反抗期
いつものジャージを身に纏い、黒縁の眼鏡をかけた久保田さんは、お会計後に声をかけてきた。表情はいつもと変わらない。だがその墨汁を浸したかのようなジャージは、どことなく不吉なものを思わせる。
「この間言っていた、レジのトラブルは解決したのですか?」
「まあ、なんとか」
あいまいに笑い、答える。
「おお、それはよかった」
目を細め、首を前にかくかくと動かしながら久保田さんは笑った。首の動きが人形のようで、子供のころに見たら夢に出てきそうだ。なんとなく雑誌コーナーのほうへ目をそらす。女子高生が少年誌を立ち読みしていた。
「私もね、ちょっと悩んでいることがありましてね」
「えっ」
慌てて視線を戻す。いつも仕事の愚痴と天気の話しかしないのに。珍しい。今日醸し出している、黒い霧のような雰囲気と、関係があるのだろうか。
「やりたいことがあるんですよ。でも、いまひとつ決意ができなくて」
海外旅行とか、転職とか、そういった類か。思い切った選択には、どんなものでもリスクが伴うというものだ。
だが今回の場合はなにか違う気がする。雰囲気だけで判断せずに、頭頂部から全身にかけて目を凝らす。ひげを普段は剃っているのに今日は剃っていない。作業をするため靴はいつも汚れているのに、今日は汚れていない。仕事に行っていない? 休んだ? いや、それでもひげをそらない理由はない。もしかしたら、仕事を首になったのだろうか。だとしたら、どことなく暗い雰囲気が漂うのも納得がいく。
「思い切ってやっちゃいましょうよ」
もしもなにかそれで思うことがあるのなら、我慢するべきではない。新たなスタートを切るきっかけになるならやるべきだ。
「そうですねー」
久保田さんは顔を下に下げる。しばらくうつむいた後、誰に言うでもなくつぶやいた。
「ですね、人生は一度きりですもんね」
頭をあげた久保田さんの表情は、さっきまでと打って変わってまばゆい笑みを浮かべた。漂う雰囲気が変わっていないのが不安だが、力になれたのならよかった。
「思い立ったら行動ですよ。がんばってください」
そう言って久保田さんを見送った。それと入れ替わるように、田川さんがよちよちとトイレ掃除から戻ってきた。
「三上君お待たせしました。それで、お話ってなんですか?」
幽霊の件は、あれから誰にも話さなかった。店長には解決したと告げると「なーんだ」とつまらなさそうにぼやきながら、確認のためか監視カメラの映像を巻き戻した。相変わらず八時から十時までの間はノイズで見ることはできない。店長は口をへの字に曲げ、事務作業に戻った。そんな中、田川さんにだけは話したいと思っていた。この人なら信じてもらえるかもしれない。半年前に来た店長と違い、一緒に入っていて一番長い田川さんは兄貴みたいなものだ。この人になら。
「あのですね」
俺は幽霊の件をすべて話すことにした。どんどん幽霊の仕事の質が上がっていくのも、女だったということも。案外おちゃめなことをするやつだってことも。
「なるほどね」
真剣な顔で、田川さんは俺の話に聞き入っていた。否定も肯定もしないまま、ただ頷き、共感することに勤めていた。
「三上君だから、できたのかもしれませんね」
田川さんはしばらく黙り込むと、そうつぶやいた。
「どういうことですか?」
「三上君はやさしいじゃないですか。僕にはまねできません」
田川さんの口から出たのは、手放しの賞賛だった。
「そこまでですかね」
慣れない言葉に顔が熱くなる。そこまで自分のことを良く思ったことも、言われたこともなかったため、気恥ずかしい。
「常連さんともお話ししてるのも、素敵だと思います」
「田川さんはしないんですか?」
