現象
バイト中に思いつきました。
マイナス千四百円。コンビニ店員も数年続ければ、過不足が出るなんて稀なことだ。だが、ここ四日間。
「連続でマイナスですよ? おかしいと思いませんか?」
常連の久保田さんにそう愚痴をこぼす。
「コンビニ店員というのも大変そうですね」
「大変なんてもんじゃないですよ、その千四百円は二日とも俺がレジに入れているんですよ?」
心配事はそれだけではないけれど。久保田さんは、「お気の毒に」と愛想笑いをした。そのままひょこひょこと、猫背のまま店を去った。その姿に目を凝らす。歩く際に左足を軽く引きずっていた。仕事のミスで足を痛めた可能性がある。
「三上くん、お先あがりますよ」
観察している間に声をかけられ、思わず我に返る。フリーターの田川さんが伸びをしながら、タイムカードを押そうと、バーコードリーダーを片手に持っていた。
「はい、おつかれさまです」
ため息交じりに田川さんに告げる。
「三上くん、言っときますけど僕は違いますよ」
早口で弁解をする田川さん。
「レジマイナスのことですか? 疑っていませんよ」
むしろ千四百円はどうでもいい。問題は別のことだ。
「半分の七百円、置いときましょうか?」
田川さんは、折りたたみの茶色い財布をポケットから取り出し、小銭を探り始めた。
「いいですってそんな。今日こそは大丈夫です」
あわてて田川さんを制した。これでも四年働いているプライドもある。今日こそは大丈夫だと思いたいが。だが、強がりを言っても、昨日と一昨日シフトに入っていた後輩の山下も、同僚の竹中さんも、何もおかしな様子はなかった。現実的に謎は解決しないままだ。
「三上くん?」
「はい?」
田川さんの老けたキューピー人形のような瞳が目の前に迫ってきていた。
「なにか、隠しています?」
表情を変えず、田川さんは告げる。その迫力に思わず息をのむ。大きな顔の二つの瞳は、まるで心を見透かしているようだ。田川さんは見抜いているのだろうか。俺の抱える問題が、レジマイナスだけじゃないことを。それならむしろ好都合なのかもしれない。一人で抱え込むより人に話すことで、考えがまとまることもある。混乱している現状には、とてもありがたい言葉だ。
「あんまり信じられない話かもしれませんよ?」
今から話す体験が突拍子もない話し故に、そう保険をかける。
「いやいや、僕ね、そういうの大好きなんです」
田川さんは興味深々と言わんばかりに、子供のような笑みを浮かべた。俺は、うなずき、廃棄時間を過ぎたチキンをごみ箱にドングでほうり、記憶をさかのぼった。
――マイナスが出た初日。店内には俺一人だ。俺は入ってすぐに煙草を買うお客のため、入り口側に立つことにしている。今いるお客は一人。上下ジャージ姿の中年男だ。首は太く、右手の甲にすりむいた跡がある。顔は日焼けで真っ赤に焼けていた。かごの中には弁当とお茶が入っている。目線はこっちに向いている。よし、そろそろ来るな。
「どうぞー」
その時だった。男は申し訳なさそうに会釈をし、俺のいるレジとは反対のレジに立った。これは二人でシフトに入っているときにはよくあることだ。逆にいえば、一人のときにはありえない現象なのだ。お客さんは反対のレジに数秒たつと、あわててこっちに走ってきた。
「いやー、すいません」
男は申し訳なさそうにレジにかごを置く。
「いえいえ、大丈夫ですよ」
違和感はぬぐえないが、たまにはこういうこともあるだろう。温めはどうなされますか? そうきくつもりだった。それを言う前に、男は独り言のようにつぶやいた。
「あっちに店員さんがいた気がしてね」
その刹那、背筋に舐めるような悪寒が走る。冷凍庫の冷気を、何倍も冷たくしたような『何か』が、俺の背中を通り過ぎた。あわてて振り返るが、当然誰もいない。額から冷汗が垂れ、口の中はぱさぱさに乾いていた。足は震えて動かない。今、何が起きた? 何が、いた?
