I wanna be your dog
プロロオグ
彼と出逢ったのは友達のサークルの打ち上げでした。人数が要るからと誘われて行くと、同じように誘われて来ただけの宏くんと出逢いました。いわゆる合コンだったのだと行ってから気づいたのですけれど、そこでカラオケやらゲエムやらしているうちによくあるように気が合って、LINEでお友達登録をしてその日の後も何度か会って、こうして付き合うようになったのです。宏くんは偏差値が少し高めの大学に通っていて、一人暮らしをしていて、顔もまあまあですごく優しい、私の自慢の恋人なのです。
そしてこの日。
世界が愛に満ちました。闇に満ちました。全く真暗な、暗闇に満ちました。
モノロオグ
此処は大好きな彼の部屋。私の大好きな宏くんの部屋。五階の角の、少し狭い、アパートの部屋です。私は別のもっと広いマンションに住んでいます。宏くんは自分の貯金とバイトで稼いだお金でだけ生活をしているからこんなに安いアパートなのです。私の部屋に住まわせてあげたいのだけどこちらは女子専用なので、出来ないのです。なんて残念。だから二人で落ち着いて過ごしたいときはいつも、彼の部屋に来るのです。
今日は宏くんはバイトで忙しいので、今はひとりで此処に居ます。夕方になって少し気温が下がったようで、窓が閉まっていても何となく寒い。お腹も空いてきました。私は右手を、其方にあるはずの、食パンの包みに伸ばしました。このくらいかな。あら、届かない。もうちょっと?……ぎちぎちぎちぎちっ……。
こつり、と肩のあたりの関節が小さく鳴りました。腰もねじれかけたようでした。躰に軽い痛みが走って、唇から思わず声が漏れました。いたい。その後には自然に笑みが浮かんで、ふふふっ、と今度は明るい微笑の音が零れました。
くしゃっ。
嗚、届いた。包みの、針金で止めてある上の部分に指が触れたようなので、人差し指と中指でそこを摘まんで引っ張ります。慣れていないのでぎこちなくなってしまいます。そうしていて大分近づいたのが分かったので、その指を開いて、手で握って寄せました。ふう。さっきからぎちぎちと躰を締めていた縄が緩みました。一本でいいと言ったのは私だけれど、宏くんの言った通り、確かに分けて縛ってもらったほうが動きやすかったかもしれません。いつも高望みというか、楽観的に色々求めるのは私ばっかりで、宏くんはそんな私を解すようにやさしく、叶えてくれます。
伸ばしている脚に触れたのでいったん手を放して、くるくると留め具のそれを外します。外れたら丁寧に折ってパンの横に置きました。両手で持って、思いっきり破きます。はぁ。お腹が空いた。小麦の、あの新品のパンの薫りがしました。一枚手に取ってそれを齧りながら、左隣りに置いてあるペットボトルのお水を飲みます。
真暗だと食べものの味も違うように感じるみたい。特別な気がしてまた、嬉しくなるのです。
今日宏くんは私に目隠しをしました。真黒の布を細長く折って、私の閉じた両目に重ねて丁寧に後ろで結びました。そしてそのまま後ろからロープを器用な手つきで巻き始めます。初めてなんて嘘みたい。最中にそう言うと、宏くんはいつもみたいに笑って、そうかな、と言いました。話している間にロープは綺麗に絡んでいきました。まずそれを左側から首に回して、きつくないように輪にして結びます。専用のものだからか思っていたほどちくちくとはしませんでした。その後は服の上からで肌触りは絞められていく程度だったけれど、その輪に掛けられながら縄が編まれ、肩甲骨、鎖骨、背中、胸、腰、お腹と途中途中に玉結びをしながら、だんだんと躰が固定されていくのを感じるのは、幸福でした。宏くんなんですもの。他の誰でもなく、私の大好きな彼なんですもの。彼にされて嫌なことなんて、私には何にもないのです。