確かに俺は久保田さんも含めて会話をする人は多い。だが、田川さんはどうなのだろう。一緒に働いていても、そのような姿はあまり見られない。田川さんは腕を組み、考え込むように目を閉じた。
「午前中の常連さん、一人だけですかね」
しばらく唸った後、そう答えた。田川さんにもお得意さんはいるらしい。どんな人か見てみたい気もする。だがその表情は妙にバツが悪そうで、追求を無言で拒んでいるようだった。
「ところで、この話は覚えていますか?」
田川さんは話題を変えたいのか、そう切りだした。
「三上君が入りたての頃でしたかね」
「入りたて?」
「四年前ですよ。ほら、転んで擦りむいた女の子を覚えていませんか? 小学校行ってるか、行ってないかくらいの子ですかね。三上君が事務所で手当していたじゃないですか」
「あ、あの時の」
そんなこともしたかもしれない。ごみ捨て中のことだったかな。あの時の半泣きのあの子の表情や、何かを言いたげにじっとこっちを見ていた姿は印象的だった。目は大きく、それでいて顔は小さく、子役のアイドルのようで、ある種の大人っぽさすら感じさせてきた。
「確か、救急車が近くに来てた日ですよね」
誰か事故にあったのかわからないが、すぐ近くでサイレンが鳴っていたのがいやに耳に残っている。田川さんは「ええ、まあ」と、そのことをはぐらかした。
「なんにせよ、なかなかできることじゃないですよ」
ここまで褒めちぎられると、一種の拷問のようだ。何を言っていいのかわからず、言葉を探している間に黙り込んでしまった。
「幽霊さん、いつか成仏できるといいですね」
無言の間、田川さんはそう言った。成仏。あの幽霊のなんらかの無念や目的が達成されたとき、あの子は俺の前から消えるのだろうか。だとしたら給料を払うのも終わり、また一人の時間が戻ってくる。しばらく任せていた作業も、すべて俺に戻ってくる。幽霊が現れるまではそれが普通でもあったから、別段困ることはないのだが。そのことを考えていると、胸に針が刺さるような痛みを感じた。
「そうですね」
曖昧にそう相槌を打った。そして田川さんが退勤するタイムカードを押そうとした時だ。ガシャンガラス状の何かが割れる音が聞こえた。
「きゃ!」
次に聞こえたのは女の子の声だ。栄養ドリンクのあたりか。見渡すと、さっきまで雑誌コーナーで立ち読みをしていた女子高生がいなくなっている。
「ちょっと行ってきます」
田川さんにそういうと、音の方向へと走った。ドリンクコーナーにたどり着くと、床に広がっていたのは、真っ黄色の水溜りだった。栄養ドリンクの棚が少し前に出ていたらしく、つまずいた拍子に端っこの瓶を落としたらしい。床にぺたんと座り込んでいる当事者は案の上さっきの女子高生だ。スカートからのびる白い足の筋肉は発達している。腕は左腕より右腕のほうが太い。だが日焼けはしていない。バトミントン部の可能性がある(だからなんだという話だが)
「大丈夫ですか?」
心配しながら腰を落とし女子高生に目線を合わせる。女子高生は半泣きになりながらかすれる声で訴えてきた。
「本当すいません、弁償します。床も私が」
「危ないから動かないでください」
混乱している女子高生を両手で制する。動いたらけがをしてしまうかもしれない。立ち上がり、バックヤードからほうきと塵取りをとってくる。掃除の時間以外あまり使いたくないのだが。液体の上から手を切らないように大きな破片を拾い集め、塵取りに片付けた。
さて、この後だ。水にぬらしたモップで五、六回ほどふけば、床のべたつきはとれるだろう。そして残った小さな破片をほうきで掃けば事態は収まる。
だがそれでは彼女のスカートはどうなる。栄養ドリンクでべたべたに汚れてしまっている。不快極りないだろう。
