地獄の都 弐
幻想郷の何処かに佇むマヨヒガ。
八雲家の住処として有名であるが、その正確な場所を知るものは誰もいない。その隠れ家の居間にてスキマを開き、三途の川原で呑気に握り飯を食べている三人の剣客の様子を、八雲紫は甘い団子を摘みながら眺めていた。
「まったく、これから地獄へ行こうって態度じゃないわねぇ」
呆れながらも可笑しそうに呟く紫の前に、式神たる八雲藍が熱い茶を淹れてきた。背後に広がる金色の九尾の毛並みが見事で、四肢から溢れる妖気も並のものではない。藍は感情のない顔で湯気の立つ湯呑を差し出した。
「紫様、お茶がはいりました」
「ありがとう。ふふ、見てみなさい彼らを。退屈しないわぁ」
「……旧地獄にいるという連中、一体何者でしょう?」
藍の疑問に、紫は面倒くさそうに頬杖をついて答える。
「知らないわよ。死んだ連中のことなんて。考えてもみなさい。幻想郷はともかく、黄泉の国には此処だけじゃなくて外の世界からも死者が押し寄せるのよ? 一々把握なんてしていられないわ」
「何故彼を行かせたのですか? 本来は博麗の巫女の仕事のはず」
「あら、まだ異変と決まったわけではないわ。それに彼だって修行の成果を掴みたいでしょうし、それに見合うだけの相手もいるわ。力が力だから、こっち側で使われて幻想郷が更地になったら困るもの」
憮然たる面持の藍を他所に、紫はスキマを覗き続けた。
前回の異変の結末は彼女を十分に満足させるものであったし、それによって生み出された彼の従者もまた紫の退屈を解消させてくれるだろう。とはいえ単なる酔狂だけで彼女を生み出したわけではない。
この地獄での一件で白刃の力が目覚めるならば尚良い。
そのための訓練も施したし、あるいは幻想郷における新たな力のバランスとなりえるかもしれない。ここのところ妖怪の数が増え続けている一方で、人間の数は然程変わっていない。
このままでは幻想郷の摂理が壊れるかもしれない。そんな危惧を彼女は抱いていた。
ゆえに、神を宿しながら人であり続ける彼の存在は絶好だった。
何よりもその人気が都合がいい。霊夢は協調性が無く、真理沙は自由奔放。阿求も己の使命に没頭していて、とても人間を纏め上げる暇などない。
里長など空気だ。じきに寿命を迎える。
ならば希望は一人。
「ふふ、ひょっとすると白刃ちゃんの願いが叶う日がくるかもしれないわね。面白くなってきたわ」
覗かれていることにも気づかない刀哉たちは、ようやく霧の彼方から近づいてくる小舟の影を見つけて腰を上げた。
三途の川へたどり着いて一体どれほど経ったのだろうか。
日も傾き始めている。黄昏時に三途の川を渡るとは中々粋なことをしてくれるではないか。さて、件の死神とやらはどんな奴なのかと岸についた船に近づいてみれば……。
「おやおや、まさか生者を三人も渡すことになるとはねぇ。黄泉への渡し賃六文銭、耳を揃えて払ってもらうよ」
威勢の良い声とともに船べりへ片足を乗せ、肩に巨大な鎌を担いだ其の死神の赤い髪の間に、大きなタンコブが膨らんでいた。
しなやかな四肢に纏う蒼い装束もどことなく乱れている。
まるで誰かに叱られて大慌てで駆けつけてきたような様相を呈していた。 誰に叱られたのかは、考えるまでもなかった。
大方向こう側の船着場で居眠りでもしていたのだろう。
死神が働かないというのはある意味で平和なのかもしれないが、勤務中に居眠りをするというのは不届きものであろう。
などと口元を歪めて考える刀哉の代わりに、その豊満な胸を張っている死神に指先を向けたのが白刃だった。
「おい! お主は死神であろう?」
「そうさ。あたいこそが黄泉への船頭、彷徨える魂を導く死神こと小野塚小町ってね」