「どうかした?」
お客の言葉で我に返る。
「す、すいません、ちょっと、疲れているみたいで」
あわてて弁当とお茶をレジに通し、袋に詰めながら考える。隣に店員がいた? お客さんがなにかを見間違えたのか? 何と? 結論は出ないまま、お客さんを三十度ほどの礼で見送った。
それからの二時間は同じことの繰り返しで、お客さんの向ける視線と足先は、俺とは逆のレジばかりだった。退勤する直前、深夜に働く増岡さんにもそのことを話した。
「お前客に嫌われてるんじゃね?」
と言われた。
「ひどいこと言わないで下さいよ」
こっちは真剣に話しているんだ。真面目に取り合ってくれないと困る。
「幼女が来たらいつもにやにやしてたろ。そりゃ客も買う気失せる」
人を勝手にロリコンのように言ってくる始末だ。俺はただの子供好きだというのに。たしかに子供の客が来たときは対応がやさしくなっているかもしれないが、それは当然のことじゃないか?
「実際俺はそんな現場には出くわさないぞ」
増岡さん話し半分で小銭を点検の機械に流れ作業のように乗せ、レジ点検を続ける。目を覆い隠すように伸びている前髪が邪魔そうだ。その髪型で作業ができるのだろうか。点検後の値はいつも通り、プラスマイナスゼロのはずだと思い、煙草のストックを確認していたときだ。
「おい」
増岡さんは怪訝そうにつぶやいた。
「どうかしました?」
「ロリコンのくせに、レジの操作だけは丁寧だと思ってたんだがな」
「なんですかその言い方」
それにロリコンは関係ない。煙草の補充を中断し、レジを見る。
「過不足が出てる」
表示されていたのは千四百円のマイナスだった。
「まじすか」
「まじだ」
しぶしぶ俺は財布から千円札と、百円玉を四枚差し出した。増岡さんは首をかしげながら受け取り、レジに入れた。
その翌日のことだ。後輩の山下が退勤する時にも、念のためレジ点検をさせた。
「問題ありません」
値はプラスマイナスゼロ。何も変化はない。
「そうか、ならいいんだけど」
「まあたまにはそういうこともありますよ」
山下は愛想よく、そう気遣った。そんな気休めを心にとどめながら、また一人の二時間が始まる。その日も同じくお客さんは反対のレジに並んだ。だがそれもしばらく続けばもはや慣れすら生じてくる。しかし、今日はさらに奇妙なことがあった。
「マルボロソフト」
作業着に身を包んだひげ面のお客は、煙草の銘柄をシンプルに告げた。振り返り、煙草を手に取ろうとした時だった。男が選んだ銘柄が、目の前で棚から落下した。
「おお、ラッキー、それそれ」
落ちたことに気にする様子もなく、作業着男はそれを早く通すよう催促した。偶然かと思った。けれどそれはまた続く。煙草を二つ頼んだお客がいれば、その銘柄は二つ落ちた。自動販売機のように、ぼとぼとと振り続けた。背筋に昨日と同じ悪寒が走る。風のような『なにか』がまた通り過ぎた。確信した。
この店に、俺以外の誰かがいる。
翌日。すなわち今日。
「いや三上君、それなんか怖くない?」
シフトに入る直前に、同僚の竹中さんに真顔でそう言われた。安売りのポテトが嘲笑うようにショーウィンドウの最上部を埋めている。安くなっても量が大したことないのは商品としてどうなのだろう。
「まあ、確かに」
ポテトから視線を外し、竹中さんへと向き替える。タブレット状の発注の機械を腰に下げているが、おなかの肉でそれは横にずれていた。
「ちょ、それ、普通じゃないって」
竹中さんは聞いたこともないような早口になっている。
「やばいよそれ、その見えない誰かのせいでお金がなくなっているんでしょ」
「かもしれないってだけだよ。もし本当ならキャッシュバックする方法も見つけなきゃな、その……」
俺以外の誰か。姿は見えず、客の要望にこたえるように俺のアシストをする。それを指す単語を、俺は知っている。
「幽霊さんに?」