大きな破片をあらかた片づけた後、日用品のコーナーへと走る。そこから棚の一番下になぜか置いてあるショートパンツを取ってきて、女子高生に渡した。
「あの、これ」
腫物を扱うような声色で、女子高生は短パンを指さした。
「いいですよ、トイレで着替えてきてください」
なかなか男前に決まったかもしれない。これでもう少し自分の顔が良ければいいシーンになったかもしれないが。女子高生は頭を下げると、立ち上がり、トイレへと走った。短パンのお金を後で払わないと。いくらだっただろうか。モップを濡らし、床を拭きながら、そんなことを考えていた。お菓子の棚からは、着替えた女子高生がこっちを見ていた。五分ほどすると、床のべたつきはとれた。田川さんはほかのお客さんの対応をしてくれただろうか。お菓子の棚から女子高生はゆっくりと歩いてきた。鞄からピンク色の長財布を取り出し、中身を確認している。
「あの、大丈夫です」
俺は言った。
「え?」
ふだん男らしいことをしていないんだ。たまにはいいだろう。
「サービスですから」
そういって俺はモップを倉庫に片付けた。こういうことから色恋沙汰に発展したりしないのだろうか。世にも奇妙な物語より、月九ドラマのような甘酸っぱい青春のほうが俺好みなのだが。倉庫から顔を出すと女子高生はレジ袋に入った青いラベルのスポーツドリンクを手に下げていた。
「ありがとうございました。これ、どうぞ」
目線を合わせないよう、女子高生は下をうつむきながら両手で袋を差し出してきた。頭頂部のつむじが見えるほどのきれいな直角を作り、腰を曲げていた。せっかくのお礼なのだ。短パンの料金はいいとしても、これくらいは受け取らないほうが失礼だろう。
「ありがとうございます」
できる限りの笑みを浮かべるよう努めた。女子高生はそこから小走りで店を去った。後ろ姿はまるで小動物のようで、俺の胸をときめかせた。
「なかなかいい雰囲気だったじゃないですかー、三上君」
「うわ!」
後ろから田川さんの声が聞こえ、慌てて振り返る。
「だから言ったでしょう、三上君のいいところはそこだって」
もしかしたら、田川さんの言う通りなのかもしれない。自分を過信するのもよくないが、長所には自信を持つべきだろう。就活の際はこのエピソードを話せば採用されるかもしれない。ジュースにはまだあの子のぬくもりが少しだけ残っているような気がした。
田川さんが帰り、また俺はあの幽霊と二人になる。
「今日もよろしくな」
反応を待つが何も答えない。おかしい。いつもなら八十一番の棚が元気よく動くはずなのに。反抗期だろうか。まあ仕事をしてくれればそれでいい。お客の来店音が流れ、あわててレジへと向き直る。作業着姿の男(太い首が柔道経験者を思わせる)が俺の背後をのぞき込むように目線を泳がせ、銘柄を告げた。
「ハイブリット六ミリ」
ぱしっと、左手に銘柄が届く。心なしかいつもより乱暴だ。どうしたんだ急に。首を傾げながら手元のそれをスキャンする。
「おい、兄ちゃん、どういうつもりだ」
「え?」
男は不機嫌そうに俺の左手を指す。手元を見ると、握らされていたのは果物コーナーのバナナだった。全く違うどころか煙草ですらない。あわてて注文通りの煙草を手に取り、レジに通した。
「しっかりしてくれよ」
男はぼやきながら店を後にした。
「……どういうつもりだ?」
七十二番の煙草が動く。七と二で、なにって意味だろうか。
「なにじゃねえよ」
幽霊は相変わらず無反応だった。
それからも謎のボイコットは続いた。お客さんの注文したファーストフードを、なぜかおでんの一覧にあるこんぶに変えていたり、商品の前出しをするどころか、商品のラベルをすべて後ろ向きにする始末だ。
他にもこんなことがあった。
「弁当温めで」
