいつがいて、俺は助かっていた。
あいつは、なんで俺の前に現れたのか、お金をわざわざ稼ぐことを選んだのか。疑問は尽きない。考えるのをやめる。これが普通なんだ。それに、油断したところでまた出てくる気なのかもしれない。俺の異動の意志は変わらない。そう自分に言い聞かせるも、どうしようもない切なさが胸を襲う。雑誌コーナーに乱雑に置かれた週刊誌がいつもよりも重く感じた。
九時も三十分を回ると、お客はほとんどこない。地味な仕事をこなしながら、増岡さんが来るのを待つだけだ。そんな寂しさを紛らわすように、お客様来店の音がなった。
「久保田さん!」
墨汁をこぼしたようなジャージも、銀縁のめがねに薄い髪も猫背もこんな状況だとうれしく思える。
「あはは、どうも」
久保田さんはいつもより楽しそうに笑った。ひげは以前より濃くなり、頬は痩せこけて
いる。どうしたのだろう。様子がいつもと違う。いつもは手ぶらで来て、緑のかごを持ち、
おつまみコーナーを怪しげな笑みを浮かべながら眺めるのが日課のはずだ。
なのに、なぜ?
真っ先にレジに来ているのだ? それに手元に持つトートバック。普段はそんなものは持
たない。エコバックのつもりか? 環境を気にするタイプには見えない、それに、なぜそんな
に、大事そうに抱えているのだ?
ここまででたくさんの疑問点が浮かんでいる。それに結びつく答えは一つだ。だがそれはあまりにも現実離れしすぎていて、その言葉を出すことを頭が無意識に拒否していた。
「以前店員さんがおっしゃっていましたこと、私ね、実行してみようと思うんです」
「そうですか」
多くの思考で頭がパンクしそうで、淡々とした返事しかできない。そんな俺の様子を気にするようでもなく、久保田さんの笑顔は今までで一番の輝きを放っていた。
「悩んでいても始まらない。なら、やってみて、ヒーローにでも、悪者にでもなってやる。それくらいの覚悟は持っているべきなんですよね」
「ええ、全くです」
反射的に肯定の相槌を打つ。彼の声色は希望に満ち溢れているように明るい。背中と足がこわばる。俺の中の何かが、逃げろと告げていた。そのまま久保田さんはカバンの中へ手を突っこむ。
「だから、私は決めました」
引き抜かれる過程で見えたもの。黒い柄。次に確認できたのは、銀色の鋭い光だった。それは普段台所でもどこでも見ることができるし、存在自体は異常なものではない。だが、その鋭い銀の色はシチュエーション次第で、とんでもない非日常を連れてくる。
いや、その存在そのものが、非日常になのだ。
久保田さんは、それを俺の目の前に突き出す。まるで煙草の注文でもするかのように、コンビニ店員なら、一度は予想するであろう、その言葉を言った。
「強盗です、金を出してください」
久保田さんがカバンから取り出したのは、刃渡り十五センチはあるであろう、鋭い鉛の光を放つ、一本の包丁だった。人生初のコンビニ強盗が、常連さんになるだなんて、思いもよらなかった。
「あの、その」
頭から冷静さは欠落し、あらゆる思考や言葉が脳内の噴水から湧き出ている。喉から出る言葉はたどたどしく、頼りない。口は渇き、足は震えている。目を少し閉じ、考える。まずやるべきことは、レジの下にある通報ボタンを押すことだ。後ずさりしながら、通報ボタンを探そうとした時だった。久保田さんは包丁の持たないほうの左腕を伸ばし、俺の右腕を鷲掴みしてきた。
「え」
抵抗する暇もないまま、強力な磁石に引き寄せられたように、右腕はレジへと押さえつけられた。見上げた先には。久保田さんの顔がある。張りぼてのような無機質な笑みは、化け物と称するのにふさわしかった。久保田さんは表情を変えぬまま、包丁を俺の手の甲に振りおろした。振り下ろされた刃は、手の甲の皮膚を、血管を突き破った。
両手から全身にわたり、マグマであぶられているような痛覚が伝道していく。口から出たのは、悲鳴というより咆哮に近かった。包丁が引き抜かれると同時に、食いちぎられるような痛みが走る。同時に手の甲から血が吹き出る。スプラッタ映画さながらの風景に吐き気を催した。久保田さんはそんなことに構いもせず、次は俺の腕へと包丁を振り下ろす。血管を突き破られる感覚がさっきの何倍も辛く、口の中全体に鉄とよく似た味が広がった。
痛い。熱い。苦しい。ありったけの叫び声をあげるが、久保田さんから同情する様子は一切見られない。
「早く、ほら」
普通、人は誰かを傷つけたりする際にある程度の躊躇する気持ちが出てくる。だが、彼からそういった類のものは一切合財感じない。ただ草むしりをするように、ハサミで紙を切るように、包丁を振り下ろす反復運動を繰り返し、俺の手を腕の傷口を次から次へと増やしていく。次第に痛みは鈍くなる。だがそれに反比例するように出血量は増え、レジを赤く染めた。赤いペンキをこぼしたような血の水たまりは、遠のく意識とともに広がって行く。あいている左腕は右腕の痛みと、今の極限状況で動かない。動かし方すら、体が覚えていないようだ。
「まだ出せませんか?」
不満そうに久保田さんは言う。イカレている。金なんてこんな状況で出せるはずもない。返事はできず、悲鳴と嗚咽以外の声は出ない。押しつけてくる腕の力はさらに強くなり、それがさらに俺の意識を希薄な世界へといざなっていく。
万事休す。そう思った時だった。
右腕の締め付け感はなくなった。久保田さんが拘束していた右手を離したようだ。どうしたのだろう。息も絶え絶えに視線を久保田さんへと移す。血で染まった両手で赤い包丁を握りしめていた。だがその包丁の先端は久保田さんの喉元へ向いていた。
「な、なんだ」
久保田さんの握りしめた包丁は震え、足は生まれたての小鹿のように頼りない。まるで今の行動が彼の意思ではないように。彼の目線は泳ぎ、額からはじとりと脂汗が垂れる。異常に続く異常事態に理解が追いつかない。何が起きているんだ。
「いや、いやだ、いやだ」
彼は命乞いをするように、そう言葉を繰り返した。久保田さんの瞳から涙がこぼれる。俺の腕の出血はひどく、意識は朦朧としていた。夢でも見ているのだろうか。常連さんがコンビニ強盗で、腕をめった刺しにしてきたかと思えば、自殺を試みている。明らかにまともではない。腕の傷口が風に当たって剣山をこすりつけているように痛い。
次の瞬間だった。久保田さんは包丁を構えたまま、俺に顔を向けた。表情はさっきまでのものとはまるで違う。穏やかな、満たされたような、なにかをやり遂げたようだ。その後、久保田さんはゆっくりと口を開いた。
「ありがとう」
かすれた声で、確かにそう言った。直感で理解できた。今のは、久保田さんの言葉ではないと。
おそらく幽霊の女の子は、俺の身を守るために彼へと憑依していた。
「やめろ!」
痛みにこらえながら、そう叫んだときにはもう遅かった。久保田さんは。いや、幽霊は、包丁を振りかざし、喉を突く。皮膚を突き破り、それと同時に噴水のような大量の血を噴き出した。苦しそうな声は一切上げずに、久保田さんは両膝をついた。
カタン、と音がした。
後ろからだ。いつもの煙草の棚がまた動いたんだ。
動いていた棚は、八十八、そして二番だった。
それとほぼ同時くらいに、俺の意識は途切れた。