「ええい、遅参しておきながら偉そうなことを言うでない。わざわざ拙者の殿が出向いてやろうというのに――」
「白刃、その辺にしておけ。少なくとも船が来たのだからな」
「ほう、そっちの兄さんは話が出来るねぇ。成程、四季様が見込まれた通りの人間みたいだ。でも、そっちの子は従者みたいだけど、なんだって半霊のあんたが?」
「ちょっとした武者修行のようなものです」
「へえ、物好きなこと」
元来気楽に生きていこうという小町からすれば、彼らの頑固なまでの生真面目な姿は不可思議なものに映ったろう。あるいは閻魔に近しいものを感じたのかもしれないが、ともかくも渡し船に乗り込んだ三人は岸を離れた。
小町は巧みに櫂を操って舟を滑らせていく。
ふと三途の川の水面を覗いてみたが、あたりに漂う白い霧の所為もあってか、まるで底がしれない。当然ながら魚は泳いでいないらしい。
「気をつけな。一度落ちたら、二度と浮かんでこれないよ?」
「沈めばどうなる?」
「知らないさ。誰も浮かんでこないのだからね」
内心で身震いしながら舟の手すりから離れた。
それにしてもあの世へ向かっているという実感が湧かないのは何故だろうか。あたりの異様なまでの静寂の所為かもしれないし、白玉楼のようにハッキリと霊魂が見えないためかもしれない。
「そういえば、俺はこの舟に乗るのは二度目なのかもしれないな」
「え? どういうことですか?」
首を傾げる妖夢に、己の経緯を改めて話した。
かつて外の世界に在りし頃、今際の際に天から降りた刀神に身を奉げるため、刀哉は一度自決した。その亡骸に神が宿り、本来の魂は既に転生を遂げているのだと八雲紫は語った。
さらに詳しくは閻魔に聞くが、話すうちに奇妙な気分になり、憂いを含んだ白刃と妖夢の視線を受けて乾いた笑いが零れた。果たして転生した魂はどういう人生を歩んでいるのだろうか。人か、それとも畜生か……今となっては知る由もない。もはや知ったところでどうにもならないのだ。
既にもう一人の自分は未来に生きているのだから。
「それにしても主君と家臣の間柄ねぇ。けど、あんただって生を受けたからには何かしらやりたいこととか、夢とかあるんじゃないの?」
気づけば白刃と小町が歓談に興じていた。
妖夢も白刃の夢については興味があるらしく、少し聞き耳を立てて身を乗り出している。彼女は暫し考え込んだ後に一瞬刀哉を盗み見て答えた。
「拙者の夢は……殿を一国一城の主にすること!」
「はぁ!? 一城っていったって、幻想郷の何処に……」
「それはもう見晴らしの良いところがいい! そう、あの寂れた博麗神社とかいう場所が最適であろう! いつか、天下の江戸城や大阪城よりも立派なものをでーんと建ててしまいたい」
「そんなことをしたら霊夢さんに殺されますよ?」
「ふん、元より天下を獲るならば幾千幾万の敵が現れるもの。それに如何なる連中が徒党を組もうとも、拙者にかかれば十把一絡げに蹂躙してくれよう――ぞっ!?」
どんと胸を叩く白刃の脳天に刀哉の手刀が振り下ろされた。
「いたたぁ……何をなさいまするかぁ?」
「阿呆。俺は天下など望んではいない。第一、俺ごときが幻想郷をまとめられるわけがないだろう。冗談ではない。ただでさえ修行が中断されているのだから、いらん野望に現を抜かすわけにはいかん」
「でもお兄様、一国一城とは言わずとも、修行以外で何か夢は無いのですか?」
「人の夢と書いて儚いという。俺はあれこれ理想を抱くよりも、目の前にある現実にぶつかり続けるだけだ。それがたとえ、どれほど高く分厚い壁であっても、な」
「……さあ、もうすぐ到着するよ」
だんだんと辺りを白く染めていた霧が薄まり、周囲に真紅の彼岸花が咲き乱れる巨大な黄泉の国の裁判所が皆の前に現れた。