スウェットを着た金髪ギャルにそう言われ、電子レンジに弁当を置く。いつも通り幽霊は温め時間を設定してきた。二十分に。
「焼け焦げるわ」
冷静にそう突っ込みながら三十五秒に設定しなおす。お会計を終え、弁当の温めが終わるのを待った。しばらくするとアラームが鳴り、レンジに手をかけた。
ぐっといつも通りの力で引っ張る。手ごたえはなく、ピクリとも動かない。騒がしいこのアラーム音はレンジを開くまで鳴りやまない。腕に精一杯の力を入れ、体重を後ろにかける。努力の結果、ようやくレンジはあいたが、その反動で体は後ろに引っ張られ
「いってえ!」
レジの角に後頭部を思い切り打ちつけ、しびれるような激痛が走った。
店員とは思えない素の声が出てしまった。そんな時間が一時間ほど続き、お客さんの数もまばらになってきたころ、俺は言った。
「俺が何をした」
当然反応はない。幽霊がすねた子供のような顔を浮かべているのが見えてくるようだ。実体があったらチェックシートのボードでしばき倒したい。
「時給払わねえぞ」
そう脅すと百十四番が動いた。いいよってか。ああ、そうだ意味がない。レジから結局金を分捕れば済む話なのだから。埒が明かない状況にため息をついた。
「怒ってるのか?」
また無反応に戻る。なんだこの不毛なコミュニケーションは。
「俺が悪いんなら謝るよ。でも心当たりがないんだ」
反応は相変わらずない。
「とりあえず、仕事にならないから」
無反応。いい加減怒りが込み上げてきた。何をしたら納得するんだ。深呼吸して心を鎮める。こういう時は相談だ。増岡さんは役に立たなかったし、来るまで待ってられない。ならば女性の意見だ。電話で竹中さんに相談することにした。
「竹中さん、恋の悩みがあります」
どう切り出すか考えた末、こう言うことにした。
「三上君、急に何かと思えば」
呆れたように竹中さんはため息をつく。そちらには悪いが、事は一刻を争うのだ。
「いい加減小学生を性的な対象として見るのはやめたほうがいいよ」
まだ何も言っていないのにロリコン扱いされた。
「どうして増岡さんも竹中さんも俺をロリコン扱いするんですか」
「だってねえ、子供の女の子が相手の時、三上君目やばいよ?」
小さい子供にやさしい笑みを浮かべるのは、当然の義務だろう。
「で、どうしたの?」
茶化すことをやめ、本題へと竹中さん自ら誘導した。俺が相談する内容を幽霊抜きで表すにはどうするか。恋の悩みと仮定するなら、これだろう。
「女の子の機嫌を損ねたときはどうしたらいいですか」
この問いに対し、竹中さんは考える間もなく即答した。
「物で釣れ」
そして電話は一方的に切られた。物、か。悪くはないが一体何があるのだ。幽霊が食いつくものなんて何があるのだ。
いや、一つだけあった。
「……ポテト食うか?」
だめもとでのご機嫌取りをしてみる。煙草の棚を見ても何の動きもない。さすがにそんな簡単に言いくるめられないか。その時、レジからピッと音がした。画面をのぞくと、ポテトが二つ表示されていた。値段は三百六十円だ。
「二個なら許すってことか?」
八十一番が動く。思ったより簡単に言いくるめることができた。だがショーケースに並ぶポテトの数は一つだけだ。
「一つで勘弁できないか?」
レジの取り消しボタンを押し、ポテトの注文を一つキャンセルすると、またポテトが押される。取り消し、注文。取り消し、注文のやり取りが三度ほど繰り返された。
「どうしろっていうんだ」
ポテトのストックが入った冷凍庫の扉が開いた。
「揚げろってことか」
八十一番が元気よく動いた。俺はポケットから財布を取り出し、三百六十円を支払った。
こいつのポテトへの謎のこだわりは何なのだろう。何度目かわからないため息をつきながら、冷凍庫のカチカチに凍ったポテトの袋を、ハサミで開封した。