竹中さんは簡単にそう言った。
……怖くてあえて言わなかったのに。さんを付けるなよ。
「じゃあ、私発注終わったし帰るね、今晩も頑張って」
竹中さんは発注の機械を肩から下ろし、据え置きの充電器に設置した。そしてそのまま制服を着替えることなく店を後にした。
「なんとか呪い殺されないようにするよ」
笑いながら竹中さんの後ろ姿にそう言うものの、表情筋が動いている気がしない。というか胃も痛い。もうこの時点で二千八百円もなくなっているんだ。どうしたものか。まあ、ぶっちゃけた話、お金を使う用事も友達も少ないので、特に大きな負担となっているわけではないのだが。
―――「って感じですね」
お客さんが運よく来なかったのもあり、三十分間俺は田川さんにひたすらこの二日間のことを話し続けていた。
「まるで世にも奇妙な物語みたいですね」
腕を組みながら田川さんは言う。感慨深そうに天井を仰ぎ、なにかを懐かしむような表情を浮かべて。
「タモリさんはもう出てきた後かもしれませんね」
冗談っぽくそう言うものの、笑い事ではないのが現状だ。田川さんは視線を腕時計へと向けた。
「すっかり話しこんでしまいましたね。やっぱり面白い話じゃないですか、三上くん」
田川さんの鼻息は荒い。
「ですか? 得体のしれない店員がもう一人いるんですよ?」
俺には不気味極まりない話だ。世にも奇妙な物語はテレビの中だけで十分だ。なにかの間違いだという希望はもうないのだろうか。レジに両手をつき、頭を垂れる。しばらく拭いていないからか、べたべたと手に糊のような粘着感があった。
「あ、三上君」
腕時計をちらりと見直した田川さんは、なにかに気がついたように言った。
「なんですか?」
「今日は、もしかしたら千四百円じゃないかもしれませんよ」
時計を見ながら子供のようにくすくすと笑う田川さん。
「それ、どういうことですか?」
何を根拠に言っているのだろう。
「僕の予想ですよ」
そう言い残し、片手をあげ、のそのそと田川さんは去って行った。お客様ご来店の音が俺だけがいる店内に響いた。
心霊現象は相変わらずだった。煙草は落ち、お客さんは反対へ流れる。なにかの間違いという希望は打ち砕かれた。そして現象は収まるどころか、さらに一つ増えた。
「ポテト一つ」
眼鏡をかけた小太りの中年女性が、低い声でそう告げた。その時だった。レジからピッと音が聞こえた。俺はまだ何も触っていない。だが、レジには表示されていた。お客さんが注文したポテトが。
「……」
あまりの唐突な現象にしばし無言になった。得体のしれないそいつが背後にいないか気になり振り向く。来たのはまたあの悪寒だ。ぞわりと背筋から頭頂部まで伝道していく。だが、誰もいるはずもない。煙草の棚が静かにそびえているだけだ。
「まじか」
思わず素の声でそう漏らした。
「はい?」
客は怪訝に眉をひそめた。あわててショーケースへポテトを取りに行き、レジ袋に詰め込んで会計を済ませた。
そして二時間後、増岡さんが相変わらず長い前髪を垂らしながらレジ点検をする。
「今日も出るんですかね」
「さあな、お前がちゃんとしてたら出ないはずだが」
恐る恐るレジをのぞきこむ。田川さんの千四百円じゃないというのは、どういう意味なのだろう。
「あ?」
増岡さんはさらにおかしな声をあげた。
「どうしたんですか?」
一瞬、今日はゼロなのではと期待した。だが、表示された数字は予想外のものだった。
「いや、まあ、」
「出たんですか」
「出たには、出たんだが」
表示は、マイナス千百五十円。
「お前スランプか?」
「いや違いますよ」
なぜ、三百五十円減ったのだろう。考えていたが、その答えは退勤後、店を出るときに簡単に見つかった。店の入り口に立てられている旗が目に入る。そこにはこう書かれていた。
時給七百円。アルバイト募集。
幽霊は見たことありません。