初めてだし興味本位なばかりだったのでいちばん短いサイズにしたロープでも、遠慮して上は肩と二の腕の真中辺りと、下は両足の間を通して尾骨まで縛るだけでは、大分量が余ったようでした。やっぱり両手も固定した方が良かったんじゃないかなあと心の中でひとりごちました。宏くんは優しいから、いきなり本格的に本やサイトに載っているような緊縛をするのに気が引けたのだと思います。恐くなんてないのに。しばらく黙ってそれを這わせていた宏くんは、少し手を止めて考えて、もう人形のようになった私を数十糎、ベッドの角に背が付くように寄せました。そして木製の短い脚に、その残った縄をぐるぐると巻きつけて止めました。真暗な中でも家具の大体の位置ぐらい分っていたし、背中の感触と彼とときどきは私の、汗の滲んだ、シーツとたやすく軋む寝台のにおいはよく知っていましたから、そうされたのはすぐに判りました。ふふふっ、と静かに声が漏れました。嬉しくて仕方ない。
私は自分が子供の頃によく遊んだ、手足の位置を変えられるあの人形のようになっていました。それらの付け根が固定されて、両脚は少し感覚を開いてまっすぐ前に伸ばされていました。両腕は真横に付けて、手のひらは丸めて冷たい床に置いていました。肩が自由でないのでロープのせいで背筋が不自然に伸びている感じがします。ちょっと苦しい気がしました。でも私は笑ったままでした。私の口角は上がったままでした。
彼がベルトを取ったので、宏くんと私は、一度接吻をして、そのまま数度愛し合いました。
しばらく堪能しているうちに時間は経ってしまって、宏くんはバイトに行きました。出かける前、遅刻しそうな宏くんが解く時間がないと言う前に、私はいいと言いました。優しい宏くんはそれでもためらったようだったけれど、急いで服を着ながら、終わったらすぐに帰るから、と言ってくれました。
「ごめん……」
興味があると言ったのは彼で、それなら応えると言ったのは私でした。それにこんなに軽くて、一生傷が残ってしまうとかそういう大変なことではないのに、ただの一つのプレイに過ぎないのに、宏くんはそんな言葉をささやきました。
何にも、誰も、悪くないのに。
宏くんは優しいから、と、ちょっと溜め息をつきながら思いました。
ところで自分でいうのもなんですけれど、私たちは良いアベックだと思っています。ああ、“アベック”という言葉は、昔学校の国語の授業で習ったものなのです。フランス語で、男女のペアのことだそう。昭和の、何だかとても綺麗な小説の中に使われていて、先生が熱を込めて説明していたのが印象的だったので、いつか素敵な恋人が出来たら、こう呼ぼうと決めていたのです。だから宏くんと私はアベック。付き合ってもう一年になるくらいだけれど私たちは、付き合い始めたときと同じようにラヴラヴ、円満なのです。
世界が闇に満ちました。愛に満ちました。全く真暗な、暗闇に満ちました。
きっといつまでも。
この日が過ぎても、私たちは変わらず、仕合わせな毎日を過ごすでしょう。
エピロオグ
数十分前に過ごしたときを思い返す度、目元が熱くなるのを感じました。よく分からない感情が湧きあがって、きっと幸福すぎてそうなったのだと思いました。だって、仕合わせに定義なんてないんですもの。幸せにも、仕合わせにも、その感じ方にだって決まりはないのです。私は宏くんが好きで、だから、宏くんがそばにいてくれて、求めてもらえるのが仕合わせなのです。
お読みいただきありがとうございます。
とにかく緊縛ものが書きたくって、相変わらずお堅い文なのですが書いてしまいました。色んなサイトで縄やら縛り方やらを見つめる日々が新鮮でしたけど、結局あんまり生かせませんでしたね。今度書くときには、もっと細かくそういう要素を入れたいと思います。それまでにもう少し勉強しておく所存です(笑)
さて、タイトルについてですが、岡崎京子さんの短編集から拝借させていただきました。読んでから、はぁこういうものが自分らしく書けたらなぁとすごく感じて、そう思って書いたので。描写力もストーリー性もこうして感銘を受ける作家さんたちにはまだまだ遠く及ばずですが、少しずつでも近づけるように頑張って書いていきますので、これからもよろしくお願いいたします。
お読みいただきありがとうございました。
またお逢いできますように。
平成二五年神無月 白州藍樹